085 加藤菫
瞼を開くと、そこはオフィスだった。
目の前のデスクには書類が散らばっている。
夢の中で事務仕事でもしていたのだろうか。
周囲には人の姿がまばらにあるものの、見たところ石上湊の姿は見当たらない。
空は低く、灰色の雲に覆われている。
ガラス窓には細かな水滴が張り付き、目を凝らして見ると僅かに雨が降っているようだ。
スマホを確認すると、すでにメッセージがいくつか入っている。
(透、凛からもか、早いな・・・)
社員用出入口の傍に置かれた、持ち主不明の傘を持って外に出る。
目的地はいつもの喫茶店。
予定通りなら、須藤はすでに待っているはずである。
いつものグループチャットへメッセージを打ち込む。
この手の操作は、歩きながらでも手慣れたものだ。
それが済むと、ひとつも履歴の無いまっさらなメッセージを開く。
表示されている名前は『天城光』
数秒逡巡した末に、指を動かす。
一仕事終えたように大袈裟に息を吐き、返事を待たずにスマホをポケットに捩じ込んだ。
喫茶店に到着し、店内を見回す。
客の姿はひとつも無ように見えたが、目線を巡らせるとボックス席の背もたれから、後頭部が出ているのが見えた。
他に客の姿は見えない。真っすぐとその席へと歩み寄る。
「お待たせ。ううん、」
「私も今来たところ。でしょ」
「最後まで言わせろよ。面白いとは思ってないんだけどさ」
「ふへ、本当だよ」
当たり前のように須藤の隣に腰を下ろす。
「ボックス席で隣って。私のこと大好きかよ」
「あとで二人来るだろ!」
「来なかったらただのバカップルになるよ」
「俺は・・・あいつらを信じる!お前の思い通りにはさせないっ」
「ちょっ、なんで私が悪役なのさ」
須藤が座る向こう側の壁には、松葉杖が立てかけられているのが見えるが、その話題に触れることは彼女の望むところではないだろう。
少し遅れて凛と真壁が到着した。
手筈通り、真壁には死角になる席で息を潜める。
初めて目の前でその能力を使う所を目にするが、確かに目の前にいるはずなのに、存在が薄くなったように感じる。
目には映っているはずなのに、集中していないとそこにいる事さえ忘れてしまいそうだ。
「頼んだぞ透」と声をかけて席へと戻る。返事は無い。声を出してしまうと、せっかくの能力も効果が満足に発揮できないらしい。
しばらくすると喫茶店に二人の人物が入ってきた。
一人は知った顔、天城光。
その横に立つもう一人は女性だった。
決して背が高いわけではない天城よりもさらに頭ひとつ低く、肩より少し長い黒髪の内側はピンク色に染められている。
そのヘアスタイルのせいか、華奢な体格のせいか、かなり若く見える。
天城は視線に気付くと、軽く微笑んで手を挙げた。
隣に立つ少女は無表情のままだが、天城の少し後ろを付いてくるので、彼の連れである事に違いは無いだろう。
テーブルの横まで来ると「いいかな?」とソファを指差すので、相馬の向かいに座っていた凛は気を利かせて席を移動した。
天城は空いた席に腰を下ろすと、須藤と凛に挟まれた相馬を見て笑った。
「ははは、いいね翔太。絵に描いたような両手に花だ」
「そんな軽口叩いてられるのも今のうちだぞ。正体を聞いて驚くぞ」
「うん?と言うと?」
「この子は石上凛。石上湊の妹だ」
予期せぬタイミングで紹介された凛だが、深々と頭を下げて改めて名を名乗った。
僅かに口角を上げているが、見るからに緊張している。
「石上さんの妹・・・!?」
予想外の言葉に目を向く天城の反応は、相馬の予想通りの物であった。
余裕のある表情を崩す事ができて少しだけ気分が良い。
隣に座る華奢な女性は相変わらず無表情だが、凛の顔を真っ直ぐに見つめている。
「それでこっちがー」
「須藤玲奈です。初めまして」
凛と打って変わり、こちらは完成度の高い営業スマイル。
