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昨日の時間  作者: 維酉
3/4

03

   □




 時間というのは過ぎるだけ。戻ることはない。わたしたちはその流れに乗ることしかできないし、逆行することは許されない。


 だから、わたしの「あのころに戻りたい」なんて思いはなにがあっても叶わないし、叶ってはいけない。叶うことは許されない。時間の逆行はない。


 それでも、たまに、「あのころに戻っている」なんて感覚がある。それが具体的にいつごろなのか、何歳のころ、冬休み、夏休み、春休み、それともただの平日に? わからないが、ただ、たしかに「あのころ」を感じることがある。


 しかも突発的に。あまりにも突然に。街を自転車で行くときや、スーパーで買い物をするとき、箸を洗うとき、靴を履くとき、恋人に抱かれるとき、オアシスを聴くとき、パソコンをシャットダウンするとき、照明を消すとき……


 まるで幽霊のように揺らめいて、とりつく。そしてずっと離さない。もう一度戻りたいと思う。


 でも、「あのころ」を意識すればするほど、実感は遠のいていく。わたしひとりだけ取り残される。ここに「あのころ」はないのだと、実感したのに思い知る。


 大学時代、友紀美はこのことを「バカらしい」といった。「あのころ」なんて存在しない、「いま」があるだけなのに、どうして実感するのか。


 わたしが友紀美に怒鳴ったのは、そのときが初めてだったと思う。いまふりかえると、かなり理不尽な怒りだった。それなのに、自分でも視えない心の底から、『許すな』という信号がはっきり出ていた。だから怒鳴った。「あんたにはわからないだけ。知らないことを存在しないと決めつけているだけ」と。


 そして実際、友紀美にはわからないのである。あいつには「あのころ」がないのだ。わたしが持っている「あのころ」を、友紀美は持っていない。誰しもが手にして不思議はない「あのころ」を、あいつは知らない。


 たぶん、幸せなことだと思う。「あのころ」を望むのは、「いま」を望まないから。


 そういえば、友紀美は望むだの望まないだの、そういうこともわからないといった。あいつが水なら、わたしは廃油だった。




「手が止まってる」と森永さんにいわれて、はっとした。背後、青いファイルを持った彼女が立っている。


「考えごと?」

「え、あ、いえ」かぶりを振る。「すみません。なんでもないですから」

「そう。なら、いいけど」


 森永さんはにっこりして、立ち去ろうとする。が、思いとどまって、


「ねぇ、相川さん」と、またもにっこり笑う。「明日の夜は空いてる?」

「えっと……はい、空いてます」

「じゃあ、明日の夜におなかは空いてる?」

「え?」そりゃまぁ、たぶん。「空いていると思いますけど」

「はっきりしないね」


 当たり前だ、するわけない、とはいえず、その場しのぎに笑う。森永さんのたまにこうやって困らせてくる癖は、どうにかしてほしい。佐川さんならうまく返すかもしれないけど、わたしにはちょっと無理だ。


 森永さんはすこし微笑んで、


「じゃあ、ごはんに行きましょう。ちょうど金曜日だから」

「えぇ、はい。よろこんで」


 森永さんは満足げな顔をして立ち去っていった。後姿はカラーのように凛としていて、女性としての風格を感じる。


 いまみたいに、森永さんからの急な誘いはよくある。職場の同僚数人に声をかけて、金曜日の夜、おしゃれなレストランへ行くのである。


 それはたいてい、森永さんがよい店を見つけたとき。あのひとの選ぶ店にははずれがない。一定の頻度でちょっと高いところを選んでくるけれど、そのときは『必要経費』だと割り切ってしまえばいい。


 ふいに森永さんを探すと、いまは佐川さんに声をかけていた。あのふたりは仲がいい。たまの金曜の食事には、佐川さんは常連だった。そしてわたしも、いつしか毎度の常連にされていた。




   □




 仕事が終わると、思わず溜息を吐いた。職場にひとは少ない。もう七時過ぎだった。


 明日は森永さんとの約束がある、遅くまでは残れないから、今日はすこし無理をした。やりきった感じはあるが、解放された気分はない。


 さっさと荷物をまとめて、オフィスを出た。夜の風は死人のように冷たい。


 長年の相棒たる自転車に乗って、夜の市内を走った。平和大通り、橋を渡って、坂をのぼり、トンネルを突っ切る。マフラー、手袋、コートがなければ、凍えて動けなくなりそうな夜。雪は降っていない。


