レーネの葛藤
◆本屋にて ― 偶然の邂逅
ルーカスは、珍しく立ち止まっていた。
街の本屋の、新刊台の前。
無造作に積まれた分厚い書籍の表紙には、重い灰色の背景に、ひどく簡素な文字が刻まれていた。
『そして英雄と呼ばれなかった子供らへ』
そのタイトルが、なぜかルーカスの視線を捕らえた。
彼は興味があったわけではない。
ただ、手に取ってページをめくったとき――ほんの数行、ある名前が目に飛び込んできたのだ。
アドリアン…
その瞬間、何かが僅かに動いた。
驚きか、戸惑いか。
彼自身にも分からなかった。
ただ、そのまま本を買い、抱えて帰路についた。
「……これ」
ルーカスはテーブルに本を置くと、まるで夕食の皿を置くように淡々とレーネへ押しやった。
レーネは驚いた顔で本を手に取る。
「なに?これ…どうしたの?」
「本屋にあった。……父さんの名前が出てくる」
レーネの指が震えた。
「ほんとうに?」
「見ればいい…」
あくまで冷たい調子。
興味がないのではなく、距離を置いているだけの声。
父という存在に対して――ルーカスはずっとこうだった。
レーネは本を胸に抱きしめた。
「ありがとう……ルーカス」
「別に…」
ルーカスはそれ以上言わず帰って行った、
ドアが閉まったあと、レーネはその場に立ち尽くした。
レーネは毎晩、ベッドの上で本を開いた。
ページをめくる指はいつも冷たかった。
そこには、戦争末期の少年兵部隊の極秘資料が綿密に記されていた。
作者である新聞記者が公開文書を掘り起こし、取材した内容だ。
帝国が、共和国に対抗するため、非公式に子供たちを戦闘に投入していたこと。
その実態は戦後長らく国家機密とされ、歴史から消されたこと。
そして――
その部隊に、アドリアンの所属部隊が深く関わっていたこと。
レーネはページをめくるたび、胸が締めつけられた。
後半に至り、ある一節がレーネの目をとらえて離さなかった。
『戦後長く非公開とされた文書の中に、
少年兵部隊に関わった帝国軍兵士の“個人的書簡”も含まれていた。
書簡が機密扱いになった理由は、その内容が少年兵の実情を含んでいたからである。
共和国政府と帝国政府との協定により、少年兵部隊の詳細は沈黙のまま封印された。』
レーネの手が止まった。
しばらく、呼吸ができなかった。
――父の手紙は、あの少年兵のことを書いていた……。
あの日、国営郵便局で“受領不可”と言われた理由が、今繋がった。
ベッドの上に膝を抱えて、レーネは何時間も動けなかった。
怖かった。
父が戦場で何を見たのか。
少年兵たちと、どんな時間を過ごしたのか。
どんな思いで手紙を書いたのか。
読めば――
そのすべてが、自分の胸に流れ込んでくる。
そして、その痛みを想像しただけで、胸が裂けるように苦しかった。
――私は……受け取っていいんだろうか。
父が関わった“少年兵部隊”。
本に描かれるその実情は、あまりにも過酷で非情で残酷で、読むのも辛かった。
父も、その中にいた。
その事実が、レーネの心を何度も揺らした。
手紙を受け取ることは、
過去と向き合うことそのものだった。
蓋を閉じたままにしておけば、傷は開かない。
でも――
それでも、自分の中に少しだけ残る“父の記憶”は、前に進めないままだ。
「……どうすればいいの……お父さん…」
名前を呼んだ瞬間、涙がこぼれた。
父がどんな人だったか、ほんとうは知りたい。
でも、知るのが怖い。
レーネの心は、まるで氷と炎を抱え込んだように揺れ続けた。
その夜、彼女は本を胸に抱いたまま、眠れないまま朝を迎えた。




