表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
25時の音楽  作者: 倉木元貴


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
45/49

合格発表(第39話)

 朝、目が覚めた瞬間、胸の奥が強く脈打っているのに気づいた。

 夢を見ていたわけでもない。

 ただ、今日という日が、ずっと前から胸の奥で重く光っていたからだ。

 その光は、期待とも不安ともつかない色で、眠っている間もずっと、静かに自分を照らし続けていた気がした。


 布団の中は温かいのに、手足は冷たかった。

 深呼吸をしてみても、胸のざわつきは収まらない。

 吸っても吐いても、胸の奥に残るざらついた緊張だけが、身体の中心に居座っていた。


 ――今日、結果が出る。


 その事実だけが、頭の中で何度も反響した。

 言葉というより、鐘の音のように、一定の間隔で胸の奥を叩いてくる。


 窓を開けると、川の音がいつもより大きく聞こえた。

 風が冷たく、山の影はまだ濃い。

 空気が張りつめているように感じたのは、きっと自分の心のせいだ。

 世界は何も変わっていないのに、自分の感覚だけが少しずつ、別の場所へ移動していくようだった。


 川の流れは変わらないのに、世界が少しだけ違って見えた。

 まるで、自分だけが今日という日に取り残されているような、そんな孤独にも似た感覚が胸をかすめた。


 台所に降りると、母が味噌汁をよそっていた。

 湯気が立ち上り、部屋の冷えた空気をゆっくりと溶かしていく。

 その湯気の柔らかさに触れただけで、胸の奥が少しだけ緩む気がした。


「おはよう、玲那」


「……おはよう」


 椅子に座ると、母がちらりとこちらを見た。

 何も言わないのに、全部わかっているような目だった。

 その視線に触れた瞬間、張りつめていた心が少しだけ揺れた。


「……緊張してる?」


「……うん」


 その一言だけで、胸の奥が少しだけ軽くなった。

 母はそれ以上何も言わず、味噌汁をすする音だけが響いた。

 その音が、いつもより優しく聞こえた。

 まるで「大丈夫」と言われているようで、喉の奥が熱くなった。


 朝食の味は、ほとんどしなかった。

 食べているのに、味覚だけがどこか遠くに置き去りにされているようだった。


 部屋に戻り、机の前に座る。

 スマホを手に取る。

 画面をつけて、消す。

 またつけて、消す。

 そのたびに、胸の奥の鼓動がひとつ大きく跳ねた。


 ログインすれば、結果がわかる。

 それだけのことなのに、指が動かない。

 画面の光が、まるで自分の未来そのもののように思えて、触れるのが怖かった。


 心臓の音がうるさい。

 耳の奥で脈打っている。

 身体の中で一番うるさいのが、自分自身の鼓動だなんて、皮肉だと思った。


 ――見なきゃいけないのに。


 でも、見たくない。


 そんな矛盾が胸の奥で渦を巻いていた。

 前に進みたい気持ちと、立ち止まりたい気持ちが、同じ強さで引っ張り合っていた。


 スマホが震えた。

 心愛からのメッセージだった。


『玲那、起きてる?』


 続いて莉里から。


『一緒に見る?』


 文字だけなのに、二人の声が聞こえる気がした。

 その優しさが、胸に刺さる。

 支えてくれる存在がいることが嬉しいのに、同時に、その優しさに甘えたくなる自分が怖かった。


 玲那はゆっくりと返信を打った。


『ごめん……今日は、一人で見たい』


 送信ボタンを押す指が震えた。

 自分で選んだはずなのに、孤独を選んだような気がして、胸が少し痛んだ。


 すぐに返事が来た。


『わかった。終わったら教えてね』


『どんな結果でも、私たちは味方だから』


 その言葉に、胸が熱くなった。

 でも、涙はまだ出なかった。

 涙を流すには、まだ現実が遠すぎた。


 深呼吸をして、スマホを握りしめる。

 ログイン画面を開く。

 IDを入力する。

 パスワードを入力する。


 指が震えて、何度か打ち間違えた。

 そのたびに、胸の奥がぎゅっと縮んだ。


 画面が切り替わる。

 白い背景。

 黒い文字。


 その瞬間、世界が無音になった。

