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『夜景 #01』
日々に満足できないのは、いまもむかしも変わらないで、変わったことといえば、ヒールに慣れたことくらいだった。冬も終わりに近づき、夜の気温は若干緩み出す。とはいえ、まだ寒い。息は白い。
充実を求めるのはぜいたくだろうか。いま以上の充実を求めるのは。友紀美にいわせれば、いまのわたしは『世間一般が考える充実の暮らし』を送っているらしい。仕事は順調で、親友――これは友紀美のことらしい――がいて、恋人もいる。ぜんぶ手に入れている。なにかにストレスを覚えるのは、人間ならば誰しもあることで、それは諦めるしかない。高望みしたら天井はない。
友紀美のいうことも、わからなくはないのである。わたしは充実しているのかもしれないと、ふとしたときに自分でも思う。それでも、なにか、胸の中で、ぽっかりと空いた部分がある。幸せよりも空虚を人は見つめてしまうせいで、わたしは、苦しむしかない。
ただ、これは、別に高望みでもなくて……単なる呪縛というか、そういうたぐいのものなのだろう。結局、高校時代と変わっていないというか、本質的なところがそのままだ。
高校を卒業して、それなりの大学に入って、四年間をほとんど無為にして、それなりの会社に就職した。それからさらに四年。気付けば歳をとったなと思う。もう二十代を折り返してしまった。
悲しいことに、時はすっかり流れていく。もっとなにかすればよかった、なんて感じるが、具体的になにとはいえない。これから新しいことをはじめようと思い立っても、はじめるなにかがわからない。忙しさとお金をいいわけにして、どんどん後回しにしていく。そうやって歳をとる。浅い人間だと思い知る。
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たしか木曜日だった。そうやって、今日の日付を思い出していく。たしか木曜日。
広島県広島市、南区、東雲。国道二号線からすぐそこの、築十数年のアパート。部屋は広く、一階であることを除けばひとり暮らしにはちょうどいい。
木曜日。鍵を閉めるときに、はっきりそう思い出した。木曜日の朝だ。このごろ、曜日すらあやふやになってしまって、いけない。
一度ドアノブを回して、施錠を確認する。開かない。仕事場へ向かう。
ここから自転車で二十分、平和大通りに出て、勤め先へはそこから五分。小さくなければ大きくもない、なんというか微妙な老人ホームだ。堅苦しくいうなら『特別養護老人ホーム』だが、わたしは事務仕事なので、そのあたりはあまり関係ない。
給料はそれなり。待遇もそれなり。事務員の地位は意外とあるが、その地位も、職場の横柄な先輩方が長年の努力のすえつかみ取ったものである。だから、当然、わたしは年相応の下っ端だ。
とはいえ扱いはひどくない。もしひどければ、とっくに辞めている。まだ働き続けているので、それはつまり、そういうことだ。
冬の通勤にマフラーと手袋は必需だった。並木道、冷たい空気を切っていく。もうすぐ終わるはずの二月は、まだそれなりの寒さを保ったままだ。
今朝はずば抜けて寒い。最高気温はひとけたで、最低気温は氷点下。夜には雪が降るらしい。
雪にはさして思い入れもない。降るのなら、降ればいいと思う。寒いのは嫌いだが、暑いよりはましだ。
職場には、いつも通りの時刻に着いた。職員専用の地下駐輪場にいくらか古びた自転車をとめる。この自転車も現役生活三年目か。安物なので、漕ぐと、悲鳴をあげるようにギリギリなんて音が出る。ただ、もうすこし働いてもらわないと困る。サドルをぽんと叩く。
オフィスまで上がると、森永さんがクッキーを食べていた。デスクチェアに深く座り、コーヒー片手、優雅である。
森永さんは、端的にいえば上品な美人である。四十代半ばでありながら、三十代前半、ときたま二十代に間違われることもあるらしい、俗にいう『美魔女』。肌には張りがあり、へたに厚化粧するとかえって醜くなるのだろう、塗りは薄い。
妖艶なのではなく、若く見えるゆえに、年齢の脂っこさがない。そういうたぐいの美人で、気品はあるが接しにくいところはこれといってなく、たいていのひとには好かれる。
「おはようございます、森永さん」
いつものように挨拶すると、彼女はにこりと笑って、
「あぁ、相川さん」と澄んだ声でいう。「おはよう。今日も元気そうね」
