幸福の隠し味
人は、美味しいものを食べている時にこそ至高の幸福を得られる。
そう、それがたとえ粗末な料理だとしても。
だが、今はどんなに手間暇かけたフルコースを作れたとしても、それには遠く及ばないのだった。
※
「あら。ねえマイラ、この近くに高級料理店が出来るそうよ」
スタイラが朝の新聞を読みながら兄に声を掛ける。
マイラは珍しくコーヒーを飲みながら、それに反応した。
「へえ、高級料理店か。どんな品を出すんだろうね」
「そうね、きっと見たことの無い材料や調味料を使ってるんじゃないかしら。まぁ、私達じゃとても行けないけど」
「でも、興味はあるんだよね? スタイラは割と、食事にこだわるから」
まるで食い意地が張っていると思われたかのような気分になり、スタイラは軽くむくれた。
「何よ、毎日質素なパンとスープで我慢してるじゃない」
「でも、たまにはいい魚や肉も食べたいんだろう?」
「当たり前よ。いい食事はモチベーションにも繋がるんだから」
小さい店を運営しているだけで、毎月の出費はそれなりに嵩む。
場所代、家賃、材料費、そして食費。
二人の作るオルゴールは特殊な為、客が増えても予約待ちになる。その間も当然、出費は発生する。
「どうせなら、場所代とか家賃を免除して欲しかったわ」
「まあまあ。人の中に紛れて過ごすには、ズルは出来ないって事だよ。さ、そろそろ開店しようか」
コーヒーを飲み干したマイラが、立ち上がって店の方に出る。
スタイラも新聞を閉じて棚の上に置いた。
今日も客を待ちながら、持ち主の分からないオルゴールを作る作業になるだろう。
そう考えていると、マイラが戻ってきて言った。
「ごめん、スタイラ。お茶の用意をお願い出来る?」
「いいわよ。今日はいきなり来たのね」
「うん。じゃあ僕は話を聞いているから」
朝一番の来客。面倒な客でなければいいと思いながら、スタイラはお湯を沸かすのだった。
※
クィーレは焦っていた。
どんなレシピを思い付いても、理想の味に届かないのだ。
せっかく、新店舗の料理長となれたのに、このままでは客も仲間も失望させてしまう。
だがそんな悩みを打ち明けようものなら、たちまち立場を奪われてしまうだろう。
せっかく下働きを何年も続けて、のし上がってきたのだ。ここで躓くわけにはいかない。
そんな彼の手には、一本のスプーンが握られていた。
「……なるほど。事情は分かりました。しかしどうやってこの店の事を?」
店主という少年の問いかけに、クィーレは懐から一枚の切り抜きを取り出す。
そこには、この店について詳しく書かれた記事があった。
「雑誌にこの記事が載っていたんだ。思い出をオルゴールにして、聴く度に鮮明な記憶を呼び起こす、と。もしかしたら、それなら私のレシピにも命が宿るのではないか、とね」
「そういう副次的効果は期待しないで。あくまでうちの店が作るのは、思い出をオルゴールという形にしたものよ」
少女がきっぱり言う。だが、記事通りなら、依頼した者は寸分違わぬ記憶を思い出せるのだ。
今のクィーレには、どうしても朧げにしか思い出せない記憶。それも、この店なら思い出させてくれるはず。
「分かっている。だが、どうしても必要なんだ」
「で、そのスプーンは何の思い出があるの?」
少女の問いかけに、クィーレは何とか記憶を辿って答える。
「あれは、私がまだ幼い頃だった。母がいつも通り食事を作っていて、私はそれを見るのが好きだった。ある日、母がこのスプーンで、何かを掬って……私に、差し出した。『これを鍋に入れたら完成よ』と」
何を作っていたのか、何を入れていたのか、思い出せない。
肝心の母は、数年前に亡くなってしまった。
「その時の味も覚えていないが……とても美味しかった事は覚えている。完全に忘れる前に思い出したいんだ」
双子の店主は顔を見合わせてから、頷いた。
「分かりました。そのスプーンをお渡し下さい」
「記憶も預かるわね」
「! ああ、頼む。それで、その……なるべく早く作ってもらえないだろうか」
あまり時間がない。一ヶ月も待たされたりしたら、困ってしまう。
すると少年が苦笑した。
「本来ならばこちらで指定するのですが、お急ぎならば二週間でお作りします」
「適当な仕事は出来ないの。悪いけど、それ以上は早く作れないわ」
少女の言葉に、クィーレはこくこくと頷く。
二週間ならば、まだ間に合うはずだ。
「構わない。では、よろしく頼むよ」
そうして店を出ると、まっすぐ、新しい自分の店へと向かう。
中では、部下になる仲間達がテーブルなどのセッティングをしていた。
「あ、料理長! お帰りなさい」
「楽しみにしてますよ! 何しろ、新作は料理長が一から手掛けたレシピなんですから!」
