卒業式前夜(第36話)
卒業式の前日。
放課後の教室は、いつもより静かだった。
黒板の端には、クラスメイトが描いた桜の絵。
チョークの粉がまだ空気に溶けているようで、夕陽に照らされて淡く光っていた。
窓際には、誰かが折った紙の花が並んでいる。
外の風がガラスを震わせるたび、花びらがかすかに揺れ、影が机の上で震えた。
みんなが帰ったあと、その飾りだけが取り残されていた。
静けさが、教室の隅々まで染み込んでいく。
その静けさが、胸の奥の空洞と同じ形をしている気がした。
私は自分の席に座り、ぼんやりと前を見つめていた。
心愛と莉里は「先に帰るね」と言って、さっき帰っていった。
教室には、私ひとり。
ふと視線が横に滑る。
鳴沢の席が、夕方の光に照らされていた。
机の木目が橙色に浮かび上がり、影が長く伸びている。
机の上には何もない。
でも、そこに鳴沢が座っていた姿が、鮮明に浮かぶ。
頬杖をついて、少し眠そうに笑っていた横顔。
その記憶が、胸の奥をそっと掻きむしる。
「……明日、来ないよね」
呟いた声は、教室の空気に吸い込まれて消えた。
言葉を発した瞬間、自分の声があまりに弱くて、驚いた。
期待しちゃだめ。
そんなこと、わかっている。
でも、心のどこかで、ほんの少しだけ——
“もしかしたら”
その小さな希望が、まだ息をしていた。
その希望を自分で踏みつけるように、私は立ち上がった。
廊下の蛍光灯が、低く唸るような音を立てていた。
♢♢♢
音楽室の前に立つと、ドアの向こうからは何の音もしなかった。
放課後の校舎特有の冷たい空気が、足元からゆっくりと這い上がってくる。
胸の奥の温度まで奪われていくようだった。
そっと扉を開けると、薄暗い部屋の中に、ピアノだけが静かに佇んでいた。
窓の外の夕焼けが、鍵盤に細い光の帯を落としている。
その光が、まるで「ここに座っていた人」を示す線のように見えた。
私はゆっくりと歩き、ピアノの前に座った。
鍵盤に触れる。
冷たい。
でも、その冷たさが、どこか懐かしかった。
鳴沢の指先の温度を思い出させるようで、胸がきゅっと縮む。
鳴沢が座っていた位置。
鳴沢の指が触れていた鍵盤。
そのすべてが、まだ彼の気配を微かに残している気がした。
「……弾けないけど」
そう言いながら、私は鍵盤の上に手を置いた。
指先が震え、薄い息が漏れる。
“触れたら壊れそう”
そんな感覚が、胸の奥に広がった。
目を閉じると、鳴沢の音が蘇る。
柔らかくて、優しくて、私の歌を包み込んでくれた音。
その音が、今も耳の奥に残っている。
忘れようとしても、忘れられない。
私は深呼吸をして、歌い始めた。
“旅立ちの唄”の最初のフレーズ。
ピアノなしの声だけの歌。
声が天井に吸い込まれ、壁に反射し、また自分の胸に戻ってくる。
歌いながら、胸の奥がじんわり熱くなる。
鳴沢の声が、脳内で重なる。
あの真っ直ぐな声。
あの少し掠れた音。
その記憶が、歌うたびに胸を締めつける。
途中で、声が震えた。
涙が頬を伝う。
でも、止めなかった。
止めたら、もう歌えなくなる気がした。
歌うことでしか、鳴沢と繋がれない気がした。
最後の一音を歌い終えた瞬間、音楽室に静寂が落ちた。
外の風が窓を揺らす音だけが、遠くでかすかに響く。
「……鳴沢」
名前を呼んだ声は、震えていた。
呼んだ瞬間、胸の奥がひどく痛んだ。
「明日……来ないよね」
返事はない。
でも、どこかで聴いてくれている気がした。
その“気がした”にすがる自分が、少しだけ情けなかった。
♢♢♢
「やっぱりここにいた」
振り返ると、心愛がドアのところに立っていた。
廊下の光が逆光になって、彼女の輪郭を柔らかく縁取っている。
「玲那、泣いてるじゃん」
「……泣いてないよ」
「泣いてるよ」
心愛は近づいてきて、そっと私の肩に手を置いた。
その手は、外の冷たい空気とは違って、あたたかかった。
その温度に触れた瞬間、張りつめていたものが少しだけ緩んだ。
「明日、玲那が歌うの、鳴沢君もどこかで聴いてるよ」
「そんなわけ……ないよ」
「あるよ」
心愛は、迷いなく言った。
その迷いのなさが、逆に胸に刺さる。
「だって、玲那の歌は鳴沢君の歌でもあるんだから」
胸の奥がじんわり熱くなった。
“そうだったらいいのに”
その願いが、喉の奥で震えた。
「……心愛」
「うん?」
「ありがとう」
心愛はにっこり笑った。
「帰ろ。寒いよ」
♢♢♢
帰り道、冬の風が頬を刺した。
街灯の光が、歩道に長い影を落とす。
アスファルトの上に落ちた影が、風に揺れて震えていた。
ふと、私は立ち止まった。
「……今」
「どうしたの?」
「……鳴沢の声がした気がした」
心愛は驚いた顔をした。
でも、何も言わなかった。
その沈黙が、優しかった。
私は首を振って歩き出した。
「気のせいだよね」
「……どうだろうね」
心愛の声は、どこか優しかった。
“否定しないでくれてありがとう”
その言葉が喉まで出かかった。
♢♢♢
家に帰ると、部屋の中は静かだった。
窓の外の風の音だけが、遠くで鳴っている。
机の上の作詞ノートが、今日も私を待っている。
ページの白さが、部屋の灯りを反射してまぶしく見えた。
私はノートを開き、白紙のページを見つめた。
「……明日、ちゃんと歌いたい」
鳴沢に届かなくてもいい。
でも、私が歌いたいから歌う。
その気持ちが、胸の奥で静かに形を持ち始めた。
私はペンを握り、最後の歌詞を書き始めた。
言葉が止まらない。
涙が落ちても、書き続けた。
紙が少し波打つほど、涙が落ちた。
書き終えた瞬間、私は深く息を吐いた。
「……これでいい」
その言葉は、誰に向けたものなのか自分でもわからなかった。
♢♢♢
カーテンを開けると、冬の星空が広がっていた。
空気が澄んでいて、星がいつもより近く見える。
冷たい空気が頬に触れ、肺の奥まで透き通っていく。
私は小さく呟いた。
「鳴沢……明日、見ててね」
返事はない。
でも、風がそっと頬を撫でた。
その一瞬だけ、胸の奥の痛みがやわらいだ。
私は微笑んだ。
「……うん、行くね」
卒業式の前夜は、静かに更けていった。
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