言えなかった言葉(第27.5話)
冬休みに入ってから、化学室の匂いが急に遠くなった気がした。
毎日通っていたはずなのに、思い出そうとすると、胸の奥がざわついて、記憶の輪郭が自分から逃げていく。
まるで、思い出すことそのものを身体が拒んでいるみたいだった。
あの日——
僕は、近藤さんにひどいことを言った。
「暇人じゃないですか」
言った瞬間、自分の声が自分のものじゃないように聞こえた。
口が勝手に動いた。
心の奥に溜まっていた焦りや不安が、あの一言に全部押し出された。
止めたかったのに、止められなかった。
近藤さんが驚いた顔をしたとき、胸の奥がひゅっと縮んだ。
その痛みから逃げるように、僕は化学室を飛び出した。
扉を閉めた瞬間、心臓が暴れ出した。
呼吸が浅くなり、視界が少し揺れた。
廊下の冷たい空気が肺に刺さるのに、それでも戻る勇気はなかった。
——嫌われた。
その言葉だけが、頭の中で何度も反響した。
反響するたびに、胸の奥がじわじわと痛んだ。
♢♢♢
家に帰っても、胸のざわつきは消えなかった。
机に向かっても、文字が目に入らない。
ピアノアプリを開いても、音が全部、どこか遠くで鳴っているように聞こえた。
「……僕、何してるんだろ」
声に出した瞬間、自分の声がひどく軽くて、頼りなくて、情けなく感じた。
スマホを開けば、近藤さんとのトーク画面が表示される。
開いては閉じ、閉じては開く。
そのたびに胸がざわつき、指先が冷たくなった。
謝りたい。
でも、何をどう言えばいいのかわからない。
“ごめんなさい”
その一言が、喉の奥で重りみたいに引っかかって出てこなかった。
もし既読がつかなかったら。
もし返事が来なかったら。
考えるだけで、胸の奥がぎゅっと縮んだ。
♢♢♢
三日目の夜。
羽山さんから電話が来た。
『鳴沢君、今から来れる?』
その声を聞いた瞬間、心臓が跳ねた。
断ったら、もっと嫌われる気がした。
“嫌われる”という言葉が、最近の僕の行動を全部支配していた。
エッセンラーデンに着くと、羽山さんは笑っていた。
でも、その笑顔の奥にある“怒り”と“心配”が、痛いほど伝わってきた。
僕は、誰かの感情をこんなふうに読み取るのが怖かった。
「玲那が話したいことあるって。ちゃんと聞いてあげて」
その言葉を聞いた瞬間、胸がぎゅっと縮んだ。
逃げたい気持ちと、会いたい気持ちが同時に押し寄せて、呼吸が乱れた。
そして、近藤さんが顔を上げた瞬間。
胸の奥が一瞬、空白になった。
泣きそうな顔。
怒っている顔。
それでも僕を見てくれた顔。
その全部が、僕の心を一気に揺らした。
♢♢♢
「僕のほうこそ……勝手に怒ってごめん」
言葉にした瞬間、喉が震えた。
謝罪の言葉が、胸の奥に刺さっていた棘を少しだけ動かした。
本当はもっと言いたいことがあった。
——本当は、近藤さんがいないと歌が作れない。
——近藤さんの歌詞じゃないと、僕は前に進めない。
——近藤さんがいないと、僕は怖い。
でも、どれも言えなかった。
言ったら、きっと重い。
迷惑だ。
そう思った瞬間、言葉が喉の奥で固まった。
だから、謝ることしかできなかった。
♢♢♢
仲直りできたはずだった。
でも、胸の奥のざわつきは消えなかった。
むしろ、形を変えて残り続けた。
帰り道、羽山さんに言われた。
「鳴沢君、もっと周りを頼りなよ。玲那も、あんたも、抱え込みすぎ」
その言葉が、胸の奥にゆっくり沈んでいった。
“頼る”という行為が、僕にはずっと遠いものだった。
頼るって、どうすればいいんだろう。
僕は、誰かに頼る方法を知らない。
でも——
近藤さんだけは、頼ってもいい気がした。
その考えが浮かんだ瞬間、胸の奥が少しだけ温かくなった。
♢♢♢
次の日、祠で近藤さんを見つけた。
笹川と話している近藤さんは、少し笑っていた。
その笑顔を見た瞬間、胸の奥がきゅっと痛んだ。
——僕じゃなくても、いいんだ。
その考えが浮かんだ瞬間、足が止まった。
胸の奥が冷たくなり、喉が固まった。
声をかけようとした。
でも、喉が動かなかった。
僕は、ただの“相棒”だ。
歌を作るための相棒。それ以上でも、それ以下でもない。
そう思ったら、祠に近づくことができなかった。
僕は踵を返し、羽山さんにだけメッセージを送った。
(……仲直り、できませんでした)
本当は違う。
本当は、僕が逃げただけ。
でも、その言葉を打つ勇気すらなかった。
♢♢♢
家に帰って、机に向かった。
胸の奥がずっと重かった。
近藤さんの歌詞ノートを思い出す。
あの言葉たちが、僕の中でずっと響いていた。
——僕は、近藤さんの歌詞が好きだ。
その気持ちだけは、嘘じゃない。
むしろ、それだけが今の僕を支えていた。
だから、僕は曲を作った。
近藤さんの歌詞に、僕の音を重ねた。
完成した瞬間、涙が出た。
胸の奥に溜まっていたものが、少しだけ溢れた。
——届けたい。
——でも、届ける資格がない。
その葛藤だけが、胸に残った。
♢♢♢
冬の夜。
東京行きの切符を握りしめながら、僕は思った。
——近藤さん。
——僕は、あなたに会いたい。
でも、会いに行く勇気はなかった。
だから、僕は逃げるように東京へ向かった。
逃げた先で、あなたの歌詞を思い出しながら、曲を作り続けた。
あなたの言葉が、僕の音楽のすべてだった。
それだけは、誰にも言えない秘密のまま。




