9話 天使の事情
「お疲れ様、高瀬くん」
振り向くと、相沢さんが立っていた。
「休憩ですか?」
俺は、炭酸の缶を持ったまま尋ねた。
「うん、ちょっとコーヒー飲みたくなって」
相沢さんは自販機に手を伸ばした。
缶コーヒーが落ちてくる音で、ふとレグの言葉を思い出す。
自販機から缶を取り出す、その何気ない仕草まで妙にそれっぽく見えてしまった。
相沢さんは俺を見ると、ん?という顔で見返してきた。
天使かどうかなんて関係ないはずなのに、妙に顔が見づらい。
そのまま、口が勝手に動いた。
「あ、相沢さんは悪魔って信じますか?」
言った瞬間に後悔した。
相沢さんは首を傾げる。
「悪魔?」
「いや、あの、悪魔とか、天使とか、そういうの。信じるかなーって」
「何それ? 悪魔とかはわからないけど……」
相沢さんは笑ったあと、声を落として続けた。
「実はね、霊は一回だけ見たことあるの。昔、実家で飼ってた犬がね、私の足元にいたの」
「へ、へえ……」
そういう話を、冗談っぽくごまかさずにする人なんだと思った。
俺は炭酸を一口飲んだ。
「そういえば佐藤くん、今日定時に上がる宣言してたよ」
「何か用事なんですかね」
「合コンに行くらしい」
「まじか。元気なやつだな」
合コン、というレグの言葉が頭をよぎった。
「相沢さんは、合コンとか興味ないんですか」
「やだもう。子供もいるし、そんな時間ないよ。それに、若くもないし」
「いや、全然そんなことないですよ!」
「ふふ、ありがとう」
相沢さんは、いつものように穏やかに笑った。
「……子育て大変なんですか?」
「男の子なんだけどね、結構おとなしくて助かってる」
「いいですね。普通は走り回って大変だって言いますもんね」
「そうなの。なんか、五歳なのにコーヒーが好きで、ちょっと変わってるんだけど、素直で可愛いよ」
「それは、珍しいですね……」
そう言いながら、五歳でコーヒー好き、という言葉が妙に耳に残った。
「あ、もうすぐミーティング始まる。またね」
「はい、お疲れ様です」
相沢さんの後ろ姿を見送る。
俺は、少し気の抜けた炭酸を飲み干した。
◇
家に帰ると、レグがテレビを見ていた。
スーパーの袋をテーブルに下ろして尋ねる。
「何観てんだ?」
「悪魔が出てる」
覗くと、悪魔が登場するアニメが流れていた。
俺はレグに聞く。
「悪魔は、こんなふうに人間と契約したりするのか」
「智也もしてる」
「お前を人間にするってやつか? あれも契約になるんだな」
レグは何も答えず、ただテレビを見ていた。
「今日、相沢さんと喋ったけどさ、あの人は本当に天使なのか?」
「元天使のことか?」
「そう。今日話したけど、知らなそうだったぞ」
「転生してるから」
あまりにもさらっと言うから、一瞬意味が遅れて入ってきた。
会社で普通に話をしている相手に、前世みたいなものがあると言われても困る。
「……ってことは、記憶はないってことか」
「たぶん」
俺は、袋からもやしを取り出しかけた手を止めた。
「もしかして、相沢さんも間引かれてるとかは……」
「天使は元から少ないから、多分ちがう」
「そうだよな。……でも、なんで人間になったんだろう」
俺は、さっきの相沢さんの表情を思い出した。
事情は少しずつ増えていくのに、全体はむしろ見えなくなっていく。
「フェルガ様は、その天使とよく一緒にいた」
「誰だ、そいつ」
「かっこいい悪魔」
「へえ……。天使と仲のいい悪魔とかいるんだな。なんかあったのかな」
「知らない」
レグは、知っていることだけ置いていく。
肝心なところは、いつも足りない。
レグが、買ってきたスーパーの袋を覗き込んできた。
「これか? 今日は焼きそば作るぞ。お前も手伝え」
「わかった」
そう返事をすると、レグは台所の棚を探り始めた。
何かを取り出して振り返った。手には、酢の瓶が握られていた。
「酢は使わない! 置いとけ」
レグは、しばらく瓶を見つめていた。
反省しているのか、していないのかはわからない。
でも少なくとも、怒られたことだけはわかっていそうだった。




