表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
昨日の時間  作者: 維酉
4/4

04

    ◇




『夕景 #02』


 後部座席のドアが開いて、驚いた。「あぁ、ごめん」と、やわらかい声が聞こえる。ここがどこだか、ふとわからなくなった。すぐ思い出す。先生の車だ。


「気分はどう?」と、訊かれた。わたしは首を横に振る。「そっか。サンドイッチ、食べれない?」

「たぶん」声を絞り出す。「あの、無理です、ちょっと」

「そう」


 黄色い夕焼けを背に、先生はちょっとはにかんだように笑って、


「じゃあ、これだけでも」と、緑茶のペットボトルを一本くれる。「摂れるときに摂ってください。水分補給は大切だから」


 体育祭のときの保健委員みたいなことをいう。ひとつ笑顔を見せて、先生はドアを閉める。それから運転席に。


 エンジンがかかる。その音に体内のすべてがかき乱される。血が逆流する感覚があり、脳がずきりと痛む。必死に呻かないよう堪えていると、車がすうっと動きだした。駐車場を出ていく。


 窓を見上げると、そこらじゅうによくあるコンビニの看板が見えた。遠ざかっていく。『コンビニ』。なんのキーワードだったのか、痛みがゆっくり引いていく。呼吸が落ち着いてくる。脳は縛り付けられていた苦しみから解放されて、歓喜のメッセージを細胞という細胞に送る。つい笑ってしまう。


「どうかした?」先生が尋ねた。

「いいえ、なにも」すこしやさしくなれた。


 横になっていたからだを静かに起こして、もらった緑茶のふたを開ける。ぱすり、と音がした。のどに流し込むと、内側から浄化されていくような興奮があった。


「もう起き上がれる?」

「たぶん」

「よかった。あ……テレビとか、みる?」


 先生がカーナビのパネルを操作して、てきとうな民放にチャンネルを合わせる。この時間はどこも情報番組で、たいして面白いものはない。ただ、なんとなく「五チャンです」と指定してみた。いつも家で流れている番組になる。


「ここでいい?」


 頷く。


「いつも家で流してるのはここで」

「そうなんだ。かっこいいもんね、このアナウンサー」


 と、先生はにこにこしながらいう。端正な顔立ちのアナウンサーが、ニュースを読む声。たしか、数年前、このひとに変わったんだっけ。それまではパッとしないオジサンが滔々と読んでいた。


「違いますよ。小さいころからの習慣っていうか」

「うん、うん。そうだね」


 愉快そうな声だった。む、とすねた感じで頬を膨らませてみる。


「違います。本当に、そういうんじゃなくて」

「わかってる。怒らないでよ」

「怒っていません」

「……」先生はくつくつ笑う。「なんだ、いつもの相川さんだ」


 ぴん、と肩が跳ねた。自分でも、なにに驚いたのかわからない。


「どうしたの」


 先生は微笑んでいる。両端をゆるく釣り上げた清廉そうな唇が、途方もなく遠いものに感じる。わたしは先生と話しているのだろうか。そこがまず、不安になる。


「いえ、なんでも」どうにか返す。「……」


 ――――。


「相川さん?」――――。「もうちょっと休んだほうがいいよ。ぼーっとしてる」

「……はい、そうします」


 ぐったり、シートに体重すべてを預ける。あたまがきちんと機能しない。全身の痛みはないが、いまは逆に、なにも感じない。ふわふわとした浮遊感があって、わたしは空気の一分子であるような気がする。空間を満たし、振動を伝え、飛び回る。エンジン音、アナウンサーの声、心臓の鼓動。それらがわたしを媒介にして世界に触れている。


 そう、世界。わたしは世界だ。音がわたしを媒介とするなら、それはつまりわたしは音にとっての世界になる。さらにいえば、音はわたしを通して世界を知るのだから、世界はわたしのなかにある。


