ホテルの1日
――一方その頃、師匠はホテルの隅々まで探し回っていた。
ほかの客がくつろぐ部屋にも足を踏み入れ、家具と壁の隙間を覗き、カーペットの裏まで確かめる。
だが、誰も目を向けない。すぐそばにいる師匠の存在にさえ、気づいていないようだった。
やがて広いテラスに出ると、師匠は煙草に火をつけた。
先ほどまでのふざけた笑みは消えている。
(まぁ、ねぇよな。さて、次はどこへ探しに行くとするかね)
紫煙をくゆらせながら、眼下のテーマパークへ目を向けた。
広い敷地に見えるのは、乗り物のそばで待つスタッフの姿ばかりだ。
「ふっ……」
しばらくすると、口元にいつもの笑みが戻った。
(まぁいいオモチャが見つかったんだ。六日、いやあの感じは七日だな。せっかくだ、せいぜい遊ばせてもらうぜ)
――図書室では、悠真が先ほど部屋へ案内してくれた老紳士に、本を読んでもらっていた。
簡単な読み書きはできる。けれど、この本には知らない言葉が多く、細かな文字がびっしり並んでいて、自分だけでは読み進められなかった。
老紳士は難しい言葉を説明しながら、悠真にも分かる言い方で話してくれる。
その穏やかな声にかかれば、文字ばかりのページも、まだ見ぬ景色へ変わっていく。
「では、次のページをめくらせていただきますね。お次は、宗教国家『ユーフォビア』でございます」
「ユーフォビア?」
悠真は聞き慣れない響きに、小首をかしげた。
「さようでございます。国旗には、国名の由来と思われる白いユーフォルビアの文様が添えられております。神リエラを唯一絶対の神として崇める、歴史上最も巨大な宗教国家と記されておりますね」
「ねぇ、おじいさん。どうしてこの国だけ、写真がないんですか?」
ページには細かな文字ばかりで、ほかの国のような景色の写真が見当たらなかった。
「何分、戒律の厳しい国でございますから。一般の者が写真を撮ることも許されないのでしょう」
「どんな国なんだろう……」
「独自の技術体系を築いており、街並みもほかの国とは大きく異なるそうでございます」
写真がないと、かえって想像が膨らんだ。
どんな建物が並び、どんな人たちが暮らしているのだろう。
悠真は老紳士の声に耳を傾け、次のページへと目を移した。
いくつもの国について聞いているうちに、カチャリ、とドアが開いた。
「おい悠真、満足いくまで読めたか?」
師匠がひょっこり顔を出すと、悠真はぱっと顔を上げた。
「はい! それはもう、大満足ですよ! おじいさんも、優しく読んでくれてありがとうございました!」
「いえいえ。楽しい旅をお続けください、悠真様」
老紳士が恭しく一礼した。
師匠は窓の向こうを顎で示す。
「せっかく来たんだ、行くだろ? 遊びに。とっととしないと日が暮れちまうぞ」
丘の斜面へ伸びるジェットコースターのレールが、傾き始めた日差しに輝いていた。
「……! 師匠、もちろんです!」
悠真は本を大事そうに棚へ戻すと、師匠の袖をぐいぐいと引っ張って歩き出した。
――しばらくして、二人はテーマパークに到着した。
先ほどまで窓越しに眺めていたジェットコースターが、今は目の前にそびえている。
「ここも貸し切りにしてあるからな。好きなもんから乗れよ」
その言葉に甘え、悠真は真っ先にジェットコースターへ駆けていった。
乗り込んだ車体が坂を上り、頂上を越える。
「うわああああああああああああっ!」
空も、眼下に広がる湖も、眺める余裕はなかった。
車体が猛スピードで斜面を滑り降りる。風に声をさらわれる悠真の隣で、師匠は大口を開けて笑っていた。
その後も、絶叫マシンを片っ端から制覇し、観覧車から湖畔の町を見下ろした。
射的では、慣れないコルク銃に悪戦苦闘する。外した悠真の背中を、師匠が笑いながら叩いた。
これまでの旅では、ご飯すらケチられて、野宿ばかりだった。