「ああ。私も今、レシピを詰めているところだ。私は厨房に行く。用事があったら、声をかけてくれ」
クィーレはそう言って、奥にある厨房に向かう。
そこにはいい匂いが漂っていた。
「これは……?」
「あぁっ、すみません、料理長! さっきまでまかないを作ってまして! と言っても簡単なスープなんですが」
部下の一人が慌てて入ってきて、そう言った。鍋にはまだ、少しだけスープが残っている。
「残りをいただいても?」
「えっ、いいんですか!? じゃ、じゃあ、是非!」
部下がスープ皿にスープを注ぐ。
ことり、と置かれた皿には、澄んだ琥珀色のスープが僅かな具と共に入っていた。
渡されたスプーンで一口掬って、口に運ぶ。
途端に、驚愕した。
「これを……君が?」
「はっ、はい。あの……何か、まずかったですか?」
「いや、違うんだ。……これは、隠し味に、ミントかね?」
ほんのわずかだが、清涼感のある香りがした。
部下は驚いて頷く。
「はいっ。ものは試しで入れてみたんです。皆、肉体労働をしているので、ちょっとさっぱりした気持ちになって欲しくて」
「うむ、悪くないな。少しクセになる味だ。好みは分かれるだろうがね」
「そうなんですよね。美味しくないって人も居たので、ちょっとへこんでたんですが……料理長の口に合いましたら、何よりです!」
彼は料理に対して誠実だ。それが伝わってくる。
何より、クィーレの求めた理想の味にかなり近い。
このままでは、追い越されてしまう。
「君は……この料理を作る時に、何を考えていたんだ?」
「えっと、少しでも皆の心と体が回復出来たらなって……」
「そうか。君は、優しいんだな」
スープを飲み切り、クィーレは言う。
「また今度、作ってくれ。美味しかった」
「あっ、ありがとうございますっ!」
ぺこり、とお辞儀をする部下は、また店側へと戻っていった。
一人になった厨房で、クィーレは天井を仰ぐ。
「皆の為か……」
本当に足りていないのは、記憶ではないのかもしれない。
厨房の奥に隠していたレシピを取り出して、目を通す。
どれもこれも、独善的な意思が透けて見えた。
「これではダメだ……」
ぐしゃりと、レシピを握り潰す。
開店まであと一ヶ月だった。
※
『おかーさん、ぼくも、おてつだいしたい!』
『あらあら、嬉しいわねえ。じゃあ、ほら……これをどうぞ』
シチューが煮込まれた鍋を前に、幼いクィーレは、母親から小さなスプーンを渡された。
そして、瓶に入った蜂蜜を、そのスプーンでひと匙掬って、鍋に入れる。
『おかあさん、これ、あまくないの?』
『ええ、大丈夫よ。これが美味しさの隠し味なの』
隠し味って何だろう、とクィーレは思ったが、その日の食卓に出てきたシチューは、いつもより美味しく感じた。
『おかーさん、かくしあじ、ってすごいね!』
『そうよ。ほんのちょっとだけでも美味しくなるの。大きくなったら、クィーレも自分で作ってみてね』
そう言って微笑む母親の姿。今はもう、見ることも叶わない。
だが、安堵した。
「ああ、これだったのか。私が忘れていたものは」
「お気に召して頂けましたか?」
少年の声に、頷く。
クィーレは代金を支払うと、そのオルゴールを持ってまっすぐ自宅に帰った。
「ああ、素晴らしい。新しいレシピが湧いてくる!」
書き殴るように連ねていくレシピは、一晩で十数個にも及んだ。
そして迎えた新店舗オープンの日。
料理長の作った料理を口にした人は揃って、満足そうな顔をしていたという。
※
ちりりん、とドアベルが響く。
ドアの近くでは、所在なげに双子の少年と少女が、店内を見渡していた。
全くこの店にそぐわないが、彼らにとっては一張羅でもある格好で。
クィーレが奥から出てきて、一礼した。
「ようこそ、お待ちしておりました。さあ、お席へご案内致します」
「お招き、感謝します。僕達、マナーなどはよく分からないんですが、大丈夫ですか?」
「ええ、何なりとお聞きください。今日はお二人の為だけに店を開けました。存分に、私の料理を楽しんでいってください」
――あれからこの店は、一年先まで予約でいっぱいになった。
今日はその合間を縫って、わざわざ定休日に店を開いて、クィーレはオルゴール屋の双子を招待したのである。
感謝してもしきれない。あれから何度もオルゴールを聴き、その度に新しいレシピが生まれ、料理となって人々の至福の時間となっている。
料理を作った際は時折、部下の意見も取り入れていた。特にミント入りスープを作った部下の意見は斬新で、重宝していた。
さて、彼らはどんな顔で料理を味わってくれるのだろうか。
フルコースの前菜を準備しながら、クィーレは胸を躍らせるのだった。




