父親の手紙
レーネがあの本を手に取ってからまた季節がいくつか過ぎた。
それでも、胸の奥の疼きは消えない。
ページの中で語られた父の姿は、彼女の中に静かに重石になっていた。それが時々思い出したように痛みを放った。
ある日の朝。
仕事前にいつものように新聞を買って広げていたとき、ふと目の端に小さな広告が引っかかった。
『そして英雄と呼ばれなかった子供らへの中に記載されている少年兵について書かれた個人書簡についての関係者を探しています。
心当たりのある方は下記までご連絡ください。
〇〇新聞社 社会部 〇〇』
記事の隅のごく小さな枠。
なにも関係なければ誰も気にしなさそうな新聞広告。
だが――
レーネの心臓は、その瞬間だけ不自然なほど高鳴った。
新聞を持つ手に力が入った。彼女は大きく息を吸はいた。
「……ルーカスに、相談しないと」
ルーカスは、広告を見た瞬間に眉を寄せた。
「……まだ、それにこだわってるのかよ」
声には、うんざりを越えた苛立ちが滲んでいた。
レーネは視線を落とした。
「ごめん……でも、もし……もしまだ、何か分かるなら」
「何も変わらないよ。父親なんて、記憶にもないのに…」
いつもの冷淡な言い方だ。
しかしその奥には、ルーカスなりの“距離の取り方”があることをレーネは知っていた。
それでも――
今日だけは引けなかった。
「……一緒に来てほしいの。怖いから…お願い…」
その一言に、ルーカスは舌打ちし、乱暴に髪をかき上げた。
「分かったよ。行けばいいんだろ…」
しぶしぶではあったが、拒まなかった。
レーネはほっと息をついた。
新聞社の一室。
壁にはいろんな広告やポスターが並び、外からは忙しい新聞社の喧騒が聞こえてきていた。
ドアが開くとその喧騒とともに入ってきたのは
柔らかい笑みを浮かべた男性が姿を現した。
この新聞社の記者でありあの本の著者、広告の主でもある男だ。
「お越しくださってありがとうございます。私は――」
記者は丁寧に名乗った。
レーネとルーカスもそれに倣い、名を告げた。
その瞬間だった。
記者の目が大きく見開かれ、口元が不自然にほころんだ。
「……そうですか!」
あまりに突然の笑顔。
レーネとルーカスは思わず顔を見合わせた。
ルーカスが怪訝な声を出した。
「なにが“そう”なんです?」
記者は、にこにこと静かに答えた。
「お二人が、あの書簡の関係者だと確信しました」
「……どうして、名乗っただけで断言できるんです?」
「広告には探してる人の名前を載せませんでした。ですが、私はその書簡の差出人と宛先の名前を知っていましたからね…」
レーネの心臓が大きく鼓動した。
「……どういう……ことですか……?」
記者は少し姿勢を正し、静かに語り始めた。
「実は私の本が出てしばらくしたひとりの女性が私を訪ねてきましてね…」
レーネの息が止まった。
「……女性?」
「ええ。その人はあの書簡、いや…手紙ですね…その代筆者の方です…」
あ…とレーネは持ってきていた昔祖父母の遺品としてもらった郵便会社からの通知を取り出していた。
「あ、それお持ちでしたか…見せていただいていいですか?」
レーネは記者にそれを渡した。
「なるほど…たしかに…」
記者はそれをじっくりと観察するようにみると
「よかったらこの通知についてお話していただけませんか?この通知はかなり昔…お父様が代筆を頼まれた頃にもう出されたはずのものですが…」
レーネは一瞬ルーカスの方をみた。
ルーカスは全くの無表情といってもいいくらいの顔つきだった。
諦めてレーネは話をすることに…
祖父母の遺品の中にあったこと…
祖父母は父の存在を自分達から消したかったのではないか…思い出させたくなかった…のでは…
「そうですか…それで…すいません、立ち入ったお話をしていただくことになって…」
記者は続ける。
「実は代筆者の彼女はあなた方のお父上、アドリアンさんの書簡がいまだに届けられていないことに驚いていました。そして深く悔いていました。代書部門の規則で代書したものはしばらくその写しを保管することになっていたそうです…まあどこでも仕事の成果は残すものですからね…
それが政府の極秘調査に引っかかることになって…これは当時は一部の上層部しか知らなかったことなんですが…」
記者はそういうとお茶を一口飲んだ。
それに合わせるように二人も。
レーネは父がそんなに重要なことに関わっていた事を改めて思い知らされた。それは記者の本を読んだ時にも感じていたが今はその時以上に。
記者は続けた。
「それで私の本が出て、その本を代筆者の彼女が読んだんですね…そこで自分がアドリアンさんに頼まれて書いた手紙がもしかして貴方方に渡ってないのではないかと思ったそうです。そして私を訪ねてきた…」
記者が言うには彼女は郵便会社まで行って確かめたそうだ。すると未だに受領不可だということだった。彼女はそこで記者を訪ねることになった。
彼女は記者に昔の自分の立場を証明する書類をいくつか見せた。そしてあの通知の写しも。
それで記者は彼女が代筆者だと確信した。
そして彼女はあるものを記者にみせた。
「驚きました…それは手紙の写しだったんです…彼女自身がようやく辿り着いた結論だったそうです。“もしどうしても受け取る方法がないなら渡してほしい”と…」
そういうと記者は床に置いていたバッグを取り、そこから小包のようなものを取り出した。それはしっかりと梱包されていた。
「これが、その写しです。原本は今も機密扱いのままですが……内容は、この通りです」
「これでは中身も確認できませんが(笑)…でも私は彼女の言葉を信じました。彼女は自分にはこれを渡さないといけない気がすると言ってました。それは生き残った者の責任だとも…それにお父様がこれを残すきっかけを作ったのも自分だからと…」
記者はその小包を2人の前に差し出した。
レーネはそれをじっとみていた。
ルーカスはちらりと見てそれを手に取った。
またすぐ戻していた。
二人は無言だった…
「どうして見なかったんですか?」
突然ルーカスが話し出した。
記者はニコニコしながら答えた。
「ええ…記者の立場からいえば中には興味あります…でもそれとこれとは別ですから(笑)」
ふーんとしたルーカスの顔つき。
「これはいただいても…」
レーネは記者に尋ねた。
「もちろんです!これはお父様からあなたたちへの手紙なんですから!それが彼女の願いでもありますからね(笑)」
手紙は、とうとう彼女の手に届いたのだ。
長い年月を越え、失われかけた縁が、静かに繋がり直した――。
今この瞬間受け取れなかった手紙が、読めないかもしれなかった手紙が2人の手元に。
しかし、レーネには想像していたほどなんの感動もなかった。
感動というより安心だった。やっと…
あれからなにもなかった父親の存在が今やっとここにあった。
ちゃんと父親はいたし、生きていた。
忘れてないとやってこれなかったし、忘れててもなんの問題もなかった。
でもやはりいたことは否定できない。
ただそういうことだけが彼女の中にあった。
二人はそれを持って新聞社をあとにした。




