01
『夕景 #01』
レモン色に透けた夕陽が、車窓をすりぬける。いやなことばっかりだった。エンジン音と、ロックバンドの音がかすか。
後部座席に横たわっていると、空気に押しつぶされそうでこわい。それでも、制服がやけに重い、上体を起こせない、逃げ出せない。仰向けになって、目を閉じたまま、どうでもいいバンドの曲をじっときく。
やがて曲が終わる。
ゆっくりとまぶたを上げる。
つうっと、意識が引き上げられていく。
生きているような気がする。喉がきゅうっと締め付けられる。
目に入った車の天井はグレーで、じつに無機的だった。そこにわたしがほしいものはない。運転席に背中を向けるように寝返りを打って、ねこみたいにからだを丸める。いっそ本当にねこになれたら、これいじょう幸せなこともないと思った。それくらいに不幸せだった。
生きていることが、いやで、いやで、しかたない。価値なんてないと思う。もう、じゅうぶん汚れたし、きれいなところなんて、頭のてっぺんから爪先まで、ひと部分も残っちゃいない。あるくはじさらし。
青春を謳歌するのも、人生を快闊に歩むのも、未来の話、いまじゃない。で、その未来も、あやふやで、悲しいことのようにみえる。『すてきな未来』が迫ってきている、でも、いまじゃない、いまじゃない。
人間はやり直せるらしい。ほんとうなんだろうか。吐きそう。ひっしに抑え込む。ブレザーの袖、金色のボタンを噛む。ぜんぶが恨めしかった。こんな、制服なんて、いますぐ脱いで、八つ裂きにしてやりたい。それから、「あばよ」なんていって、窓の外へ放り出してやりたい。でも、いくじなし、ほんとうにできないんだから、だめだ。だめなんだ、それじゃ。もっと本気にならないと。悲しいのなら悲しいと、手を挙げていわないと。うごかなきゃ、だめだ。
また寝返りを打つ。こんどは、運転席のほうに顔がむくように。長い黒髪が見える。きいろい夕陽を浴びて、ダイヤモンドをちりばめたみたいにきらきらと煌めいている。先生が、ミラー越しにわたしを見て、
「起きた?」と、訊いた。わたしはなにも答えなかった。
先生は、きれいなひとだった。まだ若い、ほとんど新任の先生で、たしか教員生活は二年目だった。
学校の中なら、生徒たちと歳が一番近かったから、それに人柄もたすけて、話しやすいと評判で、人気のある先生。笑うとくっきりえくぼができて、よく、かわいいといわれる。その言葉を聞いたら、先生は「やめてよ」と、いつも照れたように頬をかいて、すこし目をそらす。服は花柄をよく着ていた。
つい数時間前――保健室に運び込まれたわたしのもとに、真っ先に駆け付けてくれたのは、先生だった。わたしのクラスの副担任だったからだ、たぶん。それで、ちょうど、授業もなかったのだろう。
先生は、わたしが寝ていたベッドに腰を下ろすと、「具合は?」と、訊いた。わたしは首を振った。また吐きそうな気分だった。
つぎに、早退するかどうかを訊いた。わたしは、あんまりすぐに首肯せずに、ぼおっと枕の感触をたしかめていた。ぬるい温度で保たれた湯たんぽみたいだった。先生の顔を見る。ひとが深い傷口を眺める表情だった。わたしは泣きそうになりながら、「はい」と、絞り出した。
もう先生の授業はぜんぶ終わっていたようで、車を出して、送ってくれるみたいだった。ふらつきながら、どうにか先生の車に乗り込むと、そのまま後部座席に倒れこんで、寝入ってしまった。
腕時計を見たら、いまは午後四時半、ここはどこだか、よくわからない。ふと、先生は、わたしの家を知っているんだろうか、気になった。運転席に、先生が座っている。
訊いてみてもいいと思った。起き上がれるだろうか……大丈夫、やれる。おなかの筋肉を使って、上体を起こしながら、ヘッドレストを左手でつかみ、どうにかして起き上がった。身体中の節々が痛い。頭がぐらぐらする。思わずうめく。
「もう起きれるの?」先生の声。「あんまり無理しちゃだめだよ。もうすこし寝てなよ」
「あの……」わたしは頭を押さえながらいった。「あの、道、わかりますか。わたしの家」
「トーカワのあたりって、まえ、いってたよね。わたし、一昨年までその近くに住んでたから……」
「じゃ、その、ここは、どこらへんになるんですか?」
「ごめん、地名とかってよくわからないんだけど……市立図書館がすぐそこにあるっていえば、わかる?」
「だいたいは」
「そう。じゃ、そこらへんにいるってこと」
ハンドルを、きちんと九時十五分の位置で握りながら、先生が笑う。その横顔が、夕陽に照らされて、やけに作り物みたいな美しさがあった。それをきれいだと思えた。そう思えたことがうれしかった。