「えぇ、はい」
本当に元気に見えるのだろうか、とぼんやり思ったが、深い意味はないのだろうし、気にすることじゃない。
森永さんはもう一度にっこりして、またコーヒーを飲んだ。このひとは、あまり無意味に世間話をするような性格ではない。必要なときか、話しかけられたときしか口を開かないタイプで、そこがまた上品に見えるのかもしれない。
さて、デスクにつこうとしたら、寄ってくるひとがいた。佐川さん、ちょっと肥えた、典型的なおばちゃんである。四十代手前で、まだおばちゃんと呼ばれるのは気に入らないそうだが、心のなかならフリーである。
「相川さん、おはよう」と、いわれた。「クッキーいる?」
クッキーの入った箱を差し出される。プレーン、ココア、チョコミントの三種類。森永さんが食べていたクッキーもこれだろう。どうやら配っているあたり、なにかのお土産だろうか。チョコミントをとる。
「ありがとうございます。どこか行かれたんですか?」
「いいえ、どこにも」
よくわからない。佐川さんもまた、理由を訊かれて困った顔をしている。よけいわからない。
「まぁあれよ」右手をぱたぱたする。「お姉さんからのプレゼントだと思って。日頃の感謝ってやつね」
そうして、佐川さんはかなり気まぐれなひとなのだと思い出す。人生の選択肢をルーレットで決めて暮らしているようなひとなのだ。だから、たぶん、クッキーにもたいした理由はないのだろう。
「いただきます、ありがたく」
「いいのよ」佐川さんは屈託ない笑みを浮かべて、「あ、そう、相川さん。最近、彼氏とはどう?」
「え? あぁ……順調ですよ」
森永さんとは違い、佐川さんは世間話が好きだ。しかも、他人のプライベートに土足で上がりこむ。厄介といえば、とてもとても厄介。
「パッとしないね。なにかあった?」
「なにもありませんよ。順調も順調、完璧といって差し支えありません」
「そう? それも問題ね」
「そうですか?」
「えぇ。世の中に完璧な状態なんてないわよ。あるように思えるなら、それは確実に錯覚。目にゴミが入ってる。あまりよくないわよ」
「たしかに、そうかも」
肩をすくめてみせる。あまり快くない。
「まぁなにかあったらいいなさい」佐川さんは気にしない。「お姉さんね、こう見えて、若いときは名をはせたプレイガールなのよ」
「……」
自慢げに胸を張る。でも、それは、自慢できることなのだろうか。
佐川さんは自分の発言を省みない。どころか、さらに続けて、
「青春で恋をしなかった瞬間は一度たりともなかったわ。恋愛に関しては、あなたの五千枚上手よ。いまじゃ見る影もないけど」
「なんで最後に自虐するんですか」
「だって、そうじゃない。もう四十目前よ。アラフォーってやつだから……このころになるとからだの節々がねぇ」
と、こんどは佐川さん本人の近況に話がうつる。話題もルーレットで決めていそうだ。それくらいに話すことはてきとうで、ばらばら。腰が痛むという話から、飼い猫の話にとんで、すこししたら「このあいだ見た映画がねぇ」なんていいだした。
「娘と見にいったんだけど、あの、俳優が、名前なんていったっけ……」と、訊かれて、首をひねる。どの映画かもわからないのに、俳優の名前を訊かれても困る。
「あ、そう、クラキシンノスケ?」
「……神木隆之介ですか?」
「あぁ、そう。そうよ」
すごいな、わたし。
と、わざわざ俳優の名前も当てたのに、佐川さんは「最近は記憶力がねぇ」と、俳優の話は一切してくれない。本当に、このひとは。
でも、わたしは、このひとが嫌いではない。たしかにてきとうなおばちゃんだが、悪いひとではないのだ。若い自分の面倒をよく見てくれるし、わたしが初めて広島にきたときは、慣れない土地は大変でしょうと親身に話を聞いてくれた。
そういう恩は、心に深く根差すもので、わたしはこのひとを嫌いになれない。嫌いになりようがない。きっとこのひとが大胆な悪事をはたらかない限りは、わたしは佐川さんを好きでいると思う。
「ねぇ、ちょっと、聞いてる?」
と、聞き流しているのがバレたらしい。佐川さんが顔を覗き込んで、そう訊いた。ふと、佐川さんの眉はかなり細いのだと気づく。
「すみません、なんの話でしたっけ」
「だからね……あぁ、まずい、時間だ」
いわれて時計を見ると、始業の時刻だった。佐川さんは「ごめんね」と照れたようにいって、そそくさと離れていく。こういうところはちゃんとしている。わたしはデスクチェアに腰を下ろした。




