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花の香り



 あの手紙を読み終えてから、レーネの胸には一つの思いが残り続けていた。

 ――父のことを、もっと知りたい。

 そして、それを知ることができる唯一の人物は、他ならぬ手紙を書いた女性……

 彼女しかいない。


 しかし、手がかりがなかった。

 手紙にはそもそも住所はなかった。


 レーネは仕方なく、あの本の著者である新聞記者――ミュラーを訪ねた。


「……あの人の居場所、なにかご存じないですか?」


 思い切って尋ねると、ミュラーは気まずそうに眉を寄せた。


「私もあの本を書く時に実は会おうと思って探しました。でもわからなかった…あんなに有名だった人なのに…なぜか彼女は自分を…存在を世間に意識させたくなかったのか…いや、忘れてほしかったのかな…わかりませんが…

ところが突然現れて、それで彼女に聞いたんです。いろいろ本の補足を取材するために。けれど……教えてはもらえませんでした…」


「そう、ですか……」


それを聞いてレーネは彼女がそんなにまでして存在を消す、世間から距離を置こうとするのかわらなかった。


「そんなに有名な人だったんですか?」


レーネがそういうとミュラーは少し困った笑いを浮かべながら答えた。


「実はあの本にも彼女のことは書いてんですけど…まあわかりませんよね(笑)名前まで書けなかったんです。本人の了解が…」


あ…レーネはなんとなくそんな内容があの本にあったことを思い出していた。


「すいません…」


「いや、別にいいんですけどね」


 がっくり肩が落ちるレーネ。

恥ずかしかった。肝心なところでこんな恥ずかしいことになるなんて。

 その落胆を見て、ミュラーはしばらく迷ったあと手帳を閉じ、言った。


「あなたが本当に彼女を探したいのなら……一つだけ、あてがあるかもしれません」


「ほんとうですか?」


「ええ。ただ、確実とは言えません。――旧郵便社の本社ビル、今は博物館になっているんですが、そこに記録が残っているかもしれません。」


「博物館……」


「それと。もう一度新聞記事を調べてみます。本を書く時に一応調べたんですけど…念の為…私も協力します。アドリアンさんの手紙を届けようとした人間として、私にも責任がある気がする」


