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25時の音楽  作者: 倉木元貴


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踏み出せない(第24.5話)

 夏休みが明けた日の放課後。

 化学室の前でスマホを握りしめたまま、僕は何度も深呼吸をしていた。

 胸の奥が、ずっとザワザワしている。

 通知欄に残った、あのメッセージのせいだ。


 ──タニーミュージックエンタテインメント

 ──一次審査免除

 ──オーディション参加のお願い


 画面を見るたびに、心臓が跳ねる。

 嬉しいはずなのに、足は震えて、喉は乾いて、息は浅くなる。


 どうして僕なんかに。

 どうして、僕の声なんかに。


 そんな疑問ばかりが、頭の中をぐるぐると回っていた。

 そこへ、廊下の向こうから近藤さんの声が聞こえた。


「鳴沢。こんなとこで何してるの?」


 その瞬間、僕の肩は勝手に跳ねた。

 驚いた顔を見られたくなくて、スマホを握る手に力が入る。


「こ、近藤さん……ちょっと話したいことがあります……」


 声が震えているのが、自分でもわかった。

 でも、どうしても、一人では抱えきれなかった。


 化学室に入ると、いつもの匂いがした。

 薬品の匂い、古い木の机の匂い。

 鼻に残る匂いだけど、僕が一番落ち着ける場所の匂い。


 だけど今日は、どこにも逃げ場がなかった。


「……実は、メッセージが来たんです」


 スマホを差し出す手が震える。

 近藤さんが画面を覗き込む。その横顔を見るだけで、胸が痛くなる。


 ──どう思われているんだろう。

 ──笑われるんじゃないか。

 ──「行けば?」って言われたら、僕はどうすればいいんだろう。


 そんな不安ばかりが膨らんでいく。


「すごいじゃん……!」


 近藤さんの声は、少し裏返っていた。でも、その目は本当に嬉しそうで、まるで自分ごとのようだった。


 その瞬間、胸の奥がキュッと痛んだ。


 ──ああ、やっぱり。

 ──近藤さんは、僕が行くべきだと思っているんだ。


「東京に行ったら……多分、いい歌はできると思うけど……」


 喉の奥で言葉が詰まった。


「……こ、近藤さんと、一緒に作れなくなるから」


 それが本音だった。

 僕は、近藤さんと歌を作る時間が好きだった。あの放課後の空気が、僕を救ってくれた。

 でも、近藤さんは笑っていた。


「行くべきだよ」


 その笑顔が、どこかぎこちないことに気づいた。だけど、僕はそれを指摘できなかった。


 ──僕のために、笑ってくれている。

 ──僕のために、背中を押してくれている。


 そう思ったら、何も言えなくなった。


「……わかった。行ってみる」


 そう言った瞬間、胸の奥で何かがひび割れた気がした。


♢♢♢


 帰り道。

 並んで歩いているのに、近藤さんとの距離が遠く感じた。

 近藤さんは、僕のために笑ってくれている。でも、その笑顔の奥にあるものを、僕は見てしまった。


 ──寂しさ。

 ──不安。

 ──そして、僕と同じ痛み。


 家に帰っても、胸のざわつきは消えなかった。

 スマホを握りしめたまま、天井を見つめる。

 模様も何もなくても、心にはモヤモヤしたものがあった。


 東京に行くべきなのか。行ったら、僕は変わってしまうのか。近藤さんとの距離は、もっと離れてしまうのか。


 考えれば考えるほど、息が苦しくなる。


 その夜。僕は初めて〝歌を作ることが怖い〟と思った。


♢♢♢


 次の日。近藤さんが羽山さんに相談しているのを、遠くから見てしまった。

 僕の知らないところで、僕の話をしている。それだけで、胸がざわついた。


 ──僕は、近藤さんの隣に立っていいのだろうか。


 そんな疑問が、頭から離れなかった。


♢♢♢


 夜。

 布団に潜り込み、スマホを握りしめたまま、僕は思った。


 ──もし、僕が東京に行っても、近藤さんは僕の歌を聞いてくれるのだろうか。

 ──僕の歌詞を読んでくれるのだろうか。

 ──僕のことを、忘れないでいてくれるのだろうか。


 その答えを僕は持ち合わせていなかった。

 ただ一つだけ、確かなことがあった。


 ──僕は、近藤さんの歌詞がないと歌を作れない。


 その事実だけが、胸の奥で静かに疼いていた。


♢♢♢


 家に帰ると、玄関の空気はひんやりしていた。

 靴を脱ぎながら、胸の奥がじんわりと痛む。


 ──近藤さん、怒っていた。


 怒っていたというよりも、傷ついていた。

 あの顔は、今でも目を閉じればすぐに浮かぶ。


 自分の部屋に入ると、机の上には開きっぱなしのノートパソコン。

 画面には、近藤さんが書いた歌詞をもとに作った〝あの曲〟のデータが残っていた。


 再生ボタンを押す。

 スピーカーから流れてくるのは、まだ荒削りなメロディ。


 ──本当は、一緒に作りたかった。


 でも、あの時の自分は焦っていた。

 近藤さんが忙しそうにしていたから、負担を減らしたかった。

 それに、東京の二次審査のことが頭から離れなくて、心が落ち着かなかった。

 「一緒に作ろう」と言ったのは自分なのに、勝手に進めてしまった。


 近藤さんが怒るのは当然だ。


 机に突っ伏すと、額が冷たい木の表面に触れた。その冷たさが、胸の奥のざわつきを少しだけ落ち着かせる。


 ──どうすればよかったんだろう。


 近藤さんの歌詞は、どれも温かくて、真っ直ぐで、自分には書けない言葉ばかりだった。

 だからこそ、近藤さんの歌詞を無駄にはしたくなかった。

 形にして、届けたかった。

 でも、それが近藤さんを傷つける結果になるなんて、思いもしなかった。


 スマホを手に取り、近藤さんとのトーク画面を開く。


 「ごめんなさい」

 そう打とうとして、指が止まった。


 ──何を謝ればいいのだろう。


 謝りたい気持ちはある。でも、何をどう謝れば伝わるのかがわからない。


 近藤さんは、いつも僕の言葉を拾ってくれた。

 僕のペースに合わせてくれた。

 それなのに、僕は近藤さんの気持ちを考えられなかった。


 胸の奥がぎゅっと締め付けられた。


 「……僕、何やってるんだろう」


 呟いた声は、情けなくて、弱々しかった。


 その時、机の上のスマホが震えた。

 画面には近藤さんの名前。


 ──でも、開けなかった。


 怖かった。近藤さんが何を言うのか。僕がどう返せばいいのか。

 何を言っても、また傷つけてしまう気がした。


 スマホを伏せると、部屋の中が急に静かになった。

 窓の外では、冬の風が木々を揺らしている。

 その音が、やけに遠く感じた。


 ──僕は、近藤さんの隣に立てる人間なのかな。


 東京に行けば、もっと歌が上手くなるかもしれない。

 でも、近藤さんと一緒に作る歌は、きっと今しか作れない。

 その〝今〟を、僕は壊してしまった。


 胸の奥がじんわりと熱くなる。

 目の奥が痛む。


 「……ごめん、近藤さん」


 誰にも届かない声でつぶやいた。

 その夜、僕は一睡もできなかった。

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