2:負けるの…?
(まずい!これでは明日の昼休みの話題になってしまう!)
夕暮れの教室。
隣の席で突っ伏して泣き始めた金髪の少女――三上を見て、旭郎は反射的に廊下側の窓から飛び出そうになる。
(だが、気付かれてしまったのなら、ここで慌てて逃げ出すのはやましいことがあると思われかねない。
ならば、堂々と気が付かないふりをして出れば問題ないはずだ)
瞬時にそう思考を巡らせた旭郎は、泣いている三上を無視して扉のあるほうへ歩みを進める。
扉の外へ出てしまえば、幸いにこの教室は階段の近くにある。
そこまでたどり着ければ、問題はない。
ガクッ、と。
旭郎の足が止まった。いや、止められた。
思わず転けそうになり、近くの机を頼りに体の態勢を戻す。
油の切れた機械のように、旭郎はギギギ……と首だけを後ろに向ける。
そこには、依然として顔を伏せたままの三上が、旭郎の制服の端をギュッと握りしめていた。
「…………」
小柄な彼女の小さな手。
しかし、その握力は尋常ではなく、簡単には引き剥がせそうにない。
ここで乱暴に引き剥がすと、それはそれで明日の昼休みの話題になってしまう。
……少し迷っていると、手が上に進み、ベルトへ指を絡めた。
服の裾であれば、気が付かなかったと無理やり振り払うこともできたが、こうなったらもう無理だ。
「……」
旭郎にとって、この手のタイプは完全に対象外だ。
タイプが真逆でもあるし、何より恋愛対象に入っていない。
全人類に対していいかっこをしたいタイプではない旭郎。
とはいえ、泣いている女子を邪険に振り払うほど野蛮な育ち方もしていない。
(わざわざ放課後残ってまで仕事をしたのに、これは大分ファンブルではないか?)
脱出を諦めた旭郎は、ベルトを掴んでいる三上に声をかける。
「……あの、なにか用ですか?」
不快感が出ないよう努めて平坦な声を出すと、三上は顔を伏せたまま、震える声でぽつりとこぼした。
「……泣いてる女の子がいたら、声をかけるのが……紳士じゃないでしょうか」
「…………そうですね」
構ってほしい。
そう遠回しに要求してくる彼女の言葉に、旭郎の顔が盛大に歪む。
今日は華の金曜日。
この後の予定はなく、彼女に割く時間の余裕はあるが……それはそれだ。
大して仲も良くない異性の面倒を見るほど、旭郎はお人好しではない。
もしここに第三者がいれば、今の旭郎の露骨に嫌そうな顔を見てドン引きしていただろう。
死んだ目というほどではないが、本当に不快なものを見る目を旭郎は向けていた。
もし、三上が今の顔を見れば、今の涙とは別の意味のものを出しかねない。
返答がないのを肯定と受け取ったのか、机に突っ伏していた三上がゆっくりと顔を上げる。
急いで平静な顔を取り繕った旭郎とは異なり、三上は泣き腫らしてぐしゃぐしゃ……というほどではないが、それでもお世辞にも他人に見せられるような綺麗な表情ではなかった。
「……少しだけでいいから、時間をちょうだい」
上目遣いでそう懇願される。
旭郎はそれなりに勘が良い自認がある。
点と点を線で繋ぐのが得意なのだ。
これまでの昼休みの彼女の様子と、今のこの泣き方。
少なくとも教師に説教されたとかそういうのではないだろう。
もしそうであるならば、今頃あのグループで話題にして慰めてもらっているだろうから。
……となれば、恐らく、あのグループの中にいる意中の相手に告白でもして、玉砕したといったところか。
(……まあ、他人の恋愛事情なんてどうでもいい。が……気まずい雰囲気がある中で昼食を食べるのも嫌だな)
内心で深いため息をつきながらも、フラれたばかりの女子を無下に扱うことはできず、旭郎は彼女に指差された前の席――三上と向かい合う形でドカッと座った。
(面倒なことに関わってしまった……今日は厄日だろうか)
握りしめたままだったハンカチをポケットへしまう。
そして代わりにバッグの中を漁り、取り出したものを彼女の机の上に置く。
「……これ、使ってください」
「え……?」
旭郎がバッグから取り出して差し出したのは、透明なフィルムに入ったままの『新品未開封のハンカチ』だった。
母親に「念のため持っていきなさい」と常に持たされていた予備。
本来の用途は外で無くしたときのための予備なのだが……だからといって、自分が汗を拭いたりトイレ後の手拭きなど、一日使い終わった後のものを人に差し出すわけにはいかない。
ましてや相手は泣いている女子なのだ。
(……これはこれでキモいな。でも、使用済みを渡すよりマシだろう)
