第3話 初めての、男としての芽生え
学園の回廊を歩く足取りが、無意識に重くなる。
淑女課の講義を終えた私は、図書室へ向かう途中で、中庭から上がる騒がしい声を聞きつけた。
「――いい加減にしろと言っているんだ!」
低く、地を這うような怒声。
聞き間違えるはずがない。それは、いつも私に甘く穏やかな声を向ける、ユリウスのものだった。
生い茂る木々の隙間から中庭を覗くと、そこには異様な光景が広がっていた。
数人の男子生徒に囲まれ、地面に膝をついている女子生徒がいる。領地経営課の制服を着た、黒髪の少女――ジャネット・シシリー男爵令嬢だ。彼女の教科書や筆記用具が、噴水の縁に無造作に放り出されている。
その彼女を庇うように、ユリウスが立っていた。
彼はジャネットの肩を抱き寄せ、冷徹な、殺気すら感じる眼差しで周囲の男たちを射抜いている。
「彼女は僕の友人だ。これ以上彼女を侮辱することは、リッチモンド家に対する敵対行為とみなすが、構わないか?」
ユリウスが放つ圧倒的な威圧感に、取り巻きの男たちは顔を青くして散っていった。
静まり返った中庭。ユリウスはゆっくりと腰を落とし、怯えるジャネットの視線に自分の高さを合わせた。
「……怖かったね。もう大丈夫だ、僕が保証する。君に指一本触れさせやしない」
その瞬間、私は息を呑んだ。
ユリウスが彼女に向ける眼差し。それは、私が十数年の月日をかけても一度も向けられたことのない、激しい熱を帯びたものだった。
慈しみ、守り抜き、独占したいと願うような――剥き出しの《《「男」の瞳》》。
私に向ける瞳が、穏やかな春の湖だとしたら、今の彼の瞳は荒れ狂う炎だ。
私といる時の彼は、いつだって「優しい幼馴染」で、余裕のある「《《婚約者候補》》」だった。けれど、あの少女の前で見せているのは、制御の利かない情動そのものに見えた。
(ああ、そうか……。ユリウスは今、初めて『誰かを守る』悦びを知ってしまったのね)
胸の奥が、冷たい氷の楔で貫かれたように痛む。
私は彼にとって、守る必要のない存在だった。
同じ高さで歩き、同じレベルの教育を受け、彼が困れば手を貸し、彼が悩めば共に答えを探す。対等で、自立したパートナー。
それは誇らしいことだと思っていたけれど、彼の中に眠っていた「庇護欲」という名の怪物を目覚めさせたのは、私ではなく、あのか弱い少女だったのだ。
「……っ、ありがとうございます、ユリウス様。私、私……っ」
ジャネットがユリウスの胸に顔を埋めて泣き出した。
ユリウスは躊躇することなく彼女を抱き締め、その背を優しく、宥めるように撫でている。
幼い頃から積み上げてきた、何物にも代えがたい「特別」の象徴である、あの時間。誰よりも深く、言葉にせずとも理解し合えていると信じていた、あの心地よい空気。
その場所から一番遠いところに、今の彼はいる。
私は静かにその場を離れた。
石造りの壁に背を預け、深く、深く息を吐き出す。
込み上げてくるのは、怒りでも嫉妬でもなく、ただ圧倒的な「納得」だった。
彼は正義感が強い。困っている人を放っておけない。
そして何より、自分を必要として泣きつく存在に弱いのだ。
「……馬鹿ね、私」
ユリウスの隣に立つために、彼に相応しい女性であろうと努力してきた。
地味だと言われても、知性を磨き、教養を身につけ、彼の負担にならないように、彼の自慢になれるようにと背筋を伸ばしてきた。
けれど、彼が本当に求めていたのは、そんな「完璧な隣人」ではなく、自分がいなければ壊れてしまいそうな「守るべき対象」だったのかもしれない。
その日の放課後。
予定の時間を大幅に過ぎてから、ユリウスは馬車に現れた。
その制服の袖口には、ジャネットのものだろうか、微かに涙の跡が乾いたような染みがついていた。
「ごめん、ビビ。少し……《《クラスメイト》》の相談に乗っていてね。待たせたかな?」
ユリウスはいつものように爽やかに微笑む。
けれど、その瞳の奥にはまだ、先ほどの中庭で燃やしていた熱の残滓が揺らめいている。
「いいえ。私も図書室で調べ物をしていたから、ちょうど良かったわ」
私は、嘘をついた。
彼に「何をしていたの?」と問うことも、「あの女の子は誰?」と責めることもしなかった。
それを口にした瞬間に、私たちの間に築き上げてきた「対等で物分かりの良い関係」が、音を立てて崩れてしまうと予感したから。
「そうか。ビビは相変わらず熱心だね。感心するよ」
ユリウスの手が、私の頭を軽く撫でる。
その手つきは、まるでお利口な妹を褒めるかのようで。
私はただ、静かに微笑みを返した。
心のなかで、少しずつ、何かが冷え切っていく音を聞きながら。




