15話 天使の助言
目を擦りながら台所に行くと、レグがコーヒーを二つ淹れていた。
「レグ、俺のに酢は入れるなよ」
「わかった」
レグの後ろ姿を眺める。
「俺にはもう、人間っぽく見えるんだけどな。価値観ってそんなに足りないのか」
「わからない」
「ベルクスはわかってるようだったが」
レグからコーヒーを受け取り、一口飲む。
「もし人間になれなかったら、どうなるんだ」
「破棄」
一瞬、手が止まった。
「……それ、どういう意味だよ」
「魂が消える。そう聞いた」
パジャマ姿のまま、台所で固まった。
さっきまで眠かった頭が、一気に冷える。
目の前で普通にコーヒーを淹れていた背中が、急に消えてしまうものみたいに思えた。
「悪魔になるのは簡単。人間は難しい」
「難しいってお前……」
時計を見ると、もう会社へ行く時間が迫っていた。
まだ聞きたいことはあったが、それを飲み込んで慌てて準備し、玄関へ向かう。
「レグ!」
レグがこちらを振り返る。
「お前が間に合わなくても、しばらく俺ん家にいていいから! 俺がベルクスに言ってやる。だから大丈夫だ」
言いながら、自分でも全然大丈夫じゃないと思った。
それでも、何か言わずにはいられなかった。
「わかった」
表情は変わらない。
俺はレグを見て、そのままドアを閉めた。
会社まで足早に歩く。
ひび割れたアスファルトの隙間から、不自然に顔を出した雑草の青さだけを目で追っていた。
ほかのことを考えないために、そこだけを見ていた。
◇
「高瀬くん、ここ修正されてない。すぐ対応して」
上司にそう言われて席へ戻る。
同じところを二回見直して、それでも頭に入ってこなかった。
ため息をついて、休憩所へ向かう。
「佐藤くん変わってるね」
楽しそうに話す声が聞こえてきた。
自販機の前で、相沢さんと佐藤が立っている。
俺は二人の邪魔にならないよう、その横でコーヒーを買った。
「高瀬くん、お疲れ様」
「お疲れ様です。何話してたんですか」
「いや、佐藤くんの好きな食べ物が渋くて」
「お前、何が好きなんだよ」
俺はコーヒーの缶を開けた。
「酢豚とか、南蛮漬けとか、カブの千枚漬けって言ってたんだよ」
「……悪魔だな」
「は?」
「いや、なんでもない」
佐藤は眉を寄せていたが、そのまま缶を飲み干して去っていった。
「なんか、趣味渋いよね」
相沢さんにはツボだったらしく、まだ少し笑っていた。
「変な好みですよね……」
どうしても、一緒には笑えなかった。
レグの言葉が頭から離れない。
「……相沢さん。もし、もし悪魔がいるとして、その悪魔を人間にするには、何が必要だと思いますか」
自分でも変な聞き方だと思ったが、それ以外に言いようがなかった。
「何、また悪魔の話?」
俺は相沢さんをまっすぐ見た。
相沢さんはその視線に気づいて、少し考えてから答える。
「そうだねえ。悪魔って悪いやつでしょ。でも、人間って悪いことも考えるし、良いこともするよね」
善いか悪いかだけで分けない言い方だった。
相沢さん自身、たぶんそういうふうに人を見ているんだと思った。
「だから、良いことを教えるために、ボランティアとかさせるかな」
「ボランティアか……」
仕事とか食べ方とか、そういう形ばかり教えていた気がした。
中身のほうは、全部あと回しにしていたのかもしれない。
「何、どうしたの?」
「いや、確かに。ありがとうございます! 試してみます!」
「え、ちょっと……」
俺は缶を捨てて、席へ戻った。
手だけは動かした。
さっきよりは、画面の文字が少しだけ頭に入ってきた。
会社が終わると、俺は急いで帰った。
帰り道、土曜まで待っていていいのかわからなかった。
それでも、伝えればまだ間に合う気がしていた。
家のドアを開ける。
「レグ、今週の土曜はボランティアに行くぞ!」
返事はなかった。
部屋の中には、レグの姿がどこにも見当たらなかった。