それをまるでプレゼントのように差し出す。
机の上に置かれたハンカチを見て、三上はポカンとした表情をする。
「……ふふっ、なにそれ。なんで新品のを持ってるの……」
「こういう事があろうかと」
「なにそれ〜……意外と愉快な人?」
「どうでしょうね」
涙目で少しだけ笑った彼女を見て、旭郎は営業用のにこやかな微笑みを浮かべた。
あのまま泣き続けられるのは、こちらのメンタルにも悪い。
丁寧にハンカチを開けて、涙を拭く三上。
「そういえばなんでこの時間までいるの?」
それはこちらのセリフだ、というツッコミを飲み込みつつ、それを顔や声に出さないようごまかしながら返答を行う。
「美術の先生に呼び出されましてね……今の今まで手伝いをさせられてたんですよ」
「え、あれ行ったの!?いい人だね、あなた」
(彼女も美術室に誘われていたのか、それとも誰が誘われたか知っていたのか……まあ、いまさらどうでもいいか)
「そうですね……で、帰ってきたらこれですからね」
「今日は人にやさしくする日なんだね」
思わず毒が漏れてしまったが、三上は気が付いていないようだった。
もしくは、気が付いていたが、どうでもいいことだと受け流したか。
どちらかは旭郎にはわからなかった。
「……そういえば、名前なんだっけ」
「更科です」
「さらしな? 下の名前は?」
「あきおです」
「漢字はなんて書くんだっけ?」
「北海道にある旭市の『旭』と桃太郎の『郎』です」
「……パッと出てこないな」
旭郎は仕方なく自分のカバンから自主勉強用に使うノートを引っ張り出す。
「あ、わざわざ書いてくれるんだ……これ貸したげる」
「ありがとうございます」
適当な空きページに受け取ったシャープペンシルで『更科旭郎』と書き記した。
旭郎は、ノートの新しいページに名前を書いてから気づく。
そもそもノートの表紙に名前が書いてあるのだから、わざわざ白紙のページを開いて書く必要などなかったのではないかと。
「へ〜! 私は『三上栞』っていうの! こう書くんだよ」
言うが早いか、三上は旭郎のノートを自分の方へグイッと引き寄せた。
机から身を乗り出した彼女の金髪が、さらりと揺れる。
使っている制汗剤の甘い香りが鼻を掠めるほど、顔が近い。
染めた髪特有の傷んだような形跡は一切なく、夕日を反射してきらきらと光っていた。
そしてあろうことか彼女は、『更科旭郎』の横に、自分のペンでデカデカと『三上栞』と書き込んだのだ。
そこそこきれいな字で書かれた名前。
しかし、シャープペンシルで書いた旭郎の文字と違い、彼女のものは消せない。
消せるタイプのボールペンもあるが、彼女が持っているそれはどう見てもごく普通の『油性ボールペン』だ。
「…………」
「かわいいでしょ?」
「いい名前だと思いますよ」
旭郎は細かいことを気にするタイプではない。
ないのだが、他人のノートに消せないペンで躊躇いなく名前を書き込むこの無防備な性質には、ひどく複雑な感情を抱いた。
これが親しい友人であれば、「そういう無神経な距離感だからフラれるんだよ」と、容赦なく暴言を吐いていただろう。
だが、相手は接点の薄い傷心中の女子。喉まで出かかった正論をぐっと飲み込み、旭郎は能面のような笑顔を継続させた。
(授業で使う用のノートではない。だから、ページを破けば問題ない……ここでわざわざ声を上げるのは大人げないってもんだろう)
「さらしな……しっくり来ないな。う〜ん?」
旭郎のノートをまじまじと見つめながら、三上が首を傾げる。
「あさひろ……違うな、『アサロー』! ねぇ、アサロー君って呼んでもいい?」
どうやらあだ名を考えていたらしい。
『旭』を『あさ』、『郎』を『ろう』と読んだのだろう。
よく間違えられる名前の呼び方だ。
「お好きにどうぞ、ミカミさん」
訂正するのも面倒になった旭郎は、あっさりとその奇妙なあだ名を受け入れた。
それから数十分。
ただの教室に、コーヒーメーカーや紅茶のサービスなどあるはずもなく。
旭郎はなんの飲み物もないまま、三上の愚痴とも惚気ともつかない話を延々と聞き続ける羽目になった。
「それでね、中学生の頃からずっと一緒にいるのよ!」
「そうなんですね」
三上は旭郎に自身のスマホを手渡し、写真フォルダを見るように迫っている。
写真に入っている日付は数年前の物。
携帯のカメラで撮ったとは思えないものから、彼女たちの幼いころの写真があることから、わざわざ携帯に写真を取り込んだことがわかる。