数秒だけ間が空いたが、その時間を埋めるように、初めて華奢な少女が口を開いた。
「加藤菫です・・・初めまして」
軽く頭を下げ、それだけ言うとまた黙ってしまった。
天城は特に気に留める様子も無く、加藤と名乗った少女の後に続く。
「改めて僕は天城光だ。よろしく頼むよ」
天城は手を差し出して来る。
正直苦手なノリではあるが、まずは相馬がその手を取る。
あとの二人もそれに倣ったが、加藤だけは我関せずで微動だにしなかった。
「それで、石上さんの妹というのはどういう事だ?」
「あ、はい。どうと言われても、なんとお答えしていいか・・・湊はわたしの兄で、私はお兄ちゃんが夢の世界に出入りしていた事を知りませんでした。今は家に帰って来てなくて、連絡もつかない状態です」
「なるほど。協力したいが石上さんは謎が多い人だ。僕も連絡は取れないんだ。ごめんな?」
「そっちこそ石上とはどんな関係なんだ?助言をくれるとか言ってたよな」
「ああ、彼とはタケさんを通して知り合った。だけど行動を共にする事はほとんど無かった。僕達の・・・あ、今日は二人で来たけど他にもメンバーがいるんだ。そのうち紹介するよ。それで、僕達のアジトみたいな場所があるんだけど、そこに来ては世間話のようにこの世界の事を話してくれるんだよ。それだけの関係だ」
「石上くんの方が、天城さん達よりこの世界に詳しいって事?」
「うん。なんせあのタケさんと親交があったくらあだからね。ちなみに光でいいよ、僕も玲奈って呼びたいしね」
天城の飾らない、ありのままの笑顔。
真っ直ぐな瞳の輝きには、見つめられた人間の警戒心を自然と解いてしまう力がある。
その隣には天城の笑顔とは対照的に、表情は無いが、視線だけは忙しく動かしている加藤。
その目に見据えられると、心を見透かされてしまいそうだ。
「ねえ、もう一人いるでしょ?」
そう言うと加藤の視線が瞬時に三人の顔を流れた。
そして、何か確信を得たような表情。
「やっぱりね。ねぇ光、もう一人どっかに隠れてるよ」
立ち上がり店内を歩き始める加藤。
これ以上何かを悟られるわけにはいかず、身動きが取れない。
そして真壁が身を潜めているボックス席でその足が止まる。
「いたよ。この男に何をさせるつもりだったの?」
「あ!いや!そんな何をするとかはありませんって!」
思わず真壁が声を上げる。
姿は見えないが、その声色からは焦りが感じ取れた。
「翔太。スミレがああ言ってるけど」
「すまん、そいつも俺たちの仲間だ。騙すような事をして悪かった」
沈黙が訪れる。
天城は視線を下げ、何か考え始める。
相馬も頭を回転させる。
相手の位置、仲間の位置、店のドアまでの距離。
あらゆるパターンを考え始めたその時だった。
「うん!問題無いな!彼も紹介してくれよ」
「・・・いいのか?」
「いいさ。当然の警戒だろ。翔太達は何も悪いことはしてないさ」
そう言うと離れた位置にいる加藤を呼び戻した。
真壁も一緒にやって来て席に着く。
「えと、すみません。僕の名前は真壁透です」
「うん、よろしくな透!」
交わされる握手。
加藤は呆れたように細めた目で天城を見ているが、特に抗議も無いところを見ると、天城を尊重している事が窺える。
(いや、よく見ると少し嬉しそうな・・・?)
その柔らかい表情を見ていると、加藤は敏感に視線を察知した。
「なに?」
「あ、いや、すごいな。透をすぐに見つけられるなんて」
「別に。あなた達を見てれば分かることよ。それにうちのリーダーがこれだからね。その分スミレが警戒しなきゃいけないだけよ」
「な、なるほどね」
そう言う加藤の目は、やはり全てを見透かしているように見えた。
普段から他人を疑う事を知らないリーダーを支え、バランスを取っているのだろう。少女のような見た目に油断していたが、天城のチームの参謀的役割を担っているのかも知れない。