 太陽があり、月が満ち欠けするのを、音は知らない。しかしわたしを通せば音はすべて知る。わたしはすべてであり、太陽であり、月の満ち欠けである。音はわたしに太陽を見る。深い、深いところの太陽。


 公転を知り、自転を見る。ゆっくりと宇宙へ滲みだして――否、染み込んでいく。宇宙とはわたしであり、音はすべてをわたしだと知る。この世界には神様がいるのではなく、この世界は神様の腹のなかなのだと気付く。


 魂は包み込まれている。まず肉というものに。次に家屋というものに。さらには大気に、加えて宇宙に。そして最後は神様に包み込まれている。だからひとは安心するし、同時に不安にもなる。神はわたしたちを見ていると信じるし、神はわたしたちを見ているのかと疑う。


 音の神様はわたし。だけれど、と泣きそうになる。わたしにも神様がいるはずで、それは誰だろう? 父は死に、母はわたしを顧みない。この世界には、わたしが世界を覗き見るための媒介が存在しない。もしいるとしたら……


 『コンビニ』というのは、たしかにキーワードだった。わたしはいくらか大人びて見えるようで、私服姿ならば、まず煙草やお酒を買っても怪しまれることはなかった。


 高校に入って、半年だったと思う。家の近所ではない、ずっと離れたところのコンビニで、わたしはいつものように煙草をひと箱買おうとした。そのときレジにいた店員は、四十代くらいの太った男で、どうにもまっとうな大人には見えなかった。だから、


「ガキに煙草は買えねぇぞ」と、そいつがいったのは驚きだった。「どこの高校生だよ、てめぇ。まぁどうでもいいけどよ。とにかく売れねぇ」


 正直、バレたのはそれが最初で最後だった。ただ、わたしは、若干救われた気がして、かなり素直に煙草を棚に戻した。男はそれを見て、ひとこと、


「なにも間違いじゃない」と、ぼそりといった。わたしの鼻腔を鋭いものが突いた。「なにも間違いじゃない。いいか、てめぇ。ひとつだけ知っておけばいいと思う。この世界は完璧だ」


 その日から、煙草はやめた。お酒はたまに飲んだけれど、その量は極端に減った。三か月に一度、どうしてもやりきれなくなったときだけ。


 でも、このごろは、お酒だってめっきり飲まなくなった。間違いだったと思ったのではない。必要でなくなっただけ。それ相応に、わたしが大きくなっただけ。


 むかしのわたしは、不良という言葉が結構気に入っていて、表面上ではまともな人間でいたけれど、だれも見ていないところではとても自由勝手に暮らしていた。ひとに教えられたわけでもなく、煙草は自分で勝手に知ったし、お酒の便利さも早いうちから知っていた。そんな自分が好きで、そう肯定したから、わたしはわたしでいられた。


 どこで変わったのだろう。それがよくわからない。明確なきっかけはなかったと思う。ただ、そんなわたしが嫌いになった。他人のまえではいい子ぶって、それでも本当は違うのよ、なんていうわたしが嫌いになったのだ。そして、こういうふうに自省するわたしをも、わたしは嫌いになった。


 自分と自分の距離が離れていく。そういう奇天烈な感慨は、自己を蝕んで、どんどん思考を悴ませる。わたしはふたりいるが、わたしはひとりだ。それをどうやって肯定しようか!


 わたしはなにを望んでいるのか。なにを望まないのか。不安定でいることを望むのか、望まないのか。わたしは神様でいられるのか、わたしの神様はどこにいるのか……


「もうすぐ」と、先生がいった。「もうすぐ海に着くけど」


 先生はバックミラー越しにわたしを見る。そのしぐさが綺麗だ。どこまでも清純で、成熟していて、性的だ。


 わたしは先生が好きだ。


「降りる?」


 そう訊かれて、迷わず頷く。エンジン音が、潮騒を呼び立てていた。


                               2012/01/26

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