今は食べたいものを買い、気になる乗り物へ駆けていける。
闘技場の戦いも、師匠にかかった500億の賞金も、この時ばかりは頭から消えていた。
悠真は、ただの一人の少年として遊び回った。
並ぶ必要も、順番を待つ必要もない。
2時間ほどですべてのエリアを回り終える頃には、空が夕焼けに染まっていた。
――次に向かったのは、ホテルの最上階から山側へ続く通路の先にある露天風呂だった。
「俺はちょっと便所行ってくるから、先に入ってろ」
「はーい」
脱衣所を抜けた悠真は、思わず息をのんだ。
背後には木々が茂り、目の前には夕日に染まる大湖が広がっている。
ホテルの窓から見た景色が、今は遮るものもなく目の前にあった。
山から引いているという湯に、そっと足を入れる。
「ふあぁぁ……生き返るぅ……」
首までつかると、遊び回った身体から力が抜けた。
今日だけでなく、これまでの旅の疲れまで溶けていくようだった。
「よ、お待たせ。どうだ、露天風呂の具合は」
振り返った悠真は、言葉を失った。
師匠は腰にタオルを巻いている。そこまではいい。
だが、顔にはいつものゴーグル、手には黒いグローブ。そして左手には、愛用の鉄パイプまで握られていた。
(マジか、この人……!)
「し、師匠! そ、それはさすがに色々とまずいんじゃ……!」
「何がだよ。貸し切りなんだからいいだろ。それより見ろよ、夕焼けだ。いい時間に来たな」
そういう問題じゃない。
しかも、すぐに話を逸らす。
言い返しかけた悠真は、ため息をついて湯に肩を沈めた。今日くらいは、もういい。
「ねぇ、師匠」
「ん、なんだよ」
「僕たち、いまとーってもリラックスしてますけど……本当に、殺し屋たちに狙われたりしないんでしょうか」
師匠は風呂の縁に腰掛け、鉄パイプを脇へ置いた。
「こんな時くらい、殺し屋だって空気読んでくれるさ。安心しな」
相変わらず、まともな答えになっていない。
それでも、師匠があまりにのんびりしているので、悠真もそれ以上は聞かず、湖へ目を戻した。
――温泉から上がると、夕食の時間だった。
部屋のテーブルに、銀色の蓋をかぶせた皿が運ばれてくる。
給仕が蓋を持ち上げると、香ばしい匂いがふわりと広がった。
肉厚のステーキに、綺麗に盛り付けられた海の幸。デザートの皿には、色鮮やかな果物が並んでいる。
「うわぁ……! これ、本当に全部食べていいんですか!?」
「おう、好きなだけ食え。残したら承知しねぇぞ」
師匠はナイフも使わず、ステーキをフォークで突き刺して丸かじりにした。
「うんめぇ!」
相変わらずの食べ方だったが、今の悠真は冷たい視線を送らなかった。
自分もフォークを取り、温かい料理を口へ運ぶ。
「……おいしいっ!」
噛むたびに肉汁が広がった。
次はどれを食べようかと皿を見渡していると、師匠が別の料理を指した。
「そっちも食ってみろよ」
「師匠こそ、こっちもおいしいですよ!」
二人で勧め合ううちに、皿は次々と空になった。
最後のデザートまで平らげると、悠真は膨れたお腹をさすりながら笑った。
窓の外は、すっかり夜になっていた。
湖畔の町の明かりが、水際に小さく並んでいる。
ホテルの用意した柔らかなパジャマに着替え、悠真はバルコニーへ出た。
見上げれば満天の星。風のない湖面にも星が映り、空と水の境目が分からなくなる。
「おい、何黄昏れてんだ」
師匠がいつもの格好のままやってきた。
茶色の革ジャケットを羽織り、顔にはゴーグル、手には黒いグローブ。もちろん鉄パイプも握っている。
「師匠は、まだ着替えないんですか?」
「なんでぃ。この格好が一番かっくいいだろ」
だから、そういうことじゃない。
悠真は小さくため息をつき、再び星空を見上げた。
村の星も綺麗だったけれど、湖に映る星を見るのは初めてだった。
お母さんも、今こうして同じ空を見ているのだろうか。
