合格発表(第39話)
朝、目が覚めた瞬間、胸の奥が強く脈打っているのに気づいた。
夢を見ていたわけでもない。
ただ、今日という日が、ずっと前から胸の奥で重く光っていたからだ。
その光は、期待とも不安ともつかない色で、眠っている間もずっと、静かに自分を照らし続けていた気がした。
布団の中は温かいのに、手足は冷たかった。
深呼吸をしてみても、胸のざわつきは収まらない。
吸っても吐いても、胸の奥に残るざらついた緊張だけが、身体の中心に居座っていた。
――今日、結果が出る。
その事実だけが、頭の中で何度も反響した。
言葉というより、鐘の音のように、一定の間隔で胸の奥を叩いてくる。
窓を開けると、川の音がいつもより大きく聞こえた。
風が冷たく、山の影はまだ濃い。
空気が張りつめているように感じたのは、きっと自分の心のせいだ。
世界は何も変わっていないのに、自分の感覚だけが少しずつ、別の場所へ移動していくようだった。
川の流れは変わらないのに、世界が少しだけ違って見えた。
まるで、自分だけが今日という日に取り残されているような、そんな孤独にも似た感覚が胸をかすめた。
台所に降りると、母が味噌汁をよそっていた。
湯気が立ち上り、部屋の冷えた空気をゆっくりと溶かしていく。
その湯気の柔らかさに触れただけで、胸の奥が少しだけ緩む気がした。
「おはよう、玲那」
「……おはよう」
椅子に座ると、母がちらりとこちらを見た。
何も言わないのに、全部わかっているような目だった。
その視線に触れた瞬間、張りつめていた心が少しだけ揺れた。
「……緊張してる?」
「……うん」
その一言だけで、胸の奥が少しだけ軽くなった。
母はそれ以上何も言わず、味噌汁をすする音だけが響いた。
その音が、いつもより優しく聞こえた。
まるで「大丈夫」と言われているようで、喉の奥が熱くなった。
朝食の味は、ほとんどしなかった。
食べているのに、味覚だけがどこか遠くに置き去りにされているようだった。
部屋に戻り、机の前に座る。
スマホを手に取る。
画面をつけて、消す。
またつけて、消す。
そのたびに、胸の奥の鼓動がひとつ大きく跳ねた。
ログインすれば、結果がわかる。
それだけのことなのに、指が動かない。
画面の光が、まるで自分の未来そのもののように思えて、触れるのが怖かった。
心臓の音がうるさい。
耳の奥で脈打っている。
身体の中で一番うるさいのが、自分自身の鼓動だなんて、皮肉だと思った。
――見なきゃいけないのに。
でも、見たくない。
そんな矛盾が胸の奥で渦を巻いていた。
前に進みたい気持ちと、立ち止まりたい気持ちが、同じ強さで引っ張り合っていた。
スマホが震えた。
心愛からのメッセージだった。
『玲那、起きてる?』
続いて莉里から。
『一緒に見る?』
文字だけなのに、二人の声が聞こえる気がした。
その優しさが、胸に刺さる。
支えてくれる存在がいることが嬉しいのに、同時に、その優しさに甘えたくなる自分が怖かった。
玲那はゆっくりと返信を打った。
『ごめん……今日は、一人で見たい』
送信ボタンを押す指が震えた。
自分で選んだはずなのに、孤独を選んだような気がして、胸が少し痛んだ。
すぐに返事が来た。
『わかった。終わったら教えてね』
『どんな結果でも、私たちは味方だから』
その言葉に、胸が熱くなった。
でも、涙はまだ出なかった。
涙を流すには、まだ現実が遠すぎた。
深呼吸をして、スマホを握りしめる。
ログイン画面を開く。
IDを入力する。
パスワードを入力する。
指が震えて、何度か打ち間違えた。
そのたびに、胸の奥がぎゅっと縮んだ。
画面が切り替わる。
白い背景。
黒い文字。
その瞬間、世界が無音になった。
川の音も、風の音も、心臓の音さえも消えたように感じた。
ただ、視界の中央にある文字だけが、世界のすべてになった。
