栗
日が暮れ、肌寒さが増す頃、修行は終わった。
空気が澄んでいて、夜空には星がくっきりと見える。
テントの中では、師匠が岩を机にして日記を書いていた。
隣に置いたランプの明かりが、手帳を照らしている。時々ペンを止め、額を指でトントンと叩く。
悠真が知る限り、師匠がこんなに真面目な顔をするのは、この時間くらいだった。
その横で、悠真は2枚のタオルを広げて寝床を整えた。
敷くものも、身体にかけるものも、旅の途中で師匠が買ってくれたものだ。
準備を終えると、外へ出て星を眺めた。
ホテルから見た湖も、木々の擦れる音に囲まれていると、また違って感じられる。
「おーい悠真、寝るぞ」
師匠がテントから顔を出した。
悠真がタオルにもぐり込むと、ランプの火が消える。
師匠は何も敷かず、地面の綺麗そうなところへ横になった。ゴーグルは外さず、鉄パイプも手にしたままだ。
「おやすみなさい、師匠」
しばらくして、いびきが聞こえ始めた。
ホテルでは気になった音も、いつもの寝床では、むしろ安心できる。
悠真がうとうとし始めた時、外でガサガサと音がした。
身体を起こす。
野生動物だろうか。それとも、師匠を狙う殺し屋か。
そっと入口を開けて覗いたが、何も見えなかった。
こちらの物音に気づいて、逃げたのかもしれない。
それでも、何かがいたことは確かだった。
「師匠! 物音がしました! 殺し屋かもしれないです!」
耳元で声をかけても、いびきは止まらない。
「師匠ってば! 寝てる場合じゃないんです!」
身体を揺すっても、反応はなかった。
しばらく呼び続けた悠真は、とうとう疲れてタオルへ戻った。
「もう、僕知りませんからね」
外の音を気にしながら横になり、いつの間にか眠っていた。
――そして何事もないまま、朝が来た。
頭をコンコンと小突かれた。
「ほら、起きろ悠真。いつまで寝てんだ」
目を開けると、師匠が鉄パイプを手にしゃがんでいた。
悠真はタオルの中でもぞもぞと身体をよじり、這い出す。
「ん、眠い……」
「ったく、お前は寝起きが悪いなぁ」
言い返す元気はなかった。
けれど、頭の中でははっきりと思った。
(あなただけには言われたくない。こっちはあなたのせいで寝不足だっていうのに)
重い瞼を開き、敷いていたタオルを畳む。
地面に触れた面を内側へ折り、もう1枚で包んでから、岩に立てかけた大きなカバンへしまった。
外へ出ると、師匠は焚き火の前に座っていた。
「遅かったな。もう飯できてんぞ」
枝で組んだ支えから、煤で黒ずんだ、へこみだらけの鍋が吊られている。
師匠は中身を金属の皿によそい、箸と一緒に渡してくれた。
魚と山菜のスープだった。
昨夜と同じ魚に、薄茶色のキノコと、ちぎった葉が入っている。塩気だけの素朴な味だ。
悠真は箸で魚を取ろうとして、何度か滑らせた。
村には箸を使う習慣がなく、まだ慣れない。
師匠の故郷でも使わないらしいが、かさばらないから重宝するのだと、以前話していた。
食事を終えると、師匠が葉巻に火をつけた。
1分もしないうちに、名残惜しそうに悠真へ渡す。
修行を始める合図だった。
師匠はすぐに森へ姿を消した。
悠真は煙へ意識を向ける。
昨日より、ずいぶん安定していた。
灰も4センチほど伸びているが、まだ落ちない。
今なら、どれくらい動けるだろう。
その場で足踏みをし、少し歩いてみた。
煙は揺れたが、灰は葉巻についたままだ。
(灰を落とさないことだけに集中すれば、ここまで動けるんだ)
そう思ったところで、火が消えた。
ほどなく、師匠が森の奥から戻ってくる。
どこへ出かけていても、火を消すたびに必ず戻ってきた。
「なんだ、また消したのか」
師匠が葉巻を受け取り、火をつけ直している間だった。
頭上に、何かが近づいてくるのを感じる。
今は葉巻を持っていない。これなら。