 もう走り慣れたもので、どこを急げば青信号に間に合うかわかるし、どうしても引っかかる赤信号もわかる。ゆっくり走るとすべてに引っかかるのも知っている。


 雪が降るという天気予報士の言葉はなんだったのか。夜の空はからからで、雲ひとつない。すべてうそっぱちに思えてくる。赤信号でとまる。空を見上げると、星も見えない。底のない暗闇がわたしを覆っている。ぐっと無意味にブレーキを握る。


 青信号になった。おんぼろのペダルを漕ぐ。相棒は小さく悲鳴を上げたが、気にしない。もうちょっと働いてもらわないと、困るのだ。


 七時半、アパートに着く。部屋に入ると、だれもいないのに「ただいま」とつぶやいた。こうしないと落ち着かない。靴を脱ぐ。


 マフラー、手袋、コートを脱ぎさり、弱い渦のような倦怠感にめまいを覚える。明日が来なければいいのに、となんとなく思うが、音が聞こえる。壁掛け時計の秒針の音。止まるなんてことはない。


 まぁ、明日は来る。それならそれで、受けて立つだけ。負けることはそうそうない。人間、弱くもあるが強くもある。


 まず風呂に入りたい。シャワーだけにするか、迷って、手間でも湯船に浸かろうときめた。このごろすっかり疲れているから、芯からほぐすという意味で。


 浴槽の掃除をてばやく済ませ、湯が入るのを待つあいだ、冷蔵庫を開けてながめる。どうしよう、なにもない。食パンとジャムはあるが、たぶん夕飯ではない。


 ぱたん、と閉める。ついつい溜息を吐く。よくない。幸せが逃げる――と、幸せなんてあったっけ。ううん、ある。こういう不都合も、幸せといえば、幸せ。


 しかたないので、買い置きのカップ麺をディナーとする。電気ケトルになみなみと水を入れ、スイッチを入れる。カップ麺ひとつ作るには多いが、食後のココアぶんを足し算すれば、おそらくちょうどいい。


 カップ麺はふたを開け、薬味もすでに入れておく。あとはお湯を待つのみ、なんて状態にしといて、台所に放置する。


 風呂の準備ができるまで、ソファに深く座ってぼうっとする。てもちぶさたでスマホをとる。『国道二号線で事故 死者一名』なんてニュースが入っている。すぐ近くだ。きっといまは渋滞しているんだろう。そんな感想だけで、死者への情がいっさい湧かなかったことにぞっとする。麻痺していると思う。でも、そんなものなんだろう、とも。


 そんなふつうが虚しくて、結局、心のうちにぽっかり空いた部分があって、息苦しくなったころ、機械質な声が聞こえた。「お風呂が沸きました」なんていいやがる。


 スマホを放って、すぐ風呂に入った。それから上がると、もう八時だった。ドライヤーで乾かした髪を後ろでくくり、あくびをひとつして、カップ麺を食べた。味は濃かったが、とくにまずいわけでもなかった。