しばらく車は道なりに進む。口を押えながら揺られる。車窓の景色をながめれば、たしかに、見覚えのある道だ。とたんに倦怠感がおそってくる。家に、帰りたくない。
「せんせい」と、気付けばいっていた。「頼みごとをしても、いいですか」
先生はものいわぬまま、頬を緩めた。交差点、赤信号が見えて、ブレーキがかかる、止まる。
「海まで、いってくれませんか」
アイドリングストップ。エンジン音が止まる。ここからなら、海まで、三十分もあれば行ける。
先生は、
「いいよ」
と、二つ返事をして、車を発進させた。青信号だった。
シートに体重をぐったり預けて、車の行き先を見やる。交差点、右に曲がる。家とは反対方向だった。すこし気がらくになる。
わたしはいくつか深呼吸をして、静かに目を閉じた。今日のさまざまなことが思い出される。もう遠い過去のことみたいだった。クラスメイトの笑い声、わたしがいる地点からずっと遠ざかって、もう耳障りではない。
目を開く。黄色い夕陽がさんざめいている。スピーカーからまた新しく曲が流れだす。古びた音質をしていて、歌詞は英語だ。聞き覚えのある曲でもある。
落ち着いたメロディ、ボーカルは男で――ビートルズの、『イエスタデイ』。ふいに思い出した。むかし父が歌っていたのを覚えている。音程の外れた、聞くに堪えないようなものだった。それでもはっきりと覚えている。
昨日か。すばらしい昨日。
なにかこみ上げてくるのをけんめいに抑えた。苦しいといえば苦しいし、虚しいといえば虚しい。ここに感情の空虚がある。『イエスタデイ』はそれをじわじわ埋めるように流れ続けている。頭蓋骨が縮むような痛みがある。
昨日までは。
じっとなにかに耐えている。車の揺れに、音楽の響きに。昨日までは――と、繰り返し、繰り返し、繰り返す。頭がぐらぐらする。二日酔いに似ている。
やがて曲が終わると、わたしはほっと息をついた。今度は知らない邦ロックが流れ出す。ありきたりなことを、ありきたりな歌い方でうたう。先生は、聞いているのかいないのか、よくわからない顔をしている。
後部座席から見る先生は、よりいっそう綺麗に映った。それは黄色い夕陽が薄い化粧を神秘的なものに昇華させているからかもしれないし、ただ単純に、わたしがいつもより幾分すなおに、先生が綺麗だと感じていたからかもしれない。どちらにせよ、わたしはぼんやりした視界の中で、やけにくっきり映る先生に見惚れていた。
同性であることを負い目に思うほど、先生は綺麗だった。華美な部分はかけらもなく、着飾らない純朴さが途方もない魅力だった。けがれはなく、清らかで、楚々とした印象がある。
先生になりたいと思った。こういうひとになれたら、どれだけ幸せだろうと切なくなった。きっと人並みにつらいことがあって、人並みにうれしいことがあって、でも人一倍の愛を注がれれば、先生のような人間にだれしも必ずなるのだろう。こういう綺麗なひとに、わたしもなりたかった。
なんて、嘘だ。ぜんぶでたらめだ。むしろわたしは……
「相川さん」はっと顔をあげる。先生はかすかに笑っている。「コンビニ、寄っていい?」
頷く。声帯はうまいぐあいに機能しない。
ウィンカーを出して、車はゆっくりコンビニの駐車場へ入る。しばらくしないうちに車の動きはとまって、先生が、
「なにかいる?」
と、訊く。わたしは首を横に振った。そう、と短くいって、先生は降りていった。車内には邦ロックの音しかもう残っていない。後部座席に横になる。また丸まる。耳をふさぐ。呼吸を整える。きゅうに寂しくなる。
先生! と、叫んでしまいそうだった。ここにはだれもいないんです。とっても心細いんです。ひとりはいやだ。みんなみんな、わたしのことを置いてどこかへいってしまう。あとはもう先生だけなんです。だからそばにいてほしい。先生。先生! ここにはだれもいないんです! ひとりはいや――口を両手で必死にふさいで、堪えている。目頭が熱くなる。頭頂部からかかと、つま先まで、余すところなく熱を帯びる。震えが止まらなくなる。細胞の蠢きが、内臓の脈動が、心臓の鳴動が、脳からの電撃に耐えかねて痛みを訴えている。もう立ち上がることはできない。先生は戻ってこない。先生はコンビニから戻ってこない。ずっとずっと戻ってこない。ようやく、小さな声で「先生」と絞り出した。それでも、先生が扉を開けて、「どうしたの」と、訊いてくるようなことはない。先生は戻ってこない。ずっと、ずっと、戻ってこない……
2012/01/26




