最後の思い出を(第38話)
卒業式の翌朝、家の前を流れる川の音が、いつもより澄んで聞こえた。
夜の冷えがまだ残る山の空気は、吸い込むたびに胸の奥まで冷たくて、昨日の余韻を少しずつ薄くしていくようだった。
制服を着ない朝は、思っていた以上に静かだった。
窓から差し込む光は柔らかく、机の上に積まれた参考書の影を長く伸ばしている。
受験は終わった。
卒業も終わった。
でも、胸の奥だけはまだ“終わっていない”みたいにざわついていた。
スマホが震え、静けさが破れる。
心愛からだった。
「今日、遊ばない?」
続けて莉里からも。
「最後に三人で出かけよ」
私は少し笑って、短く返した。
「行く」
♢♢♢
学校前に着くと、二人がすでに待っていた。
朝の光が校舎の壁に反射して白く輝き、制服じゃない三人が並ぶのは、どこか現実じゃないみたいだった。
「玲那、こっちこっち!」
心愛が手を振る。
莉里は白いマフラーを指先で押さえながら、少し照れたように笑った。
吐く息が白くほどけて、すぐに山の風に消えていく。
「私服で集まるの、初めてじゃない?」
「ほんとだね……なんか変な感じ」
校門の横を流れる川は、昨日よりも透明に見えた。
上流から流れてくる水音が、山の静けさをさらに深くしている。
バス停の屋根には昨夜の霜が少し残っていて、陽に照らされてきらきら光っていた。
バスが来るまでの時間、三人で川を眺めた。
水は澄んでいて、底の丸い石までくっきり見える。
この景色を見ながら通った三年間が、胸の奥でゆっくり溶けていく。
♢♢♢
バスに乗ると、車内には地元のおばあちゃんが数人。
窓ガラスには指で描いたような曇りが残っていて、揺れるたびに外の山がゆっくり流れていく。
「なんか修学旅行みたいじゃない?」
「都会に出るって感じするね」
二人の会話を聞きながら、私は窓の外を見た。
杉林の影がバスの床に揺れて落ち、山の匂いが少しだけ車内に入り込んでくる。
——この道を通るのも、あと少しなんだ。
そう思った瞬間、胸がきゅっと締めつけられた。
♢♢♢
最寄りの駅は、小さな無人駅。
ホームのベンチは冷たく、座ると布越しにひやりとした感触が伝わる。
電車は一時間に一本。
待ち時間は計算済みでも、20分ある。
最後の思い出作りに、三人で写真を撮った。お互いが、角度を変えて、心愛が変な顔をして。
私は胸の奥が少し痛んだ。
——鳴沢も、こんな景色を見てるのかな。
遠くから電車の音が近づき、線路がかすかに震えた。
心愛がはしゃぐ。
「乗るよー!」
車内は生暖かい空気がして、窓の外の景色が少しずつ山から街へ変わっていく。
田んぼが減り、建物が増え、空の色まで変わって見えた。
♢♢♢
一番大きな駅に着くと、空気が一気に変わった。
人の声、アナウンス、店の匂い、雑踏の熱気。
田舎とはまるで違う世界が広がっていた。
「すご……」
「まずはカラオケ行こ!」
カラオケの薄暗い廊下を歩くと、壁に反射するネオンが三人の影を揺らした。
「玲那の歌、もう一回聴きたい!」
「昨日のは反則だったよ」
「え、また……?」
私は照れながらマイクを持った。
昨日の卒業式とは違う。
今日は、ただの“友達との歌”。
音が部屋に広がり、三人の笑い声が重なって、時間があっという間に過ぎていった。
♢♢♢
プリクラを撮って、服を見て、ファストフードでポテトをつまみながら将来の話をした。
店内の油の匂いと、外から差し込む夕方の光が混ざり合って、どこか懐かしい気持ちになった。
「大学で友達できるかな」
「玲那は絶対モテるよ」
「やめてよ……」
でも、鳴沢の顔が浮かんだ。
その一瞬の影を、二人は見逃さなかった。
「……鳴沢君のこと?」
「……うん」
それ以上は言えなかった。
でも、二人は何も聞かずに微笑んでくれた。
♢♢♢
帰り道、バスを降りて学校前に戻ると、夕焼けが川面に広がっていた。
空はオレンジから紫へゆっくり変わり、山の影が長く伸びている。
「寄り道しよ」
莉里が言って、三人で川へ向かった。
川の音だけが響く。
風が髪を揺らし、冷たい空気が頬を撫でた。
「高校、終わっちゃったね。長い三年間だった。でも、終わりじゃないよ」
心愛は少し笑って、私たちを見た。
その目は夕焼けの色を映して、少しだけ潤んでいた。
「ねえ……ほんとにさ。毎日三人で会えてたのに、急に会えなくなるなんて変だよね」
その声は、夕焼けよりも少しだけ切なかった。
「でも、また会えるよ。私も帰ってくるし、二人も遊びに来てね。絶対だよ?」
「……うん」
「もちろん」
三人で並んで座り、川の流れを眺めた。
水面に映る空の色がゆっくり変わり、この時間が終わってほしくないと思った。
♢♢♢
学校前で解散するとき、心愛がぎゅっと抱きしめてくれた。
その体温が、今日一日のすべてを確かにしてくれるようだった。
「また遊ぼうね」
莉里も抱きしめてくれた。
「絶対だよ」
二人が帰っていく背中を見送り、私は一人で空を見上げた。
山の向こうに、星がひとつ光っていた。
冷たい空気の中で、その光だけがやけに強く見えた。
「……鳴沢」
声には出さなかった。
でも、胸の奥で確かに呼んでいた。
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