もう一度(第40話)
入学式の朝、空気はまだ少し冷たかった。
春の匂いがするのに、胸の奥は落ち着かない。
電車の窓に映る自分の顔は、どこか緊張していて、少しだけ期待を含んでいた。
窓の外では、線路沿いの雑木林が淡い靄に包まれ、朝日が枝の隙間から細い光を落としていた。
その光が車内の金属の手すりに反射して、揺れるたびにきらりと瞬く。
――今日、会えるだろうか。
そんなことを考える資格が、自分にあるのかどうかもわからない。
でも、ここまで来てしまった。
大学の最寄り駅に着くと、ホームに春の冷気が流れ込んできた。
スーツ姿の新入生、保護者、案内のスタッフ。
キャリーケースの車輪が床を擦る音、改札を抜ける電子音、誰かの笑い声。
そのざわめきの中に、自分が紛れ込んでいることが不思議だった。
大学の門をくぐると、広場の中央に大きな金属のオブジェが立っていた。
朝の光を受けて、表面が淡く輝き、風が吹くたびに光の筋が揺れる。
周囲の芝生にはまだ朝露が残り、踏みしめると靴底にひんやりとした感触が伝わった。
僕はその前で立ち止まった。
――ここに立つのは、これで二度目だ。
受験の日、緊張で手が震えていた自分を思い出す。
あの日も、近藤さんのことを考えていた。
「……来てよかったのかな」
小さく呟く。答えは出ない。
そのとき、背後から声がした。
「鳴沢くん!」
振り返ると、羽山さんが手を振っていた。
春の光を背に受けて、髪がふわりと揺れ、笑顔が一段と明るく見えた。
「ちょっと待ってて! 今、連れてくるから!」
「ま、待ってください……まだ、心の準備が……」
言い終わる前に、羽山さんは走り去っていた。
その背中が人混みに紛れていく。
胸が一気に高鳴る。
罪悪感と緊張で心が押しつぶされそうだった。
僕は深呼吸をした。
手のひらが汗ばんでいる。心臓の音がうるさい。
広場のざわめきが、急に遠く感じられた。
――もし、来なかったら。
そんな不安が胸を締めつける。
でも、足は動かなかった。
逃げることも、隠れることもできなかった。
ただ、待つしかなかった。
♢♢♢
入学式の朝、空気はまだ少し冷たかった。
桜は満開には少し早く、枝先に淡い桃色がにじむ程度。
それでも、大学の門の前には新しい生活の匂いが満ちていた。
人の声、足音、スーツの擦れる音。
田舎の山奥とは違う、絶え間ないざわめき。
アスファルトの上を歩く革靴の音が、規則的に響いては消えていく。
その中に立っている自分が、どこか現実ではないように感じた。
――今日から、ここが私の場所になる。
そう思うと、胸の奥が少しだけ震えた。
受付を済ませ、資料を受け取ったところで、背後から声がした。
「玲那!」
振り返ると、羽山が手を振っていた。
春風に揺れる髪、相変わらずの少し騒がしい笑顔。
「ちょっと来て! どうしても見せたいものがあるの!」
「え、なに? 入学式始まるよ?」
「大丈夫大丈夫! すぐそこだから!」
羽山は強引に腕を引っ張る。
その勢いに押されるように、玲那は大学前の広場へと連れていかれた。
広場の中央には、大きな金属のオブジェが立っていた。
朝の光を反射して、淡く輝いている。
近づくにつれ、金属の冷たい匂いと、芝生の湿った匂いが混ざり合って漂ってきた。
「ほら、あそこ!」
羽山が指差した先に、ひとりの男子が立っていた。
風に揺れる黒髪。
少し背が伸びたように見える。でも、姿勢も、佇まいも、どこか懐かしい。
その横顔を見た瞬間、胸の奥が強く脈打った。
「……え」
声にならない声が漏れた。
男子がゆっくりと振り返る。
その目が、玲那を見つけた。
周囲のざわめきが一瞬だけ止まったように感じた。
「鳴沢……?」
名前を呼んだ瞬間、胸の奥が熱くなった。
彼は少しだけ笑った。
あの頃と同じ、少し不器用な笑顔。
「お、お久しぶりです……近藤さん……」
その声を聞いた瞬間、世界が一気に現実に戻った。
「な、なんで……なんでいるの⁉︎」
驚きと戸惑いと、胸の奥の熱が混ざって、声が震えた。
鳴沢は一歩近づき、少し照れたように言った。
「僕も……まだ学びたいことがあって、断ってきました」
「断って……?」
「東京の話。全部じゃないけど、ひとつ区切りをつけたくて。それと……こ、こんど、玲那さんとまだ音楽を続けたくて!」
玲那は思わず言っていた。
「バカじゃないの」
口から出た言葉とは裏腹に、胸の奥がじんわりと温かくなった。
涙が出そうになるのを必死でこらえる。
だって――鳴沢と、また会えた。
その事実だけで、胸がいっぱいになった。
鳴沢は少しだけ目を伏せ、そして玲那をまっすぐ見た。
「……会いたかった」
その言葉は、春の光よりも柔らかく、川の音よりも静かに胸に染み込んだ。
玲那は返事ができなかった。
言葉にしたら、涙が溢れてしまいそうで。
代わりに、小さく息を吸って、笑った。
「……私も」
それだけで十分だった。
風が吹き、桜の蕾が揺れた。
大学の広場のざわめきが、少しだけ遠くに感じた。
「私も、鳴沢とまた音楽を続けたい!」
羽山は少し離れた場所で、にやにやしながらこちらを見ていた。
でも、今はどうでもよかった。
玲那と鳴沢は、オブジェの前で並んで立った。
新しい春の光の中で。
「これから……よろしくね、玲那」
「うん。よろしく、鳴沢」
その言葉は、再会の挨拶であり、新しい物語の始まりでもあった。
川の音はもう聞こえない。
代わりに、未来の足音が静かに響いていた。
「25時の音楽、エクスネク再開しよう」
おもしろかったら評価、ブックマークよろしくお願いします