そして――
「合格」
その二文字が、画面の中央に静かに浮かんでいた。
息を吸うことを忘れた。
胸の奥が一気に熱くなり、視界が滲んだ。
身体の奥に溜まっていた緊張が、一気にほどけていくのがわかった。
「……よかった……」
声にならない声が漏れた。
その声は震えていて、どこか幼かった。
その瞬間、背中にそっと手が置かれた。
振り返ると、母が立っていた。
「おめでとう」
その一言で、涙が溢れた。
母の胸に顔を埋めると、ようやく現実になった。
自分が本当に前に進めるのだと、身体の奥から実感が湧き上がった。
未来が、動き出した。
同じ頃、東京。
鳴沢は、小さなワンルームの部屋でスマホを握りしめていた。
窓の外にはビルの影。
車の音、人の声、遠くの工事の音。
田舎とは違う、絶え間ない雑音が流れている。
その雑音が、今日は妙に遠く感じられた。
まるで自分の周囲だけ、透明な膜で覆われているようだった。
それでも、部屋の中は妙に静かだった。
狭い部屋なのに、空気が広がりすぎているようで、落ち着かない。
心臓の鼓動だけが、部屋の中心に置かれた時計のように規則正しく響いていた。
画面を開く。
ログインする。
結果が表示される。
「合格」
その文字を見た瞬間、鳴沢は深く息を吐いた。
胸の奥が熱くなり、視界が少しだけ滲んだ。
張りつめていたものが一気に緩んで、身体の芯がふっと軽くなる。
それなのに、涙はこぼれなかった。
泣くよりも先に、現実が胸に沈んでいく感覚のほうが強かった。
「……行ける。あの場所に」
呟いた声は、思っていたよりも弱く、震えていた。
その震えが、自分がどれだけこの日を待っていたかを物語っていた。
玲那の顔が浮かぶ。
卒業式の日の歌声が蘇る。
あの声が、自分の未来のどこかに続いている気がして、胸がじんと熱くなった。
連絡したい。
今すぐにでも。
「合格したよ」と伝えたい。
でも、指は動かなかった。
言葉を送ることで、何かが変わってしまう気がした。
まだ、その変化を受け止める準備ができていなかった。
ギターを手に取り、弦を軽く弾く。
その音が、未来の始まりを告げるように響いた。
音は小さかったのに、胸の奥には大きく広がった。
自分が選んだ道が、確かにここから続いている――そう思えた。
夕方、私は川辺に立っていた。
山の影が水面に落ち、ゆっくり揺れている。川の音が、いつもより明るく聞こえた。風は冷たいのに、胸の奥は不思議と温かかった。
「……行けるんだ」
小さく呟く。
その言葉を口にした瞬間、胸の奥に沈んでいた実感が、ようやく形を持ち始めた。
未来が、遠くの景色ではなく、自分の足元から続いている道として見えてくる。
風が頬を撫でた。その冷たさが、逆に心を落ち着かせた。
今日までの不安や迷いが、川の流れに溶けていくようだった。
未来が、ようやく形を持った。
でも、胸の奥には別のざわつきが残っている。
――鳴沢も、どうだったんだろう。
その問いが、静かに息をしていた。
考えないようにしても、ふとした瞬間に浮かんでくる。
同じ空の下で、同じ時間に、彼も結果を見ているのだろうか。
そう思うだけで、胸が少しだけ締めつけられた。
家に戻ると、スマホが震えた。
画面を見る。心愛でも、莉里でもない。
そこには――
“鳴沢”
その名前が表示されていた。
私は息を呑んだ。
指が止まる。
さっきまで落ち着いていたはずの心が、一瞬で波立った。
画面を見つめたまま、動けなかった。
通知の光が、部屋の薄暗さの中で静かに瞬いている。
その小さな光が、未来の扉のノックのように思えた。
胸の奥で、何かがゆっくりと動き始めていた。
未来が、静かに、確かに動き始めていた。
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