悠真は手を上げ、落ちてきたものを掴んだ。
やってやった、と師匠へ顔を向けた途端、手のひらに痛みが走る。
「いっ! ……栗?」
石ではなかった。
棘だらけのイガグリが、手の中に収まっていた。
「誰が掴めつった。よけろよけろ」
師匠は葉巻を返すと、焚き火のそばで胡坐をかいた。
すぐ隣には、大量のイガグリが積まれている。
「ほら、いくぞー!」
鉄パイプで地面を軽く叩くと、積まれたイガグリの山から1つが跳ねた。
師匠はそれを鉄パイプの上に受け、座ったまま一振りで高く打ち上げた。
(投げるのが分かってるなら、感知なんかしなくても、先にここを離れれば……)
悠真は葉巻を構えたまま、大きく右へ1歩動いた。
煙も灰も崩れていない。
だが、頭にイガグリが落ちてきた。
右へ移ることまで見越したように、最初からこちらへ向かっていたのだ。
棘の潰れていないイガグリが、足元へ転がる。
(……。わかってますよ。ズルはダメですよね)
師匠を見ると、不敵な笑みを浮かべていた。
鉄パイプが地面を叩き、次のイガグリがその上へ跳ね乗る。一振りで、再び空へ打ち上がった。
悠真は目を閉じた。
葉巻、煙、空気、灰。そして、自分の周り。
オーラを少しずつ広げていく。
今の範囲では、気づいてから動いても遅い。
ならば、間に合うところまで広げればいい。
イガグリが入ってきた。
とっさに頭をそらしたが、間に合わず、こつんと当たる。
(これじゃあだめだ。もっと高く、遠く……)
考えている間に、また当たった。
「いまのは卑怯です! 師匠ー!」
「ボケっとすんなー! 次行くぞー!」
今度は地面を叩くと、2つが跳ねた。
鉄パイプに乗った2つを、師匠は一振りでまとめて打ち上げた。
(空気の壁とはまるで逆……! オーラを固めるんじゃなくて、薄めて、より遠くに……!)
悠真は息を整え、頭上へ意識を広げた。
さっきより高いところで、イガグリを感じる。
これなら間に合う。
身体をそらし、3歩ほど動いた。
イガグリは避けられた。だが、煙が大きく揺れ、灰が崩れた。
(これじゃあだめだ。全部、全部同時にしなくちゃ……)
ぽすっ。
もう1つが、頭に落ちてきた。
「2個打ち上げたろー! 1個で満足すんなー!」
師匠は口元へ手を添え、気の抜けた声で言った。
次は、4つが鉄パイプの上へ跳ね乗った。
それも一振りで、まとめて空へ打ち上がる。
――空が赤く染まる頃には、足元にいくつものイガグリが転がっていた。
悠真の息は上がり、汗で白いシャツが身体に張りついている。
それでも、葉巻を構える手は下がらなかった。
胡坐をかいたまま、師匠が鉄パイプで地面を叩いた。
5つのイガグリが跳ね上がり、鉄パイプの上に並んで乗る。
一振りで、5つとも空へ打ち上げられた。
同じ振りから放たれたのに、軌道はそれぞれ違う。
高さも落ちる場所も揃っていなかった。
悠真は最初の1つを感じ、右へ動いた。
次は前へ、その次は後ろへ。
煙はわずかに揺れたが、まっすぐ伸びる形を保っていた。
灰も落ちない。空気を送り続け、火も消していない。
残る2つは、わずかな時間差で左右の肩へ向かってきた。
悠真はその場で身体を横向きにし、両方をやり過ごす。
(5つとも避けた……! 煙も、灰も、火も大丈夫!)
すぐ後ろへ跳んだところで、地面に落ちた1つが目に入った。
最後に落ちた1つだった。
ほかの栗と違い、地面に触れてなお、激しく回っている。
そう認識した瞬間、地面を蹴るように跳ね上がった。
額に直撃する。
「っつー……。師匠、それはズルくないですか……?」
「最後まで気ぃ抜くなってこった」
その日の晩御飯は、当然ながら栗だった。
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