第8話 消えゆく私の特等席
学園の喧騒から少し離れた、放課後の東屋。
かつては私とユリウスが、その日の講義の内容や、領地の特産品の話、あるいは幼い頃に読んだ絵本の続きについて、穏やかに語らっていた場所だ。
久しぶりに、二人きりでお茶を飲む時間が取れた。
ジャネット様が、今日は領地経営課の補講で遅くなるから、というのがその理由だった。
「彼女の代わりの時間」として用意された、たった三十分のティータイム。それでも私は、彼に伝えたいことがあった。最近、領地から届いた手紙のこと、そして私たちが共有してきた「未来」について――。
「――それでね、ビビ。驚いたことに、ジャネット嬢はたった一晩で、あの複雑な灌漑施設の計算を解き明かしたんだよ」
けれど、紅茶が冷めていくなかで響くのは、私ではない少女の名前ばかりだった。
ユリウスは、私が口を開く隙も与えないほどの熱量で語り続けている。
「彼女は本当に素晴らしいんだ。家柄や環境に恵まれてこなかっただけで、その才能は、僕たちが知るどの令嬢よりも輝いている。……あ、そうだ。彼女の家の領地で、今度新しい農法を試すことになったんだ。僕も放課後に手伝いに行こうと思っているんだよ」
ユリウスの瞳は、未来への希望に満ちて輝いている。
彼が見つめているのは、もはや私との穏やかな安らぎではなく、一人の少女を救い出し、共に困難に立ち向かう「英雄譚」のワンシーンなのだ。
「……ユリウス。それは素晴らしいわね」
私は、冷めきった紅茶を一口含んだ。渋みが舌に残る。
「でも、あなたの家の仕事は大丈夫なの? おじ様も、最近あなたが他家の領地経営に深く入り込みすぎているのを心配されていたけれど」
「父上は、ジャネット嬢のことをよく知らないからそうおっしゃるんだ。ビビ、君ならわかってくれるだろう? 彼女には僕が必要なんだ。彼女を放っておくことは、リッチモンド家の誇りにかけてもできない」
――また、その言葉。
『君ならわかってくれる』。
彼は、私が「理解者」という役割を演じることに限界を感じているなど、露ほども思っていない。私がどれほど寂しく、惨めな思いで彼の武勇伝を聞かされているか、想像すらしていない。
「ねえ、ユリウス。私の話も、少し聞いてもらえるかしら。お母様たちが、来月のドルーマン家の晩餐会のことについて……」
「ああ、ごめん、ビビ! もうこんな時間か!」
ユリウスは懐中時計を確認すると、慌てて席を立った。
「ジャネット嬢の補講が終わる時間だ。彼女、数学の基礎がまだ少し不安だと言っていたから、迎えに行って図書室で教えてあげないと」
私の言葉は、風にさらわれるようにして消えた。
ユリウスは立ち去り際、申し訳程度に私の肩を軽く叩いた。
「晩餐会のことは、また今度聞かせてよ。ビビなら、僕がいなくても完璧に準備できるだろうしね。じゃあ、また明日!」
彼の後ろ姿が、遠ざかっていく。
一度も、振り返ることはなかった。
私は、一人残された東屋で、空になったカップを見つめていた。
完璧。自立。思慮深い。
彼が私を称賛するたびに、私は「女」として、そして「恋人候補」として死んでいくような気がした。
彼は私を愛していると言うかもしれない。けれど、それはきっと「使い勝手の良い、壊れない道具」に対する愛着と変わらない。
私がどんなに傷ついても、私は泣かない。
私がどんなに寂しくても、私は彼を責めない。
そんな「都合の良い幼馴染」という居場所は、もう私の心を温めてはくれなかった。
(……もう、いいわ)
不意に、霧が晴れるように心が軽くなった。
私は、ユリウスの隣に相応しい女性になろうと、ずっと自分を縛り付けてきた。
けれど、彼が求めているのが「守るべき弱さ」なのだとしたら、私がどんなに努力しても、彼の望む正解には辿り着けない。
彼には、ジャネット様がふさわしい。
そして私には、私を「便利な背景」としてではなく、一人の人間として、あるいは一人の女性として見てくれる、別の場所が必要なのだ。
「さようなら、ユリウス」
誰もいない東屋で、私は小さく呟いた。
これまでの十数年。彼を想って磨き上げた教養も、耐えてきた孤独も、すべて私が私であるための力に変えよう。
彼に頼ることをやめた瞬間、私は初めて、自分の人生の舵を握ったような気がした。
もう、彼の顔色を窺って微笑む必要はない。
私は静かに立ち上がり、自分の足で、自分のための未来へ向かって歩き始めた。
まずは、図書室へ向かおう。彼らが仲睦まじく勉強している場所ではない、学園の奥深く。
そこにあるはずの、「交換留学制度」の資料を探すために。