 川の音も、風の音も、心臓の音さえも消えたように感じた。

 ただ、視界の中央にある文字だけが、世界のすべてになった。


 そして――


 「合格」


 その二文字が、画面の中央に静かに浮かんでいた。


 息を吸うことを忘れた。

 胸の奥が一気に熱くなり、視界が滲んだ。

 身体の奥に溜まっていた緊張が、一気にほどけていくのがわかった。


「……よかった……」


 声にならない声が漏れた。

 その声は震えていて、どこか幼かった。


 その瞬間、背中にそっと手が置かれた。

 振り返ると、母が立っていた。


「おめでとう」


 その一言で、涙が溢れた。

 母の胸に顔を埋めると、ようやく現実になった。

 自分が本当に前に進めるのだと、身体の奥から実感が湧き上がった。


 未来が、動き出した。




 同じ頃、東京。


 鳴沢は、小さなワンルームの部屋でスマホを握りしめていた。

 窓の外にはビルの影。

 車の音、人の声、遠くの工事の音。

 田舎とは違う、絶え間ない雑音が流れている。

 その雑音が、今日は妙に遠く感じられた。

 まるで自分の周囲だけ、透明な膜で覆われているようだった。


 それでも、部屋の中は妙に静かだった。

 狭い部屋なのに、空気が広がりすぎているようで、落ち着かない。

 心臓の鼓動だけが、部屋の中心に置かれた時計のように規則正しく響いていた。


 画面を開く。

 ログインする。

 結果が表示される。


 「合格」


 その文字を見た瞬間、鳴沢は深く息を吐いた。

 胸の奥が熱くなり、視界が少しだけ滲んだ。

 張りつめていたものが一気に緩んで、身体の芯がふっと軽くなる。

 それなのに、涙はこぼれなかった。

 泣くよりも先に、現実が胸に沈んでいく感覚のほうが強かった。


「……行ける。あの場所に」


 呟いた声は、思っていたよりも弱く、震えていた。

 その震えが、自分がどれだけこの日を待っていたかを物語っていた。


 玲那の顔が浮かぶ。

 卒業式の日の歌声が蘇る。

 あの声が、自分の未来のどこかに続いている気がして、胸がじんと熱くなった。


 連絡したい。

 今すぐにでも。

 「合格したよ」と伝えたい。

 でも、指は動かなかった。

 言葉を送ることで、何かが変わってしまう気がした。

 まだ、その変化を受け止める準備ができていなかった。


 ギターを手に取り、弦を軽く弾く。

 その音が、未来の始まりを告げるように響いた。

 音は小さかったのに、胸の奥には大きく広がった。

 自分が選んだ道が、確かにここから続いている――そう思えた。





 夕方、私は川辺に立っていた。

 山の影が水面に落ち、ゆっくり揺れている。川の音が、いつもより明るく聞こえた。風は冷たいのに、胸の奥は不思議と温かかった。


「……行けるんだ」


 小さく呟く。

 その言葉を口にした瞬間、胸の奥に沈んでいた実感が、ようやく形を持ち始めた。

 未来が、遠くの景色ではなく、自分の足元から続いている道として見えてくる。


 風が頬を撫でた。その冷たさが、逆に心を落ち着かせた。

 今日までの不安や迷いが、川の流れに溶けていくようだった。


 未来が、ようやく形を持った。

 でも、胸の奥には別のざわつきが残っている。


 ――鳴沢も、どうだったんだろう。


 その問いが、静かに息をしていた。

 考えないようにしても、ふとした瞬間に浮かんでくる。

 同じ空の下で、同じ時間に、彼も結果を見ているのだろうか。

 そう思うだけで、胸が少しだけ締めつけられた。


 家に戻ると、スマホが震えた。

 画面を見る。心愛でも、莉里でもない。


 そこには――


 “鳴沢”


 その名前が表示されていた。


 私は息を呑んだ。

 指が止まる。

 さっきまで落ち着いていたはずの心が、一瞬で波立った。


 画面を見つめたまま、動けなかった。

 通知の光が、部屋の薄暗さの中で静かに瞬いている。

 その小さな光が、未来の扉のノックのように思えた。


 胸の奥で、何かがゆっくりと動き始めていた。

 未来が、静かに、確かに動き始めていた。

おもしろかったら評価、ブックマークよろしくお願いします

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