未来編第1話(第42話)
夕方の部室は、昼の熱をほんの少しだけ残したまま、静かに冷えていくところだった。
窓の外では、春の風が桜の花びらを散らし、薄いオレンジ色の光が譜面台の金属に反射して、細い線のような輝きを作っている。
アンプのランプがぼんやりと赤く灯り、誰も触れていないのに低いノイズが空気を震わせていた。
その震えは、部室の壁に吸い込まれ、また跳ね返ってくる。まるで、ここに残った今日の音たちが、まだどこかで呼吸しているみたいだった。
私はキーボードの前で、深く息を吐いた。
練習の疲れが、腕の奥にじんわりと残っている。
でも、その疲れは嫌じゃない。
むしろ、今日も音楽に触れられた証みたいで、少しだけ誇らしい。
鍵盤に置いた指先には、まだ微かに体温が残っていて、さっきまで鳴沢と合わせていたリズムの余韻が、皮膚の下で脈打っているようだった。
「……ちょっとだけ、休も」
そう呟いて、私は譜面に頬を寄せるようにして目を閉じた。
まぶたの裏に、さっきまで鳴沢が歌っていたメロディが残っている。
あの声は、どうしてあんなに胸の奥に届くんだろう。
聞くたびに、心のどこかがきゅっと締めつけられる。
部室の匂い――木材と金属と、少しだけ汗の混じった、放課後の音楽室特有の匂い。
窓の隙間から入る風の音。
アンプの低いノイズ。
それらがゆっくりと遠ざかっていき、意識が沈んでいく。
――暗闇。
音がない。
風もない。
ただ、私の足音だけが、乾いた床に落ちて響いている。
私はどこかを歩いていた。
見覚えのない通路。
壁は淡い灰色で、照明はどこにも見えないのに、足元だけがぼんやりと明るい。
遠くに、光の粒が浮かんでいる。
それは最初、埃のように小さかったのに、近づくほどに脈動し、呼吸するように明滅していた。
「ここ……どこ?」
声を出したつもりなのに、音は吸い込まれて消えた。
まるで世界そのものが、私の声を拒んでいるみたいだった。
光が近づく。
粒が集まり、形になり、世界が一気に開けた。
――ドームだ。
巨大な天井。
眩しい照明。
観客席の向こうで揺れる無数の光。
ステージの床は黒く、照明を受けて薄く光っている。
空気は少し乾いていて、スモークの匂いが微かに鼻をくすぐった。
私はキーボードの前に立っていた。
ステージ用の大きなシンセサイザー。
指先が少し汗ばんでいる。
胸元にはワイヤレスのイヤモニ。
足元のケーブルが、まるで生き物のように静かにうねっていた。
そして、ステージ中央には――鳴沢がいた。
夢の中の鳴沢は、現実より少し大人びて見えた。
髪も、表情も、声も。
でも、目だけは変わらない。
まっすぐで、不器用で、優しい。
その目が、私を見ていた。
それだけで胸が熱くなる。
「……これ、夢?」
思わず呟くと、鳴沢はマイクを持ったまま、小さく笑った。
照明の光が彼の横顔を縁取って、淡い金色の輪郭を作っていた。
「緊張してるの? 玲那さんの音があれば、大丈夫だよ」
その声が、イヤモニ越しに響く。
現実よりも鮮明で、胸の奥に直接触れてくるようだった。
――どうして、夢なのにこんなに近いの。
ステージ裏の通路に、スタッフが通り過ぎる影が揺れる。
照明のテストが始まり、白い光が断続的に瞬き、床に長い影を落とす。
「行こう」
鳴沢が手を差し出す。
私はその手を取った。
夢の中なのに、体温まで感じる気がした。
指先が触れた瞬間、胸の奥で何かが小さく跳ねた。
通路を歩くたびに、観客のざわめきが近づいてくる。
床が震え、空気が熱を帯びていく。
ステージの入口に立つと、光の海が広がった。
――こんな景色、見たことない。
ペンライトが星空のように揺れ、観客の歓声が波のように押し寄せる。
照明の熱が肌に触れ、スモークの匂いが鼻をくすぐる。
夢なのに、すべてが現実よりも鮮烈だった。
鳴沢がステージ中央に立ち、マイクを握る。
私はキーボードの前に座り、深呼吸した。
指先が震えているのがわかる。
でも、その震えは恐怖じゃない。
音が始まる。
私の指が鍵盤を叩き、鳴沢の歌がドーム全体に広がる。
その声は、夢の中なのに、現実よりもずっと強くて、温かかった。
観客の歓声が遠くで弾け、光が揺れる。
胸が熱くなる。
涙が出そうになる。
――鳴沢の声って、こんなに遠くまで届くんだ。
――私の音も、ちゃんと届いてる?
曲のラスト、鳴沢が振り返り、私を見る。
光が二人を包む。
その瞬間、世界が静止したように感じた。
「行こう」
鳴沢が言う。
「うん」
私が答えた瞬間、照明が爆発するように光り、世界が白に染まった。
――白い光が薄れ、暗い天井が見える。
部室の匂い。
アンプの低いノイズ。
夕方の風。
現実の空気が、ゆっくりと戻ってくる。
「……起きて。寝てたよ」
肩を揺すられて、私はゆっくりと目を開けた。
目の前には、心配そうに覗き込む鳴沢がいる。
夢の中の姿と重なって見えた。
「……夢、だったんだ」
胸に手を当てる。
鼓動がまだ速い。
夢の中で聞いた鳴沢の声が、まだ耳の奥に残っている。
窓の外では、夕日が沈みかけていた。
部室の中に、静かな“25時”が流れているように感じた。
私は深く息を吸い、夢の残響を胸に抱えたまま、ゆっくりと目を閉じた。
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