エピローグ(第41話)
大学の部室は、化学室とは違って、少しだけ響きが柔らかい。
壁に貼られた過去のライブ写真は、どれも端が丸くめくれ、色褪せたポスターは春の光を受けて薄く反射している。譜面台の金属は、触れればひんやりしていそうな匂いを放ち、床に置かれたアンプの黒い表面には、細かな埃が光を受けて浮かび上がっていた。
窓の外では、春の風が桜の花びらを運んでいた。
花びらはときどき風に巻かれ、陽光の粒をまとって舞い上がる。
新しい季節。新しい場所。だけど、隣にいるのは、変わらない人だった。
「このコード、ちょっと明るすぎるかも」
健助が言う。
私は譜面を覗き込みながら、首をかしげた。紙の端が風で揺れ、薄い影が鍵盤の上に落ちる。
「でも、春っぽくてよくない? 卒業の曲がちょっと切なかったし、今度は前向きにいこうよ」
健助は少しだけ笑って、ピアノの鍵盤に指を置いた。
その音が、部屋に広がる。
窓から差し込む光が鍵盤に反射して、白鍵が淡く光った。黒鍵の影がその光に溶け、音と一緒に揺れているように見えた。
私の言葉が、彼の音に乗っていく。
あの頃は、声だけでつながっていた。
ラジオの向こう、スマホのスピーカーから流れる歌に、私は勝手に恋をしていた。
姿も知らないまま、声だけを頼りに、夜の25時に寄りかかっていた。
でも今は違う。
隣にいる健助の声は、私に向かって届いている。
言葉で、目で、音で、ちゃんと伝わってくる。
部室の窓が風で揺れ、桜の花びらがひとひら、ふわりと舞い込んだ。
それが健助の肩に落ちる。
彼は気づかずに鍵盤を叩き続けていた。肩に乗った花びらが、彼の動きに合わせて小さく震える。
「ねえ、次の曲のタイトル、決めてる?」
私が言うと、健助は少し考えてから、ぽつりと呟いた。
「“はじまりの25時”……とか」
私は笑った。
笑った瞬間、胸の奥にあった小さな緊張がふっとほどけた。
「それ、いいね。ちょっとエクスネクっぽいし」
健助は照れくさそうに目を逸らした。
その横顔は、窓からの光を受けて輪郭が柔らかく浮かび上がっていた。
私は、その横顔を見ながら、思った。
――声だけじゃ足りない。
言葉で、ちゃんと伝えたい。
この気持ちも、これからの歌も、全部。
25時の音楽は、もう終わった。
でも、私たちの音楽は、まだ始まったばかりだ。
健助が弾くコードが、少しずつ形になっていく。
春の光が部屋の床に長い影を落とし、その影が揺れるたびに、音も揺れて聞こえた。
窓の外では、遠くで新入生らしき声が弾んでいる。笑い声が風に乗って、部室の空気を少しだけ明るくした。
「ねえ、健助」
「ん?」
「大学、来てくれて……ありがとう」
彼は一瞬だけ手を止めた。
鍵盤の上で指が宙に浮く。
その指先が、光を受けてわずかに震えているように見えた。
「……僕のほうこそ。来てよかったって、今すごく思ってる」
その言葉は、春の風よりも柔らかかった。
胸の奥に、静かに沈んでいく。
私は椅子から立ち上がり、窓のそばに歩いた。
窓枠に手を置くと、木の感触が少しだけ温かい。
外では、サークルの新入生らしき人たちが楽しそうに話している。
笑い声が風に乗って届く。
その声は、遠いようで近く、今の私たちの未来を少しだけ照らしてくれるようだった。
この大学で、私たちはまた新しい音を作る。
あの山奥の町ではできなかったことを、ここでならできる気がした。
「健助、あのさ」
振り返ると、彼はまだ私を見ていた。
まっすぐで、少し不器用な目。
その視線が、部室の空気を少しだけ熱くする。
「私、もっと歌いたい。もっと、いろんな曲を作りたい。健助と一緒に」
健助は驚いたように瞬きをして、それからゆっくりと笑った。
その笑顔は、春の光よりも柔らかくて、どこか懐かしかった。
「僕も……そう思ってた。玲那さんとなら、もっと遠くまで行ける気がする」
その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなった。
まるで、長い冬のあとに差し込む最初の陽だまりみたいに。
私は窓を開けた。
春の風が部室に流れ込み、譜面を揺らす。
桜の花びらが数枚、ふわりと舞い込んだ。
花びらは空中でゆっくりと回転し、光を受けて淡く輝いた。
「ねえ、健助。25時の音楽ってさ」
「うん」
「終わったんじゃなくて……“区切り”だったんだと思う」
健助は少し考えてから、頷いた。
その頷きは、言葉よりも静かで、でも確かな重みがあった。
「そうだね。あれがあったから、今があるんだし」
「うん。だから……」
私は彼の隣に戻り、ピアノの横に座った。
椅子の脚が床を擦る音が、やけに大きく響いた。
「ここからの25時は、私たちが作るんだよ」
健助は照れたように笑い、鍵盤に指を置いた。
その指先が、これから始まる音を待っているように見えた。
「じゃあ……始めようか。はじまりの25時」
ピアノの音が、再び部屋に広がる。
春の光がその音を照らし、影が揺れ、風が花びらを運ぶ。
音と光と風が混ざり合い、部室がひとつの大きな楽器みたいに感じられた。
私は目を閉じて、その音に耳を澄ませた。
健助の音は、あの頃よりずっと近くて、ずっと温かい。
声だけじゃ足りなかった。
でも今は、声も、音も、言葉も、全部ここにある。
私はそっと息を吸い、歌い出した。
春の風が、私たちの音を運んでいく。
25時の音楽は終わったけれど、
私たちの音楽は、これから何度でも始まる。
“はじまりの25時”は、今日から続いていく。
歌い終わると、健助が小さく息を吐いた。
その息が、光の中で白く見える気がした。
「……いい曲になるよ、これ」
「うん。きっとね」
部室の時計が、静かに針を進めていた。
昼と夜の境目でもない、25時でもない、ただの午後。
でも、私たちにとっては、ここが新しい“深夜”だった。
誰にも聞こえない時間。
誰にも邪魔されない場所。
ここから、また始められる。
「玲那」
健助が呼ぶ。
私は振り向いた。
「これからも……よろしくね」
その言葉は、告白でも宣言でもなく、ただの“約束”だった。
でも、胸の奥に静かに沈んでいく。
「うん。よろしく、健助」
窓の外で、桜が揺れた。
春の光が、私たちの影を長く伸ばす。
その影は、少しずつ重なっていった。
25時の音楽は、もうどこにもない。
でも、あの時間がくれたものは、確かにここにある。
声と声が重なって、音になる。
音と音が重なって、歌になる。
歌と歌が重なって、物語になる。
そしてその物語は、今日もまた、静かに続いていく。
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