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君がいなくなって、ようやく恋だと知った 〜幼馴染を失った彼の後悔〜  作者: 恋せよ恋


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第9話 沈黙の決意

 学園の図書室。その最奥にある「国外史・教育制度」の棚の前で、私は一冊の分厚い資料を手に取っていた。



 ――ローゼンタール王国、交換留学制度について。


 隣国ローゼンタールは、我が国よりも学問と実利を重んじる気風がある。特に、自立した女性の社会進出や領地経営への参画において、先進的な教育を行っていることで有名だった。



 これまでは、この制度を「私とは無縁のもの」だと思っていた。


 なぜなら、私の未来はユリウスの隣にあると、疑いもせずに信じ込んでいたから。彼を支える良き妻、良き相談役。そのための教養は、この国の学園で十分得られると考えていた。



(けれど……今の私に必要なのは、彼を支えるための知恵じゃない)


 資料をめくる指に力がこもる。



 彼がいなくても、一人の「ビビアン・ドルーマン」として立っていけるだけの力。彼の「正義感」や「気まぐれな同情」に左右されず、自分の人生を肯定できる場所。


 それを手に入れるために、私はこの国を、彼を、離れる決意を固めた。



 それからの日々、私は「猛勉強」という盾を構えた。



 朝は誰よりも早く学園に行き、放課後はユリウスを待つことなく図書室へ籠もる。彼からたまに送られてくる「今日もジャネット嬢を助けてくる。ビビはわかってくれるよね」という伝言は、もはや私の心を揺らすことはなかった。



 そんなある日の休日、実家のサロンで、私は避けては通れない相手と対峙することになった。

 ユリウスの母、リッチモンド伯爵夫人ハリエットおば様だ。



 私の母とは学生時代からの親友で、私を本当の娘のように可愛がってくれているハリエットおば様。彼女は、穏やかなティータイムの最中、ふと不思議そうに首を傾げた。



「そういえばビビちゃん。最近はユリウスと一緒に通学していないの? 今日も伯爵邸に立ち寄らなかったようだけど……他にお友達でもできたのかしら?」


 おば様の悪意のない問いに、私の隣に座る母も、心配そうにこちらを見た。


 私は、手にしていたカップを静かにソーサーに戻した。その音さえ立てないように。



「……おば様。ユリウスは今、シシリー男爵家のジャネット嬢を毎日送り迎えしているのです。ですから、私たちは別行動になりました」



 サロンの空気が、凍りついたように静まり返った。


 おば様は、持っていた扇子を思わず落としそうになり、目を見開いた。



「えっ! どういうこと? なぜユリウスが、男爵令嬢を送り迎えなんて……。あの子、私にはそんなこと一言も……」


「彼女は今、学園で心ない嫌がらせを受けていて、とても不遇な立場にあるそうなのです。ユリウスは彼女の助けになりたいのだと言っていました。……正義感が強く、優しいユリウスらしいですよね」


 私は、淀みなく答えた。


 声にトゲを混ぜることも、恨みがましい色を乗せることもなかった。ただ、客観的な事実を、まるで他人の噂話のように淡々と。



 それが、おば様にはかえって衝撃だったようだ。彼女は絶句し、震える声で私に問いかけた。


「……ビビちゃん。あなたは、それでいいの?」



 その問いに、私は微笑みを作った。


 幼い頃から、ユリウスに相応しい女性であるために訓練してきた、完璧な淑女の微笑みを。



「決めるのはユリウスです。私がとやかく言える立場にはありませんわ」



 おば様と母の視線が、痛いほど私に突き刺さる。


 そこにあるのは、明らかな「憐憫」と「不安」だった。



 かつてなら、私はこの視線に耐えきれず、ユリウスを庇う言葉を並べたかもしれない。あるいは、自分の辛さを吐露して、誰かに縋ったかもしれない。


 けれど、今の私にはそれさえも気まずかった。


 同情されるということは、私が「敗北者」であることを認められるのと同じだ。

 私はユリウスを失ったのではない。自分から彼を見限り、新しい世界へ行こうとしている。



 その決意は、誰にも邪魔されたくなかった。



「……少し、勉強が立て込んでおりますので、失礼いたしますね。おば様、お母様。お茶をご馳走様でした」


 私は、逃げるようにサロンを後にした。



 背後で、母たちが「ユリウスを厳しく叱らなくては」「でも、あの子のあの頑固な正義感は……」と囁き合っているのが聞こえた。



 自室に戻り、扉を閉める。


 ふう、と深く息を吐き出すと、机の上にはローゼンタール王国への留学願書が置かれていた。


 

 提出期限は一ヶ月後。


 二年の新学期からは、私はもうこの国にはいないはずだ。

 ユリウスに相談する必要も、報告する必要もない。

 

 彼は今、ジャネット嬢を助けることに夢中で、私の不在など気に留める余裕もないだろう。


 彼が私の変化に気づくのは、きっと、全てが終わってから。

 「君ならわかってくれる」と、空っぽの隣の席に向かって微笑みかけるその日まで。

 


 私は、ペンを握った。

 震える指先を、もう片方の手で押さえ込み、一文字ずつ丁寧に、自分の未来を書き込んでいく。

 


 寂しさがないと言えば、嘘になる。


 けれど、誰かの「ついで」として生きる幸福よりも、一人で立ち、自分の足で歩く自由の方が、今の私にはずっと眩しく、価値があるものに思えた。


 

 沈黙の決意を胸に、私はただ、ペンを走らせ続けた。


 私の瞳には、かつてユリウスに向けたものとは違う、冷たくも鋭い「希望」の光が宿っていた。

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