僕たちの距離(第33.5話)
東京の夜は、思っていたよりも冷たかった。
ビルの間を吹き抜ける風は、祖谷でみる山風とは違う。
鋭くて、乾いていて、どこか人の気配を拒むような冷たさだった。
街の光は明るいのに、胸の奥だけが妙に暗い。そんな矛盾した空気が、肌にまとわりつく。
駅からレッスンスタジオまでの道を歩きながら、僕は何度もスマホを取り出しては、画面を点けて、また消してを繰り返していた。
歩くたび、ポケットの中でスマホが小さく揺れる。その重さが、罪悪感の形をしているように思えた。
近藤さんの名前。
その文字を見るだけで、胸の奥がぎゅっと痛む。
画面の光が指先を照らすたび、あの日の言い争いが蘇る。言わなくていい言葉を言ってしまった瞬間の、あの取り返しのつかなさ。
──連絡、来てない。
わかっていた。
わかっていたのに、確認せずにはいられなかった。
期待している自分が、いちばん嫌だった。
スタジオの自動ドアが開くと、暖房の熱気と、少しだけ混じった汗の匂いが鼻をくすぐった。
外の冷たさから一気に解放されるはずなのに、胸の奥の冷えだけは消えない。
講師の先生は、いつものように明るく迎えてくれた。
「鳴沢。昨日の課題はどうだった?」
「……すみません。まだ形になってなくて」
声が少し震えた。自分でも気づくほど弱々しい声だった。
「そっか。焦らなくていいよ。でも、何か迷ってる?」
迷っている。その言葉が胸に刺さった。
図星すぎて、息が詰まる。
でも、僕は首を横に振った。
「いえ……大丈夫です。明日には……いえ、明後日には必ず……」
「無理はしなくていいよ。焦って適当に書いた歌なんて、ろくなものじゃないから」
本当は大丈夫じゃない。でも、言えなかった。
近藤さんと喧嘩したまま、東京に来てしまった。
謝るタイミングを逃して、気づけば距離はどんどん離れていった。
その距離が、今の僕の歌を曇らせている。
歌詞の行間に、言えなかった言葉が滲んでしまう。
♢♢♢
レッスンが終わり、夜の街に出ると、ネオンの光が目に刺さった。
人の多さに圧倒されながら、僕はコンビニの前で立ち止まった。
人の波は絶えず流れているのに、自分だけ取り残されているような感覚があった。
スマホを取り出す。
近藤さんの名前をタップする。
メッセージ入力欄が開く。
——元気ですか。
そう打とうとして、指が止まった。
胸の奥が、ぎゅっと縮む。
送ったら、迷惑じゃないだろうか。
近藤さんは、もう僕のことなんて気にしていないかもしれない。
そんな想像が、喉の奥を苦くする。
画面を閉じようとした瞬間、ふと、スマホの奥に保存していた写真が目に入った。
近藤さんの歌詞ノート。あの日、こっそり撮ったページ。
“旅立ちの唄”の下書き。
消し跡だらけの文字。
何度も書き直した跡。
その一文字一文字が、胸の奥に刺さった。
——僕は、あの人の言葉に支えられていたんだ。
気づいた瞬間、息が詰まった。
寒さとは違う震えが、背中を走った。
♢♢♢
築30年は経過しているボロアパート。会社の所有物で、若手は皆ここに入る。
アパートに戻ると、部屋は静かだった。
冷蔵庫のモーター音だけが、やけに大きく響く。
その単調な音が、孤独を強調する。
机に向かい、パソコンを開く。近藤さんが送ってくれた歌詞。あの日、勇気を振り絞って送ってくれた言葉。
ずっと開けなかった。怖かったから。
でも、今なら——。
クリックすると、画面いっぱいに文字が広がった。
その瞬間、胸の奥が熱くなる。
目の奥がじんわり滲む。
「……やっぱり、近藤さんの言葉が好きだ」
呟いた声は震えていた。
その震えが、ようやく本音に触れた証のように思えた。
気づけば、僕はキーボードを叩いていた。
ピアノアプリを開き、近藤さんの言葉に音を乗せていく。
メロディが自然に溢れ出す。止めようとしても止まらない。
——ああ、僕はずっと、近藤さんの言葉を待っていたんだ。
その事実が、胸の奥に静かに落ちた。
♢♢♢
曲がひと段落した頃、窓の外は深夜の色に染まっていた。
遠くで救急車のサイレンが鳴っている。
都会の夜は眠らないのに、僕の心だけが立ち止まっている。
スマホを手に取る。近藤さんの名前をタップする。
メッセージ欄に、指が触れる。
“歌詞、ありがとう”
“また一緒に作りたいです”
そこまで打って、指が止まった。
送信ボタンが、やけに遠く見える。
指先が震えた。押すだけなのに、その一動作がどうしてもできない。もし拒まれたら、もう二度と立ち直れない気がした。小さなボタンが、未来そのものの重さを持っていた。
押せば、何かが変わるかもしれない。でも、押した瞬間、壊れてしまうかもしれない。
胸が苦しくなる。
画面が暗くなり、僕の顔が映った。疲れた顔。情けない顔。その顔に向かって、小さく呟いた。
「……会いたいよ、近藤さん」
その声は、誰にも届かない。東京の夜に溶けていった。
♢♢♢
その頃、遠く離れた祖谷の街で、近藤さんは、僕の返信が来ないスマホを握りしめていた。
僕たちの距離は、まだ埋まらないまま。
でも、確かにどこかで、また繋がり始めていた。
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