 レーネは思わず涙ぐみそうになった。


「……ありがとうございます」



 ミュラーは翌日からまず初めに自分の集めた資料を調べた。しかし、そこには手掛かりになる情報はなかった。次に新聞社の資料庫をまた最初から探りはじめた。

 古い記事、記者名簿、退役兵の特集記事……。


 しかし、どれだけ調べても彼女の消息の手がかりは何一つ掴めなかった。


「くそ……やっぱりだめか…」


 ミュラーはレーネと休日に博物館へ行くことにした。


 当日、二人が訪れたのは、瀟洒な重厚なレンガの壁に白い柱が並ぶ古い建物――今は郵便博物館になっているその建物はかつて彼女が働いていた本社の姿そのままだった。


 レーネは無意識のうちに胸が高鳴っているのを感じた。

 ここに、彼女がいた。父もいた。父もこの扉を開けたかもしれない。

一歩一歩中に入る。床はかなりすり減っていた。どれだけの人が手紙にいろんな思いを乗せるためにここを訪れたのだろうか…

そしてどれだけの人がここから思いを受け取っていったのか…

そして父もそこに…


いろんな資料が展示されていた。

レーネは古いタイプライターをみていた。

そこには年代の表示があった。

父がいた当時とだいたい同じくらいの時のものだった。

あの文字もこれで打たれたのかもしれない…

そう想像すると今もそのタイプライターのキーが動いてるかのようにみえた。

そしてレーネは一枚の写真が展示されてるのを見つけた。


「レーネさん!」


そう呼ぶ声で視線を変えるとミュラーが手招きしていた。


 博物館の総合案内の受付に要件を問い合わせると、丁寧だが事務的な返事が返ってきた。


「申し訳ありません。社員の個人資料に関しては一般公開しておりません」


「そうですか……」


 予想していた答えとはいえ、レーネは少しがっかりした。

「申し訳ない…わかるとよかったんですけど…」

ミュラーはすまなそうな顔をして頭を下げた。


「少し展示見てもいいですか?」


そういうとレーネはさっきみていた写真のところにもどった。そこには何枚かの写真が並べて展示してあった。

それは郵便会社の社員の写真…

年代を追って並べられていた。 

それを一枚一枚と見ていく…

ある写真のところでレーネの足が止まった…

そこから動かなくなった。

どれだけそのままだっただろ…

レーネはひたすらその写真を見つめていた。

すると突然しゃがみ込んでしまった。

肩が背中が大きく揺れていた。


ミュラーがそれに気づいて駆け寄った。


「大丈夫ですか!どうされました!気分でも…」


レーネはなんとか立った。


「父さんが…」


そういってレーネは写真を指さした。

ミュラーがその写真を見るとそこには郵便会社の社員が集まって並んでいた。


「父さんが…そこに…」


レーネが指さしたところを見ると一人の男性が写っていた。かなりやせた感じで郵便会社の制服を着ていた。

レーネは小さく写っている父親の姿を視界が揺れているのも構わずじっとみていた。

小さい時に別れたきり、その時の記憶…わずかながらの記憶だったが、その写真をみた時にすぐ父だと…

記憶の父親はもっとふっくらしていたのに…

写真の姿はかなり痩せていた…

それでもレーネには分かった。

父親の身に起こったことはわかっていたつもりだった。

でも、この父親の姿をみた途端にまるでそれが自分にも起こったことで目の前で父親に起こったように感じられて…

胸の真ん中がぎゅっと縮んでいく、なにかに掴まれて潰されそうな感覚に襲われていた。


ミュラーがよく見るとレーネの父親は最後列で、最前列には女性達が並んでいた。

そこには…



 二人は館内のカフェに移動し、落ち着いた木のテーブルで向かい合った。


「よかったですね…お父様に会えて…」


「ありがとうございます…ここに来てよかったです…」

レーネはもう落ち着いていた。


「そうですね…すいません…でも結局……なにもわからなくて……」

ミュラーがそういうとレーネは微笑んでいた。

「わかりましたよ!わかったこともありました!」


「そうでしたか…よかった!」


ミュラーはホッとしたかのように納得したかのようにうなずいた。


「まだ諦めるのは早いですよ」


 ミュラーは言い、改めてレーネが持ってきていた手紙を手に取った。


 ミュラーの指が、ふと止まった。


「……この香りだ」


「香り?」


「ほら、この便箋……花の香水のような甘い香りがするでしょう? あなたの方が詳しいと思いますがこれはなんの香りなんですか?」


 「ごめんなさい…私もあまり詳しくなくて…」


レーネは少し恥ずかしそうに下を向いた。


「これがなんの香りなのか聞いてみますか?専門店に行けばわかると思いますが…」

レーネがそういうとミュラーも賛成した。


「そうですね!なにかわかるかもしれません!」



 街の香水専門店で分析してもらうと、店員はすぐに目を丸くした。


「これは……とても珍しい香りですね。特定の島でしか採れない花のエッセンスですよ」


「島……ですか!? そこへ行けばその香りの人に会えますか?」


 思わず身を乗り出すレーネ。だが店員は苦笑いした。


「いえ……このエッセンス自体は、その島から輸入されているんですが、香水としてはどこにでも売っていますよ」


「……そうですか……」

レーネの表情がまた曇る。


「ですが」

「もう一度よろしければ確かめさせていただいてもやるよろしいですか?…」

レーネは店員に便箋を渡した。店員はもう一度便箋の香りを確かめた。

「もしかしたらこれは自家製かもしれませんね…」

「島では家庭で香りを作る方もいらっしゃるということを聞いたことがあります。この香りには添加物がない気がしますので…」


「じゃ…この人は島の人…」

「さあ…そこまでは何とも…」

店員は申し訳なさそうだった。


 だが、ミュラーはそれでも前向きだった。


「でも、その島の香りを使うなにか理由があるのかもしれません…少なくとも“その島とつながりがある可能性”はありました。」


「私……行きます…行きたいです!島に!」


 レーネは初めて、はっきりとした声で言った。


 その瞬間、ミュラーは満足そうに微笑んだ。


「では、決まりですね」


 レーネは島へ向かう決意を固めた。


 レーネは胸の奥で、小さく呟く。


 ――父さん。

 どうか、私にあなたを会わせてください。

 あなたのことを知るために。

 

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