冬の空白(第34話)
受験が終わった翌朝、目覚ましが鳴る前に目が覚めた。
眠った気がしないのに、身体だけが妙に軽い。
緊張の糸が切れた反動なのか、それとも何かが抜け落ちたせいなのか、自分でも判別がつかなかった。
けれど、胸の奥だけはずっと重いままだった。
そこだけ、冬の空気が沈殿しているみたいに冷たかった。
机の上には、昨日まで必死に開いていた参考書が積み上がっている。
その横に、ひっそりと置かれた作詞ノート。
視界の端に入るたび、胸の奥がざわりと波立つ。
——開けない。
そう思いながら、私はノートをそっと裏返した。
表紙が見えないだけで、ほんの少しだけ呼吸が楽になる。
それでも、ノートの“存在”だけは消えてくれなかった。
受験が終わったはずなのに、達成感はどこにもなかった。
むしろ、ぽっかりと穴が空いたような感覚だけが残っていた。
胸の奥に沈んだ重さは、言葉にできないまま形だけを変えて広がっていく。触れようとすると逃げていくのに、確かにそこに居座り続ける影のようだった。
「……行かなきゃ」
自分に言い聞かせるように呟き、制服に袖を通した。
布の冷たさが、妙に現実的だった。
♢♢♢
学校に着くと、廊下には久しぶりに明るい声が響いていた。
笑い声、ため息、安堵、焦り。
それぞれの空気が混ざり合って、冬の校舎にゆっくりと広がっていく。
「玲那、おはよー!」
心愛が、いつも通りのテンションで手を振ってきた。
その明るさが、今日は少しだけ眩しく感じた。
光を直視したときのように、胸の奥がちくりと痛む。
「おはよう、心愛」
「昨日どうだった? 手応えあった?」
「まあ……そこそこかな」
「そっか。よかったじゃん」
心愛は笑った。
その笑顔に、少しだけ救われる。
けれど、心の奥に沈んだ重さは、微動だにしなかった。
教室に入ると、莉里が机に突っ伏していた。
「莉里、大丈夫?」
「……寝てた」
「寝てたんだ」
「昨日の疲れが一気に来た……」
莉里の声はかすれていた。その姿が、少し羨ましかった。莉里は“受験の疲れ”で倒れている。
私は——何に疲れているんだろう。
♢♢♢
席に向かう途中、視線が自然とある場所に吸い寄せられた。
鳴沢の席。
そこだけ、ぽっかりと空いていた。
筆箱も、上着も、何もない。
ただ、冬の光だけが机の上に落ちていた。空いた席に落ちる冬の光は、まるで誰かの気配だけを残していくみたいで、見ているだけで胸がひりついた。
——いない。
わかっていた。
わかっていたのに、胸がぎゅっと締めつけられた。
席に座ると、心愛が小声で言った。
「玲那、大丈夫?」
「大丈夫だよ」
笑ってみせたけれど、心愛は納得していない顔をしていた。
「無理しないでよ」
「してないよ」
——している。
本当は、している。
♢♢♢
放課後、帰り道を歩きながら、私は無意識に周囲を見回していた。
鳴沢と歩いた道。
鳴沢と話した橋。
鳴沢と寄ったコンビニ。
どこを見ても、鳴沢の影があった。
冬の夕暮れの光が、記憶の輪郭をやわらかく照らしてくる。
「……いないのに」
いないのに、いるみたいだ。
そんな感覚が、胸の奥をじわじわと締めつける。
家に着く頃には、心がぐったりと疲れていた。
身体よりも、心の方がずっと重かった。
♢♢♢
夕食を終えて部屋に戻ると、机の上の作詞ノートがまた視界に入った。
裏返しているのに、存在感だけは消えない。
「……見ない」
そう言いながら、私はスマホを手に取った。
鳴沢の動画サイトを開く。
新しい投稿はなかった。
それでも、私は過去の曲をタップしていた。
スピーカーから流れる鳴沢の声。
少し掠れた、でも真っ直ぐな声。
その声が部屋の空気を震わせた瞬間、胸の奥が熱くなった。
「……なんで」
涙が頬を伝った。
自分でも気づかないうちに、呼吸が浅くなっていた。
「なんで、こんなに遠いの……」
鳴沢は東京にいる。
夢のために、前に進んでいる。
それは嬉しいはずなのに、どうしてこんなに苦しいんだろう。
スマホを伏せて、私は深く息を吐いた。
吐いた息が、冬の夜気みたいに冷たかった。
♢♢♢
しばらくして、机の端に置かれた作詞ノートに目が止まった。
——開けない。
そう思ったのに、手が勝手に動いた。
ノートを開くと、鳴沢と一緒に書いた歌詞が並んでいた。
あの日の放課後の空気が、ページの間からふわりと蘇る。
教室の匂い、夕陽の色、鳴沢の横顔。
全部が一瞬で胸に押し寄せてきた。
ページをめくるたび、胸が痛くなる。
でも、最後のページだけは白紙だった。
白紙のページは静かに私を映していた。
逃げ続けてきた時間まで、薄い紙の向こうからじっと見つめ返してくるようだった。
「……」
私はペンを握った。
指先が少し震えていた。
書けるかわからない。
でも、書きたい気持ちだけは確かだった。
「……書けるかな」
ペン先が紙に触れた。
その瞬間、胸の奥に小さな灯りがともった気がした。
鳴沢に届くかどうかなんて、わからない。
でも、書かなければ何も始まらない。
私は、ゆっくりと一文字目を書き始めた。
♢♢♢
窓の外では、冬の風が静かに吹いていた。
その音が、どこか遠くで鳴沢の声と重なった気がした。
——まだ終わっていない。
そう思えたのは、ほんの少しだけだった。
けれど、その“少し”が、今の私には十分だった。
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