 今日は、疲れた。洗濯機はまわさなくていい。あと一日くらいなら。


 いや、明日はもっと疲れるかもしれない。森永さんと、そしておそらくは佐川さんと食事に行くのだ。帰りも遅いだろうし。


 頭痛がした。だがこればかりは。


 洗濯機をまわす。これだけでも億劫だった。限界を感じる。


 時刻は九時近い。もう寝てしまおうと思う。いつもより就寝がはやい。とはいえ、困る人はいない。


 だのに、スマホが鳴った。電話だ。


 冴木侑李さえきゆうり。冴木侑李と書いてある。ほっとしながら、苛立ちを覚える。電話に出て、


「ユウくん?」と、声に出した。部屋の中でふわふわとその言葉が浮かんで、霧散していった。返事がない。よくわからない。もう一度、「ユウくん?」と呼びかける。


「あ、うん、さき?」今度は声が聞こえる。「ごめん、ちょっと一瞬聞こえづらくて」


 冴木侑李の声は雑音まじりだった。車の音だ。


「外にいるの?」と、訊く。

「うん。外にいる。いま帰りなんだ」冴木侑李はなぜか照れたようにいった。「いま大丈夫だった?」

「大丈夫。わたしは家だから」

「そっか。うん、そっか」


 そこから冴木侑李はちょっとだけ黙った。彼は沈黙を楽しんでいるような雰囲気だった。すこしして、


「ねぇ、明日の夜はひま?」と訊かれる。

「明日の夜?」昼にも、似たようなことを訊かれた。「ううん、ごめん。ちょっと予定があって……職場のひととごはんに行く」

「あぁ、そうなんだ。つかぬことを伺うけど、それは」

「相手はおばちゃん。なにも心配することはありません」

「うん。わかった。ごめんね」


 微かに笑ってしまう。すこしだけ、いいひとだと思う。


「それにしても、どうしたの? まだ家じゃないんでしょう」

「あぁ、うん。どうしたかというと、そういう事情が、あったといえばあったんだ。なかったといえばなかった。だから理由はあやふやで、その点は申しわけないんだけど、すこしきみの声が聞きたかった」

「すこし?」

「すごく。訂正するよ。すごくさ」


 てきとうなことをいう。そういうところを好きになった部分も、ある。恋人という関係は奇妙だが、悪いものではない。そう斜に構えたことを思ったのは、自分でもおかしい気がする。左手の爪をながめる。ココアを飲んでいないと気付く。余分に湯を沸かしたってのに。


「ねぇ、咲。そうだな。土曜日はどうだろう。空いてる?」

「うん。空いてる」

「よかった。じゃあ、そうだね。十一時に広島駅で待ち合わせよう」

「夜の十一時?」

「ばかな。朝の十一時だよ。いってなかった、観たい映画があるって?」

「覚えてたの」

「もちろん覚えてるさ。ぜんぶ覚えてる」

「ふうん」見栄っ張りだ。「じゃあ、楽しみにしてる。土曜日だよね」

「うん。土曜日」


 そういって、冴木侑李はまたべつの話をはじめた。たんなる世間話だった。実をいうと、彼の話はうまく入ってこない。代わりに、わたしのあたまのなかでは、土曜日という言葉だけが鮮明で、いいようもない存在感があった。


 土曜日に、わたしは、冴木侑李と別れるかもしれない。それとも、もっと大きな決断をするかもしれない。そういう予感がある。


 理由はよくわからない。ぼんやりとその予感だけが浮かび上がって、いいようもない脱力感を覚える。彼の声がゆらりゆらりと鼓膜でさまよう。相槌だけ打つ。


 すくなくとも、と思う。なにか決断を迫られるのはたしかだ。よくわからないけれど、たぶんそうだ。そしてわたしは、それから逃げる。だれかに助けを求める。絶対にそうしなくてはいけないし、そうせざるを得ない。でないと崩れ落ちてしまう。さて、ならば、わたしを助けてくれるひとは、どこにいるだろう? 思考がその『だれか』だけに向けられる。


 姿だけは見える。姿だけだ。輪郭が滲んで、うまくかたちを捉えられない。影法師のように見えて、また太陽のようにも見える。わたしはすべて先延ばしにする。でも、きっと期限は迫る。大丈夫、とはいえない。うん、と頷けない。一秒、一秒、土曜日が近づく。


「咲?」と、やけにはっきり聞こえた。「咲?」

「……ごめん、ちょっと、うまく聞こえなくて」

「大丈夫? 疲れてるのか。ごめん、そんなときに電話して」

「ううん。いい」いや、よくはない。「気にしないで。でも、たしかに疲れてる。実はね、もう寝ようと思ってたところ」

「あぁ、そっか。じゃあもう切ろうか」


 本当に申し訳なさそうな声で、冴木侑李はわたしにねぎらいの言葉をかけて、


「それじゃあ、おやすみ」


 と、電話を切った。まぎわ、わたしもどうにか「おやすみ」といった。


 通話が終わると、するり、と手からスマホが零れ落ちた。わたしは無意識のうちに「せんせい」とつぶやいていた。「せんせい」がだれなのか、一瞬、わからなかった。



                                2020/02/27

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