東京の空の下で(第37.5話)
卒業式の日の朝、目覚ましが鳴る前に目が覚めた。
胸の奥に、まだ形にならない熱が溜まっている。眠りの底から浮かび上がる途中で、心臓だけが先に現実へ戻ってきたような感覚だった。
カーテンの隙間から差し込む光は、いつもより白く、冷たく見えた。
その白さが、胸の奥の熱を逆に際立たせる。
光と熱が噛み合わず、身体の内側で微妙なずれが生まれる。
窓の外では、まだ眠りきらない街の空気が薄く揺れている。遠くで始発の電車が線路を震わせ、その振動が床を通して足裏に伝わってきた。
その震えが、自分の迷いを代弁しているように思えた。
今日は、近藤さんの卒業式。
その事実を思い出した瞬間、胸の奥がじんわりと熱くなった。
同時に、喉の奥がきゅっと締まる。
熱と痛みが同時に走り、呼吸の仕方を一瞬忘れた。
行きたい。
でも、行けない。
その矛盾が、胸の奥でずっと渦を巻いていた。
“行かない理由”を探す自分と、“行きたい気持ち”を隠そうとする自分が、静かに綱引きをしている。
布団から起き上がり、冷たい床に足をつける。
その冷たさが、迷いを一瞬だけ麻痺させた。
でもすぐに、胸の奥のざわつきが戻ってくる。
窓の外には、東京の朝が広がっていた。
ビルの影が長く伸び、通勤の人々が忙しなく歩いている。
信号の変わる電子音、バスのブレーキ音、誰かの足音。
そのすべてが、僕とは関係のない世界のリズムで動いているように感じた。
僕だけが、別の時間を生きているような気がした。
置いていかれているのか、立ち止まっているのか、自分でもわからない。
♢♢♢
朝食を作る気にもなれず、コンビニで買ったパンをかじる。
パンの袋が擦れる音だけが、やけに大きく響いた。
味はしなかった。
噛むたびに、胸の奥の空洞が広がっていくようだった。
テレビをつけても、ニュースの音が頭に入ってこない。
アナウンサーの口だけが機械的に動き、言葉は意味を持たずに空気へ溶けていく。
自分の心だけが、別の周波数で震えている。
スマホを見ても、近藤さんの名前をタップする勇気が出ない。
名前を見るだけで胸が痛むのに、触れたらもっと痛むと分かっていた。
何をしても、落ち着かなかった。
部屋の空気が薄く感じられ、呼吸が浅くなる。
胸の奥で、言葉にならない焦りが膨らんでいく。
——今頃、学校に向かってるのかな。
そんなことを考えてしまう自分が、情けなかった。
“気にしている”と認めることが、怖かった。
♢♢♢
昼前、外は少し曇っていた。
雲の切れ間から差す光が、街の色を淡くしている。
その淡さが、胸の奥の不安と妙に重なった。
僕はギターを膝に乗せ、近藤さんの歌詞を読み返した。
“光差す朝日に胸焦がれて
待ちきれない気持ちで踏みしめる”
紙の上の文字が、まるで呼吸しているように見えた。
近藤さんの声が、脳内で重なる。
あの真っ直ぐな歌い方。
少し照れたような笑顔。
思い出すだけで、胸の奥がじんわり熱くなる。
気づけば、僕は歌っていた。
声は震えていた。
でも、止められなかった。
歌うことでしか、胸のざわつきを処理できなかった。
歌いながら、ふと胸の奥がざわついた。
何かが——届いた気がした。
近藤さんの声。
泣きそうな声。
でも、強い声。
耳の奥で響いた。
「……え?」
ギターを置き、部屋を見回す。
誰もいない。
でも、胸の奥の震えだけが残っていた。
確かに、聴こえた気がした。
近藤さんの歌が。
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。
「……届いた」
その言葉は、誰にも聞こえなかった。
でも、確かにそこにあった。
♢♢♢
午後、僕は外に出た。
部屋にいると、胸が苦しくなりそうだった。
外気は少し冷たく、ビル風が首元を撫でていく。
その冷たさが、迷いを一瞬だけ静めてくれた。
駅前のカフェに入り、窓際の席に座る。
ガラス越しに見える人々は、誰もが目的地へ向かって歩いている。
自分だけが、行き先を決められずにいる。
スマホを取り出し、近藤さんの名前をタップする。
指が震える。
“卒業おめでとうございます”
“歌、聴こえました”
“会いたいです”
どれも打てなかった。
送った瞬間、自分の気持ちが露わになってしまう。
それが怖かった。
でも、送らなかったら、何も始まらない。
その狭間で、指が止まったまま動かない。
画面が暗くなり、僕の顔が映った。
疲れた顔。
情けない顔。
“逃げている”と自分で分かっている顔。
その顔に向かって、小さく呟いた。
「……近藤さん」
声が震えた。
「卒業、おめでとうございます」
その声は、誰にも届かない。
でも、どこかで届いてほしいと願った。
♢♢♢
夕方、街はオレンジ色に染まっていた。
光が長い影を落とし、影がゆっくりと伸びていく。
その伸びる影が、過ぎていく時間の形に見えた。
川沿いの道を歩く。
冷たい風が頬を撫でる。
胸の奥のざわつきは、まだ消えない。
ふと、名前を呼ばれた気がした。
振り返っても、誰もいない。
川の流れる音だけが、静かに耳に残る。
でも、確かに聞こえた気がした。
近藤さんの声で。
「……気のせい、じゃないよな」
呟いた声は、風に消えた。
♢♢♢
夜になり、部屋に戻ると、窓の外には星がひとつだけ光っていた。
東京では珍しい、はっきりした星。
その光は、まるで誰かが遠くから合図を送っているように見えた。
僕はその光に向かって、そっと呟いた。
「……僕も、前に進みますから」
近藤さんの歌が、遠く離れたこの街にも届いた気がした。
その“気がした”だけで、胸の奥が少しだけ温かくなった。
卒業式の日の東京は、静かに夜へと変わっていった。
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