「昔からさ~~~、全然私のこと女扱いしてくれなくて~~~!」
今見えている写真は、幼い二人がバケツを持って笑っている写真。
目を凝らせば、バケツの中にエビのようなものが見えるので、エビとりをした後の写真だろう。
……その写真にある三上は、今がゴールデンレトリバーだとすれば、チワワにも見える。
次の写真は回転する遊具の上で高笑いしている三上と、泣きわめきながら必死にしがみついている彼だった。
その次の写真は、何があったのか、全身が絵具まみれになった二人の写真だった。
(……彼、どの写真も泣いてるか被害者のどちらかだな。三上……さんは、やっぱり昔から手がかかる感じだったんだな)
「聞いてる?」
「それは彼に見る目がないですね~」
「でしょ!たしかに昔は私も少し乱暴なところはあったけどね!」
(めちゃめちゃ面白い人ではあるけれど、デリカシー他いろいろなものが足りていない……彼も大変だったんだろうな)
「そうなんですね」「へえ」「なるほどですね」と、もはや感情の籠もっていない三段活用を繰り出しながら、右の耳から入ってきた情報をそのまま左の耳へと流し出す。
旭郎は出そうになる欠伸を必死に噛み殺し、悟られないように完璧な肯定用AIと化して、作り笑いでやり過ごした。
──────
やがて、見回りに来た教師が教室の施錠をしに来たことで、長かった尋問のような時間は強制終了となった。
会話をしながら階段を下りる
室内だが吹き抜けのため、三上の声がよく響く。
「この間の英語の小テスト難しかったよね?アサロー君は、どう思う!」
「単語を覚えるだけですが……なんだかんだ週ごとの積み重ねとなると覚える時間もないですね」
「ほんとそれ!勉強は必要なんだろうけど、無駄に多いよね~」
階段をすべるように降りる三上。
旭郎は先ほどの美術室での重労働のせいで、すでに体がボロボロになっていた。
一歩降りるごとに、太ももや肩にズシンとした鈍い痛みが走る。
「アサロー君って階段降りるの遅いんだね」
「急いでも意味ないですしね。落ちて怪我しても嫌ですし」
「慎重派なんだ~」
なんとか顔に出さないよう、階段を落ち着いて降りている風を装う。
カッコつけたいわけではないが、明日の昼休みの話題になるのは嫌だ。
誰だって嫌だろう……悩みを聞いてくれた人が筋肉痛でゆっくり階段を下りながらカッコつけていたなんて。
(『更科くん、昨日は美術室で無理させられて泣きそうだったんだって……』なんて、話題の一つとして変な同情や噂を広められてはたまらない!)
「ねえ、アサロー君の家、どっち?」
「……俺はあっちですけど。ミカミさんは?」
「私は逆! でも、一人で帰るの寂しいから、アサロー君の家までついていっていい?もしくは、送って!」
三上はまだ話し足りないのか、とんでもないことを言い出した。
フラれて寂しいのは分かるが、捨てられた子犬じゃあるまいし、大して仲も良くない男子にホイホイついていこうとするな。
……確かに、外は暗い。
この辺りは治安は悪くはないが、女子が一人で帰るには考える必要のある時間でもある。
だが、旭郎にとってはそれはそれ。
「お断りします。嫌ではないんですが、門限が近くて」
「……そうなんだ?」
門限というのは勿論、その場の勢いで吐いた嘘だ。
遅くなれば母親から小言を言われるが、特段厳しい門限が決まっているわけではない。
これ以上彼女のハイテンションなペースに付き合っていると、こちらの脳のメモリが焼き切れてしまう。
焼き切れてしまえば、今まで心の中で留めておいた数々のツッコミが飛び出してしまうかもしれない。
「それに……こんな時間に大して仲も良くない俺と一緒に歩いていたら、月曜日、山崎に妙な誤解をされるんじゃないですか?」
「あっ……た、確かに……! それはいけないね!」
旭郎は内心で頭を抱えながらも、持ち前の口八丁をフル稼働させ、相手の急所を突いてなんとか彼女を説得。
その場で解散させることに成功した。
「ならここでお別れだね! 今日はアリガトね、アサロー君!」
「はいはい、気をつけて帰ってください」
こちらへいつまでもパタパタと手を振っている三上を見送り、ようやくその姿が角を曲がって見えなくなった瞬間。
旭郎の肩に、美術室で運んだ粘土の何倍も重い疲労感がドッと押し寄せてきた。
(解放感なんてレベルじゃないな……とても疲れた)
わずかに残った気力を総動員させながら、旭郎は重い足取りで帰路につき、夜風に向けて今日一番の深いため息を吐き出したのだった。




