東京前夜(第36.5話)
東京の空は、雲ひとつない冬の色をしていた。
乾いた青が、どこまでも硬質に広がっている。
その冷たさが、胸の奥のどこかと同じ温度をしている気がした。
レッスンが終わった帰り道、ビルの隙間から覗く夕焼けは、まるで遠い国の景色のようだった。
ガラス張りの高層ビルが赤く染まり、風に揺れる街路樹の影がアスファルトに細く伸びている。
人の波に押されながら歩いていると、周囲の喧騒だけが自分を置いていくようで、まるで自分だけが別の時間を生きているような錯覚に陥った。
——僕は、ここにいていいのか。
そんな考えが、ふと胸をかすめた。
イヤホンを耳に入れる。
再生したのは、近藤さんと一緒に作った“旅立ちの唄”のデモ音源。
近藤さんの声は入っていない。
それでも、歌詞を見れば、彼女がペンを走らせていたときの横顔が浮かぶ。
あの教室の空気、窓から差し込む午後の光、少しだけインクの匂いが混じった紙の感触——全部が蘇る。
胸の奥が、じんわりと熱くなった。
懐かしさと痛みが、同じ場所で混ざり合う。
——明日、卒業式か。
その事実を思い出した瞬間、足が止まった。
夕焼けの赤が、急に冷たく見えた。
行きたい。
でも、行けない。
その矛盾が、胸の奥で絡まり、ほどけないまま重く沈んでいく。
“行きたい”と願う自分が、どこかで“行く資格なんてない”と囁いている。
♢♢♢
アパートに戻ると、部屋の空気は外気より冷たかった。
薄暗いワンルームの中に、夕方の残光が細い帯になって差し込んでいる。
暖房をつけても、心の奥の冷たさは消えなかった。
机の上には、近藤さんの歌詞ノートの写真。
何度も開いては閉じたページ。
スマホの画面に浮かぶ文字は、どこか温度を持っているようで、触れれば指先が熱くなりそうだった。
今日は、自然と指が動いた。
画面に広がる文字。
近藤さんの筆跡。
消し跡。
迷いながら書いた跡。
その全部が、胸に刺さった。
——僕は、あの場所から離れてしまったんだ。
「……明日、歌うんだろうな」
呟いた声は、冷えた壁に吸い込まれて消えた。
近藤さんが歌う“旅立ちの唄”。
その姿を想像しただけで、胸が苦しくなる。
体育館の照明、並んだ椅子、冬の匂い。
その真ん中で歌う彼女の姿が、鮮明に浮かんだ。
見たい。
でも、見に行けない。
僕が行ったら、近藤さんを困らせる。
そう思うと、足が動かない。
“自分のせいで誰かが困る”という恐れが、いつの間にか身体の奥に根を張っていた。
♢♢♢
夜になり、外はすっかり暗くなった。
窓の外には、都会の光が滲んでいる。
車のライトが川のように流れ、遠くのビルの窓が星みたいに瞬いていた。
僕はギターを膝に乗せ、近藤さんの歌詞を読み返した。
“あの夏をずっと探している”
“君の声が僕を照らす”
その言葉を口の中で転がすと、自然とメロディが浮かんだ。
指先が弦を弾くたび、部屋の空気が少しだけ震える。
近藤さんの声が、脳内で重なる。
あの真っ直ぐな歌い方。
少し照れたような笑顔。
歌う前に息を吸う、あの小さな仕草まで思い出せた。
胸の奥が、じんわり熱くなる。
同時に、どうしようもない寂しさが押し寄せる。
気づけば、僕は歌っていた。
声は震えていた。
でも、止められなかった。
歌わなければ、胸の奥の何かが壊れてしまいそうだった。
歌い終わった瞬間、静寂が落ちた。
冷蔵庫のモーター音さえ聞こえないほどの静けさ。
その静寂の中で、ふと——
誰かが僕の名前を呼んだ気がした。
「……え?」
振り返っても、誰もいない。
薄暗い部屋の中、ギターの影だけが床に落ちている。
でも確かに、聞こえた気がした。
近藤さんの声で。
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。
“会いたい”という気持ちを、無理やり押し込めてきた場所が、痛む。
「……気のせい、か」
そう言いながらも、心臓は早く打っていた。
気のせいであってほしいような、気のせいじゃなければいいような、そんな矛盾した願いが胸の中で渦を巻いた。
♢♢♢
机に戻り、スマホを手に取る。
近藤さんの名前をタップする。
メッセージ欄が開く。
指が震える。
“明日、頑張ってください”
“歌、聴きたいです”
“会いたいです”
どれも打てなかった。
送ったら、何かが壊れてしまう気がした。
でも、送らなかったら、何も始まらない。
その狭間で、指が止まったまま動かない。
“失うのが怖い”という感情が、喉の奥に張りついて離れなかった。
画面が暗くなり、僕の顔が映った。
疲れた顔。
情けない顔。
その背後で、窓の外の光がぼんやり滲んでいる。
その顔に向かって、小さく呟いた。
「……近藤さん」
声が震えた。
「明日……歌ってください。僕の分まで」
その声は、誰にも届かない。
でも、どこかで届いてほしいと願った。
願うことしかできない自分が、少しだけ悔しかった。
♢♢♢
窓の外を見ると、星がひとつだけ光っていた。
東京では珍しい、はっきりした星。
ビルの隙間に浮かぶその光は、まるで誰かがそっと置いた目印のようだった。
僕はその光に向かって、そっと呟いた。
「……明日、見てますから」
近藤さんの歌が、遠く離れたこの街にも届く気がした。
その“気がした”だけで、胸の奥が少しだけ温かくなった。
卒業式の前夜は、静かに更けていった。
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