ラウレンの手帳
二人は通常の仕事をしながら互いに空いた時間で作業をしていた。
特に彼女は依頼が多く、出張も多かった。それくらい忙しかったのでどちらかといえば彼女の空いた時間にアドリアンが合わせるのが普通になっていた。
時間もまちまち…
用紙が1枚で終わることさえあった。
それでも二人は続けていた。
アドリアンが彼女に話をし始めてからもう何ヶ月も過ぎていたある日
代書部門の部屋には、いつものようにタイプライターの音が響いていた。
金属の打鍵音が一定のリズムで部屋の空気を震わせ、壁際の花瓶の水面がかすかに揺れているのもそのせいかとも思えるほどだった。
アドリアンは机の向かいで、いつもより落ち着かない様子だった。
彼の手の中には、黒ずんだ布の表紙の小さな手帳が握られていた。
打鍵の音が止む。彼女が顔を上げる。
「どうかしましたか?」
アドリアンは一瞬ためらったあと、静かにそれを机の上に置いた。
「……これを、見てもらえますか」
彼女は表紙に指を伸ばす。手袋越しに、古い紙の感触が伝わる。
表紙にはかすれて読めないほどの文字で《R・L》とだけ書かれていた。
「これは?」
「戦争の時、同じ部隊にいた兵士の手帳です」
アドリアンの声はどこか遠くを見ているようだった。
「ラウレンという男で俺より若かったが、あの部隊では珍しくよく笑うやつでね。 いつも“書き残さないと消える”と言ってました」
彼女は手帳を開く。
中には泥と血で汚れたページ、震える筆跡。
少年たちの名前が繰り返し出てくる。
“アルト”、“クララ”、“カイル”…。
彼女はページをめくるたびに息を飲んだ。
――“今日、アルトが笑った。”
――“クララが怪我をした。俺は何もできなかった。”
――“アドリアンは子どもたちに優しすぎる。でもその優しさが俺たちを支えている。”
手帳を読み進める彼女のその金属の手が震えるのがわかった。
タイプライターのキーを押す動作とは違う、静かな震えだった。
「……これは…」
「…最後まで書き切れなかったんだ…」
この言葉で彼女は全てを悟った。
アドリアンは少し俯いて続けた。
「俺が受け取ったのは最後の作戦の夜だった。
“もし俺がやられたらお前が必ず預かってくれ”と言われた。」
彼女は黙って手帳を閉じた。
彼女の義手の指先が、表紙をなぞる。
「アドリアンさん…」
「この手帳は……」
アドリアンは顔を上げる。
「別にこれをどうこうしようという気はいまさらなにもない…ただあなたに知ってほしかったんだ…いやな奴だと思われてもいい…あなたなら安心して話せる…わかってもらえる…そう思っただけです…」
「私はなにをしたら…」
「なにかしてほしいということはないんです…ただ自分が勝手にしたかっただけで…少しでもあの子達のことを誰かに覚えておいてほしい…」
「すいません…いやな思いをさせて…」
彼女はただ黙ったまま膝の上でその手帳を握りしめていた。
二人の間に沈黙が流れた。
「私は代書しかできません…」
突然彼女が口を開いた。
「ですからこの手帳もきちんと整理して清書して代書させていただけませんか?」
彼女からの言葉はアドリアンを少し驚かせた。
積極的には触れたくない内容のはずなのに…
「いいんですか?これを代書作業したら…」
「はい。構いません、あなたは依頼する立場ですし、その方が覚えておいてほしいと依頼されたので…」
彼女は静かに微笑んだ。
この時アドリアンには彼女が自分の抱えてる荷を一緒に背負ってくれるのだと思った。しかしそれは彼女にとっては辛い荷を背負うことになると…
それでもいいと…
それだけで十分だった。
「これはあなた一人の物語ではありません。ラウレンさんも、アルトさんも、クララさんも。そして、その人たちの“存在の証”です。私が書き残すことで生きていた証になると思います…」
アドリアンは何かを堪えるように唇を結んだ。
机の上の手帳にそっと手を置く。
「……じゃあ、お願いします。あいつらの話としても残してほしい」
彼女は深くうなずいた。
再びタイプライターの打鍵音が響き始める。
金属の音が部屋の空気を叩き、静かな誓いのように響き渡った。
彼女は出張の合間などでその手帳を読んでいた。
列車で駅で船で…
それを読む彼女の表情は日に日に固くなっていた。
それは自分の過去の戦争の記憶と向き合ことになっていたからだった。




