第5話 学園での噂
学園の空気は、一度濁り始めると驚くほど速く、そして容赦なく肌を刺す毒に変わる。
淑女課のラウンジ、刺繍の講義を待つ穏やかなはずのひとときは、今や私にとって最も息苦しい場所となっていた。
「あら、ビビアン様。今日もお一人ですの?」
扇で口元を隠し、クスクスと笑い声を上げるのは、子爵令嬢のエレンだった。彼女の周囲には、いつものように噂好きの令嬢たちが集まっている。
「リッチモンド家の馬車、最近は毎日『別の場所』へお迎えに上がっているそうですわね。男爵家のタウンハウスだとか……」
「……ええ。お困りの方がいらっしゃると、ユリウスから聞いておりますわ」
私は動揺を悟られぬよう、手元の布地に針を通した。けれど、周囲の視線は容赦なく私を値踏みし、嘲笑う。
「でも、あちらのジャネット様は、まるでお伽話のヒロインのように可憐な方ですもの。リッチモンド様がああも熱心に通われるのも、無理はありませんわよね」
「それに比べて……失礼、でも『幼馴染』というだけの関係では、いつまでもお側にいられるとは限りませんわよ?」
『所詮は、婚約者ですらないただの幼馴染』
『あの美しいユリウス様と並ぶには、彼女は少し……「地味」すぎるわ』
直接的な罵倒よりも、こうした「憐れみ」を含んだ囁きの方が、刃のように心を削っていく。
これまでの私たちは、あえて婚約という形に縛られず、両家の了承の元、互いの意思を尊重して歩んできた。それは信頼の証だったはずなのに、周囲の目には「正式に選ばれなかった女」という落ち度として映っていた。
放課後、人目を避けるようにして一人で馬車へ向かっていると、向こうから談笑しながら歩いてくる二人を見かけた。
ユリウスと、ジャネットだ。
ユリウスは彼女の重そうな荷物を代わりに持ち、何事かを楽しそうに話しかけている。
「ユリウス」
私が声をかけると、彼は弾かれたようにこちらを向き、いつもの輝くような笑顔を見せた。
「あ、ビビ! ちょうどよかった。今、ジャネット嬢を馬車まで送っていくところなんだ。彼女、今日の演習で少し足を挫いてしまってね」
見れば、ジャネットはユリウスの腕に遠慮がちに縋りついている。その頬は、夕日のせいだけではない熱を帯びて赤らんでいた。
「ユリウス、少し話せるかしら」
「もちろん。……あ、でもジャネット嬢を先に座らせてあげないと。一分でいいかな? ちょっと待っていてくれるかい?」
彼はそう言って、親しげに私の肩を一度だけ叩くと、すぐにジャネットへと向き直った。
一分。
彼が口にしたそのあまりに短い時間は、今の彼の中での私の価値そのもののようだった。
私と彼が共に過ごした十数年、数えきれないほどの対話と、積み重ねてきた信頼。その全てを合わせても、今、彼の目の前で「足を挫いた可憐な少女」に割く一分にすら劣るらしい。
彼はジャネットの腰を支えるようにして、丁寧にリッチモンド家の馬車へ乗せ、クッションの位置まで調整してやっている。
その様子を、私はただ冷めた心地で見つめていた。
ようやく戻ってきた彼の顔には、微塵の罪悪感もなかった。
「お待たせ、ビビ。それで、どうしたんだい? 改まって」
「……学園で、あまり良くない噂が流れているわ。あなたと彼女のこと、そして私たちのこと。少し、距離感を考えたほうがいいのではないかしら。ドルーマン伯爵家としても、少し立場が……」
私が言い終わる前に、ユリウスは「ああ、そのことか」と困ったように笑って、私の肩に手を置いた。
「噂なんて放っておけばいい。僕はただ、困っている友人を助けているだけだよ。ジャネット嬢は今、領地経営課で本当に孤立しているんだ。僕が味方でいなければ、彼女は学園を去ることになってしまう」
「それはわかるけれど、私のことも……」
「ビビ、君は本当に思慮深くて優しいね。僕の立場を心配してくれているんだろう?」
ユリウスの瞳は、一点の曇りもなく私を信じきっている。
「でも大丈夫だ。君との絆が、こんな根も葉もない噂で壊れるなんて、僕はこれっぽっちも思っていない。ビビなら、僕の真意をわかってくれる。そうだろう?」
――ビビなら、わかってくれる。
その盲目的な信頼が、今の私には何よりも残酷だった。
彼は私の痛みに無頓着なのではない。「ビビアンは完璧で、自立していて、自分と同じ高い倫理観を持っている」と勝手に神格化し、自分の行動によって私が傷つく可能性を、思考から完全に排除しているのだ。
「……ユリウス、私は……」
「あ、いけない。ジャネット嬢を待たせているんだった。また明日、馬車で……あ、いや、朝は別々だったね。昼休みにでも食堂で会おう!」
彼は私の言葉を最後まで聞くことなく、軽やかな足取りでジャネットの待つ馬車へと戻っていった。
動き出すリッチモンド家の馬車。
窓越しに、ユリウスがジャネットに優しく微笑みかけ、彼女がそれに応えて幸せそうに俯く姿が見えた。
私は、一人。
自分の家の馬車のステップに足をかける。
淑女課の針の筵も。
周囲からの嘲笑も。
私が今、どれほど惨めな心地でここに立っているかも。
彼は何も知らない。知ろうともしない。
なぜなら私は、彼にとって「放っておいても大丈夫な、強い味方」だから。
喉の奥が、熱い澱のようなもので塞がる。
「わかってくれる」という言葉で私の口を封じ、彼は今日も「正義」という名の快楽に酔いしれている。
私は静かに、馬車の扉を閉めた。
真っ暗な車内のなかで、私は初めて、彼に対して明確な「諦め」の感情が芽生えるのを感じていた。