「師匠。師匠が言ってくれたように、お母さんに僕が今どんなものを見て、どんな体験をしてるのか、たくさん伝えたいんですけど……。でも、僕の村って、手紙も何も届かないじゃないですか。だから、どうしよっかなって」
師匠は煙草を咥え直した。
「よし。じゃあ今度、村に寄るか」
悠真はキョトンとした。
「師匠、いいんですか……?」
「ああ。いいも何も、別に目的地なんて無いんだ」
そんなにあっさり決まるとは思わなかった。
でも、帰ったら何から話そう。
湖のことか、遊園地のことか。それとも、団子を喉に詰まらせた師匠のことか。
考えると、自然に笑みがこぼれた。
ふと、星の間を動く小さな光が目に留まった。
赤と白の光が点滅しながら、夜空をゆっくり横切っていく。
「あ、飛行機だ!」
悠真は身を乗り出した。
目で追っても、機体の形までは見えない。
あの光のところには、席に座って旅をしている人たちがいる。
窓の外には、雲が広がっているのだろうか。
昼間なら、その向こうにどんな景色が見えるのだろう。
村で暮らしていた頃、飛行機は、自分には縁のない乗り物だった。
遠くの空を見上げることはあっても、自分が乗るところまでは想像したことがない。
けれど、今日はこんなホテルに泊まり、遊園地を貸し切りにして、お腹いっぱいになるまでご馳走を食べた。
(今なら、飛行機に乗るお金だって、あるのかもしれない……)
悠真は、そっと隣を見た。
革ジャケットにゴーグル、手には鉄パイプ。
飛行機の座席に大人しく座っている師匠を思い浮かべようとして、うまくいかなかった。
乗ってみたいと頼んだら、どんな顔をするだろう。
笑われるだろうか。それとも、いつものようにはぐらかされるだろうか。
悠真は再び、小さな光を目で追った。
乗れなくてもいい。せめて、本で見たあの大きな翼を、自分の目で見てみたかった。
「いつか、近くで見てみたいな……」
師匠は悠真の視線の先をちらりと見たが、何も答えなかった。
煙を吐き、部屋へ引き返す。
「じゃ、俺はあっちの部屋に行くわ」
せっかく寝室がいくつもあるのだから、別々に使わないともったいない、ということらしい。
悠真も部屋へ戻り、大きなベッドにもぐり込んだ。
滑らかな寝具に包まれ、枕へ頭を沈める。
目を閉じると、コースターで浴びた風や、温泉から見た夕焼けが浮かんだ。
その続きを思い出す前に、眠りに落ちた。
――どれほど時間が経っただろうか。
「う……ん……」
悠真は目を覚ました。
隣の寝室から、地響きのようないびきが聞こえる。
野宿や安宿では気にならなかった音が、ほかに物音のないここでは、やけに大きく響いていた。
せめて今日くらい、このベッドで静かに眠りたい。
悠真は起き上がり、隣の寝室へ向かった。
師匠はジャケットのまま、ゴーグルもグローブも外さず、鉄パイプを胸元に抱いて仰向けに寝ている。掛け布団さえ使っていない。
(自分のいびきで起きないのかな、この人は……)
シーツにはほとんどしわがないのに、音だけはとんでもない。
しかも師匠は、少し揺すったくらいでは起きない。旅の間に、何度も確かめたことだった。
悠真から見れば、今の師匠は、何をされても気づきそうになかった。
悠真は洗面台の隅から、乾いた厚手のタオルを取ってきた。
さすがに、少しやりすぎかもしれない。
けれど、あの師匠がタオル1枚でどうにかなるとも思えなかった。日頃から散々からかわれているのだ。今日くらいは、お返しをしてもいいだろう。
そう言い聞かせてベッドへ近づき、開いた口へ、恐る恐るタオルを詰め込んだ。
「ん……ぐぅ……ふー……ふー……」
あれほどのいびきが、静かな寝息に変わった。
師匠は目を覚ます様子もなく、そのまま寝続けている。
悠真はしばらく様子を見てから、満足げに小さく頷いた。
足音を忍ばせて部屋を出る。
今度こそ、ゆっくり眠れそうだった。




