17話 恋の授業
「あと、人間の価値観って、何なんだろうな」
パンをかじりながら、俺はぼそっと呟いた。
「お前、パンとコーヒーは作れるようになったもんな」
「できる」
向かいに座ったレグが、いつもの調子で答えた。
「仕事して、良いこと覚えて、あと何だ……」
何か一つでも、人間っぽいものを増やしたかった。
ぼんやりテレビを眺めていると、恋愛ドラマの予告が流れた。
「あ、恋だ」
レグはコーヒーに酢を入れていた。
俺は片手でそれを止める。
「入れすぎだぞ。……レグ、恋だ」
「コイ?」
「そう。悪魔って恋するのか?」
レグは少し首を傾げた。
「わからない。合コンは上級悪魔しか行けない」
「基準そこなんだな。じゃあ、好きなやつとかいなかったのか」
「いる」
「誰だ」
「フェルガ様」
「それは恋じゃなくて、憧れだな。たぶん」
「違うのか」
「違う。……いや、何が違うんだろうな」
言った手前、その違いをうまく説明できなかった。
自分だって、そんなにはっきりわかっているわけじゃない。
「恋っていうのはな、会ってないときも、その相手のことを考えたりするんだ」
「どうやったらいい?」
「どうやるっていうか……そうだな、その人のことをいいなって思ったら、『好きです』って言うんだ」
「わかった」
「……わかったのか?」
レグは真剣な顔で頷いた。
その頷きが、ものすごく嫌な予感しかしなかった。
「じゃあ会社行ってくるけど、大人しくしとけよ」
「わかった」
◇
昼休み、外で昼飯を済ませたあと、俺は近くのドラッグストアに寄った。
ガムを持ってレジに並んでいると、一つ前に相沢さんがいた。
「アプリ登録していただいていると、ポイントお貯めできますが」
「アプリあります!」
相沢さんはそう言って、すぐにスマホを取り出した。
その反応が妙に嬉しそうで、ポイントに異様に食いつくレグを思い出す。
「相沢さん」
「あ、高瀬くん。お疲れ様」
「お疲れ様です。俺アプリ入れてないんで、ポイント付けます?」
「え、いいの!」
店を出たあと、そのまま一緒に会社へ戻った。
歩きながら相沢さんの横顔をちらりと見て、この前レグが言った「弱ってる」という言葉を思い出した。
「最近、忙しいですか?」
「うーん、ちょっとね」
「体調とか、どうです?」
「肩こりはすごいかも。デスクワーク多いからね」
「あとは?」
「あとは……そんなにないかな」
そう言われると、それ以上は踏み込めなかった。
気になるのに、どこまで聞いていいのかわからない。
そのあとも仕事は進めたが、相沢さんの返事がずっと頭に残っていた。
定時になると、俺はそのまま会社を出た。
「今日は唐揚げでも買って帰るか」
商店街の、いつもの唐揚げ屋に向かう。
そのとき、後ろから声がした。
「高瀬くん」
「相沢さん。今日はよく会いますね」
「ほんとね。……あれ、高瀬くんの友達じゃない?」
相沢さんが指差した先を見る。
そこには、知らないお婆さんと一緒に歩いているレグがいた。
レグは荷物を抱えている。
「ありがとう。ここでいいよ」
「わかった」
レグは荷物をお婆さんに渡して、口を開いた。
「好きです」
お婆さんは目を見開いた。
嫌な予感どころじゃなかった。
完全に俺のせいだった。
朝の適当な授業が、そのまま歩いて喋っていた。
「レグ!」
俺は慌てて駆け寄る。
「何してんだ、お前!」
「良いことと、恋をしてた」
「ばかか、お前!」
横を見ると、お婆さんが少し頬を染めていた。
「あ、すいません。こいつちょっと、あれなんで」
「ふふ、ありがとうねえ」
お婆さんはそう言って、機嫌よく去っていった。
「どうしたの、高瀬くん」
「あ、相沢さん、すみません、ちょっと、その……」
相沢さんはきょとんとした顔をしている。
「智也は?」
そこでレグが口を開いた。
「好きですって言うんだろ」
「黙れ!」
俺はとっさにレグの口を押さえた。
「あ、相沢さん、お疲れ様でした!」
「……あ、うん」
俺はそのままレグを引きずるようにして、商店街を離れた。
「お前、何してんだよ」
「良いことと、恋」
どうやらレグの中では、良いことも恋も、人間がすることとして同じ棚に並んでしまったらしい。
「……ったく」
俺は先に歩き出した。
後ろから、レグが当たり前みたいについてくる。
「智也」
しばらく歩いたところで立ち止まって、俺はレグの顔を見た。
「まあ、良いことは良いことだったぞ。ただ、恋は違う。たぶん」
「違うのか」
「違う。……そこ、ちゃんと分けて覚えろよ」
言いながら、たぶんこれでもまた変なふうに覚えるんだろうなと思った。
「わかった」
「その『わかった』が、一番信用できねえんだよな」
レグは真っ直ぐ俺を見返した。
俺は大きくため息をつく。
「まあいい。帰るぞ」
家に着くと、ベルクスがくつろいでいた。
もう驚かなくなってきた自分が、少し嫌だった。




