旅立ちの唄(第35話)
翌朝、目が覚めた瞬間、胸の奥に昨日の余韻が残っていた。
薄いカーテン越しに差し込む冬の光は弱々しく、部屋の空気はまだ夜の冷たさを引きずっている。
机の上には、開きっぱなしの作詞ノート。
ページの端が少し反り返り、夜の湿った涙の跡が乾いて白く残っていた。
昨夜、泣きながら書いた文字が、淡い朝の光に照らされている。
読み返すのが怖かった。
でも、閉じることもできなかった。
「……下手くそ」
ページをめくる指先が、かすかに震えた。
言葉が浮かばなくて、何度も書いては消した跡が、鉛筆の粉の匂いと一緒に残っている。
でも、その不格好な文字たちが、今の自分の全部だった。
鳴沢がいたら、どう言うだろう。
「いいじゃないですか」って笑うだろうか。
それとも、真剣な顔で「ここ、もっとこうしたほうが」って言うだろうか。
どちらにしても、もう聞けない。
胸の奥がじんわり痛んだ。
制服に袖を通すと、冷えた布が肌に触れて身震いした。
深呼吸をひとつ。
今日から、卒業式の準備が始まる。
“旅立ちの唄”の練習も。
鳴沢がいないまま。
♢♢♢
教室に入ると、暖房の音と、朝のざわめきが混ざり合っていた。
黒板に大きく書かれた文字が目に飛び込んでくる。
《卒業式合唱練習 本日より開始》
チョークの粉がまだ空気に漂っているようで、白い線がやけに鮮明だった。
心愛が私の席に駆け寄ってきた。
「玲那、今日からだって。旅立ちの唄」
「……うん」
「園田先生が伴奏するらしいよ。鳴沢君の代わり」
その言葉に、胸がきゅっと締めつけられた。
窓の外で風が枝を揺らす音が、やけに遠く聞こえる。
「……そうなんだ」
わかっていた。
わかっていたけど、言葉にされると痛みが増す。
鳴沢が弾くはずだった。
鳴沢の音で、みんなで歌うはずだった。
その未来は、もうない。
♢♢♢
音楽室に入ると、ピアノの黒い艶が冬の光を反射していた。
園田先生が鍵盤に触れると、澄んだ音が静かな部屋に広がる。
でも——違う。
鳴沢の音とは違う。
鳴沢のピアノは、もっと柔らかくて、温かくて、私の胸に直接触れてくるような音だった。
「じゃあ、最初から歌ってみましょう」
園田先生の声で、練習が始まった。
“旅立ちの唄”の前奏が流れる。
その瞬間、胸の奥に冷たい風が吹き抜けたように、鳴沢の姿が脳裏に浮かんだ。
あの日、化学室で一緒に歌った時のこと。
夕陽が差し込んで、机の影が長く伸びていた。
鳴沢が照れながら「もう一回お願いします」って言った声。
ピアノの横で、私の歌に合わせてくれた横顔。
全部が、胸の奥で疼いた。
歌い出した瞬間、声が震えた。
喉の奥が熱くなり、息が浅くなる。
心愛が横目で私を見た。
莉里も、少し心配そうに眉を寄せている。
でも、私は歌い続けた。
震える声のまま、最後まで。
♢♢♢
練習が終わった後、園田先生が私を呼び止めた。
音楽室の窓から差し込む光が、床に淡い四角を描いている。
「近藤さん、ちょっといい?」
「……はい」
「今日の歌、すごくよかったよ」
「え……?」
「前よりも、ずっと深くなった。誰かのために歌っているみたいだった」
胸の奥が熱くなった。
息が少しだけ詰まる。
誰かのために——。
そんなの、決まっている。
でも、言えなかった。
「……ありがとうございます」
それだけ言って、私は音楽室を出た。
廊下の冷たい空気が、火照った頬に触れた。
♢♢♢
帰り道、夕暮れの空は薄い橙色に染まり、街灯がぽつぽつと灯り始めていた。
心愛と莉里が両側に並んで歩いている。
アスファルトに三人の影が長く伸びていた。
「玲那、今日……泣きそうだったよね」
心愛が言った。
「そんなことないよ」
「あるよ。歌ってる時、声震えてたもん」
莉里も頷く。
「玲那、無理してる」
「……してないよ」
「してる」
心愛の声は優しかった。
冬の風よりもずっと温かかった。
「鳴沢君のこと、まだ気にしてるんでしょ」
その言葉に、足が止まった。
夕暮れの冷たい風が頬を撫でる。
「……気にしてないって言ったら、嘘になるけど」
「気にしていいんだよ」
心愛は、まっすぐな目で言った。
「だって、玲那の歌は鳴沢君と一緒に作ったんだから」
胸の奥がじんわり熱くなった。
「……ありがとう」
それしか言えなかった。
♢♢♢
家に帰ると、部屋の中は静かだった。
窓の外では風が電線を揺らし、かすかな唸り声のような音を立てている。
机の上の作詞ノートが、今日も私を待っている。
ページを開くと、昨日書いた歌詞が、少しだけ色褪せたように見えた。
まだ下手くそ。
まだ形になっていない。
でも、書きたい気持ちは確かにある。
私は深呼吸をして、ペンを握った。
インクの匂いが、静かな部屋に広がる。
“旅立ちの唄”を、一人で歌ってみる。
鳴沢の声が、脳内で重なる。
あの優しい声。
あの真っ直ぐな音。
歌いながら、涙が頬を伝った。
でも、最後まで歌い切った。
歌い終わった後、私は小さく呟いた。
「……鳴沢、聴いてる?」
返事はない。
でも、どこかで聴いてくれている気がした。
その“気がした”だけで、少しだけ前に進める気がした。
♢♢♢
窓の外では、冬の風が静かに吹いていた。
その音が、遠く離れた東京の空と繋がっているように思えた。
私は作詞ノートを閉じ、そっと胸に抱いた。
——卒業式までに、ちゃんと歌えるようになりたい。
その願いだけが、今の私を支えていた。
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