ホテルへ
師匠に連れられて悠真がたどり着いたのは、海と見紛うほどに広大な湖のほとりにある町だった。
木目調の街灯が等間隔に並ぶ通りには、ゴミ一つ落ちていない。お洒落な衣服をまとった人々が、穏やかに談笑しながら行き交っている。
ただ、町の奥だけは少し毛色が違っていた。
大きなタコの看板の下に色鮮やかな提灯が灯り、威勢のいい物売りの声が微かに聞こえる。風に乗って、香ばしい匂いも漂ってきた。
けれど、悠真が足を止めたのは、そちらに気を取られたからではなかった。
湖畔からなだらかに続く緑の丘。その斜面に、白亜のホテルを中心とした広大なリゾートが広がっていた。
背後には険しい山々がそびえ、ヨーロッパの城を思わせる建物のそばでは、コースターが丘を滑り降りていく。
悠真はぽかんと見上げた。
街灯も、手入れの行き届いた通りも、あのホテルへ続く道の一部のように思えた。
「うわぁ……すごいなぁ。僕とはまるで違う世界みたいだ」
憧れが、思わず声になった。
「僕もいつか、一度でいいからああいうところに行ってみたいな……」
「おい、立ち止まってどうした。さっさと行くぞ」
見とれていたところを邪魔され、悠真は不服そうに師匠を見上げた。
「なんですか。別にいいじゃないですか、見るくらい。いつも目的地なんてないのに」
「あるんだよ、今日はその目的地が」
師匠は不敵に笑うと、リゾートのある丘へ向かって歩き出した。
丘を登り、湖畔の町が小さく見下ろせるようになる頃、ホテルがその全貌を現した。
年季の入った建物なのに、白い壁も窓も隅々まで手入れが行き届いている。入口へ続く道には大きな噴水があり、水音が静かに響いていた。
建物の影を回り込むと、遠くにジェットコースターや観覧車も見える。
こんなところで過ごすのは、どこか遠い国の王様なのだろうか。
悠真が本気でそんなことを考えていると、師匠から1本の煙草が投げ渡された。
「待ってる間、修行やっとけよ」
煙草の煙に自身のオーラをまとわせ、まっすぐ伸ばす。それがいつもの修行だった。
そういえばこの前、「次は葉巻に変える」と言っていた気がするが、渡されたのはいつも通りの煙草だ。
「え、ここで……?」
入口に立っているだけで、自分が場違いな存在に思えて身体が強張る。
そんな悠真を外に待たせ、師匠は平然とドアの向こうへ消えていった。
ここに泊まっている知り合いにでも会いに行ったのだろうか。
もしそうなら、10分でいいから自分も中に入ってみたかった。
(そういえば……師匠の知り合いなんて、一人も知らないや)
煙草を手に、形だけは修行の構えをとってみる。
けれど、心はそれどころではなかった。背後の湖を振り返ることもせず、悠真は目の前の大きなドアを見つめていた。
やがてドアが開き、師匠が出てきた。
もう行くのか、と名残惜しく思っていると、手から煙草を取り上げられる。
「悠真、入るぞ」
思いもよらぬ言葉に、理解が追いつかなかった。
「入るって……ここにですか……!?」
「ここじゃなきゃどこに入るんだよ。今日はここに泊まる」
「え、で、でも、ここ! お、お金! お金すごいかかりますよね!?」
うろたえる悠真を見て、師匠は呆れたように肩をすくめた。
「おいおい、金ならたんまりあんだろ。闘技場のこと忘れたのか? オッズ100倍だぞ、100倍。金ならもうちゃんと払ってきたんだ、安心しろ」
今度こそ、この中に入れるのだという実感が湧いてきた。
顔には出さないつもりだったのに、悠真の踵は、ぴょこぴょこと上がったり下がったりしていた。
「少し修行は休憩だ。今日は楽しむぞ」
ドアの向こうには、高い天井からシャンデリアが下がっていた。
その光に目を奪われていると、ロビーの奥からスタッフたちが次々と現れ、二人の進む道の両脇に整列していく。
執事のような老紳士を筆頭に、真っ白なエプロンをつけたメイドたちが、一斉に頭を下げた。
「ようこそおいでくださいました、悠真様」
「ひゃ、はいっ!?」
悠真は飛び上がらんばかりに驚き、師匠の服の裾をぎゅっと引っ張った。
「し、師匠! なんですかこれ……!」
「いいだろ、まるでどっかの館の主人みたいで。さっき頼んどいたんだ、衣装もイベント用のに着替えてもらった」
師匠はニヤリと笑い、動けずにいる悠真の背中をぽんと押した。
「まずは荷物を預けに部屋へ行くぞ。それまでにこれ見て、行きたいところを考えとけ」
手渡されたのは、ホテルのパンフレットだった。
悠真はそれを胸に抱え、整列するスタッフたちの間を恐る恐る歩き出す。
絨毯が靴の下で柔らかく沈み、足音はほとんど響かなかった。
「悠真様、こちらへどうぞ。お部屋までご案内いたします」
老紳士に先導され、ロビーの奥へ進む。
廊下に出ると、壁には金色の額縁に収まった絵画が並び、磨かれた床にはランプの光が映っていた。
ただ、これほど大きなホテルなのに、ほかの宿泊客とは一人もすれ違わない。
耳に届くのは、遠くから流れてくるクラシック音楽だけだった。
「……ねぇ師匠、このホテル、これだけ大きいのになんで僕たちしかいないんですかね」
「あー、俺たちで貸し切ってるからな」
「貸し切りっ!?」
「全部じゃねぇよ。一部だけな。泊まる階は丸ごと押さえてあるが、ほかの区画には客もいるぜ。まあ、二人なら十分だろ」
やがて、外の景色が見渡せるガラス張りのエレベーターに案内された。
ドアが静かに閉まり、滑るように上昇を始める。
「うわぁ……!」
悠真はガラスにぴったりと張り付いた。
建物に隠れていた湖が、目の前に広がっていく。
日の光を浴びた水面が、どこまでも青くきらめいていた。さっき歩いていた町も、今は小さく見下ろせる。
(お母さん……外の世界は、こんなにも綺麗だよ……)
最上階でエレベーターが止まると、真紅の絨毯が敷かれた回廊に出た。
ほかの部屋のドアは見当たらない。
「悠真様、こちらが本日のお部屋でございます」
老紳士は重厚な木製のドアを開けると、中には立ち入らず、一礼してその場を後にした。
悠真は部屋へ一歩入り、言葉を失った。
故郷の小さな家が、いくつも入りそうな広さだった。
大きなソファに、柔らかな絨毯。落ち着いた色の家具が並び、奥の窓いっぱいに、さっき見た湖が広がっている。
今日は、ここで過ごせるのだ。
そう思うと嬉しくてたまらなかった。
けれど、故郷の小さな家で暮らす母親を思い浮かべた途端、胸が苦しくなった。
母親は故郷の家にいるままで、自分ばかりが、こんなに贅沢を楽しんでいる。
ぽろぽろと涙がこぼれた。
「師匠……。本当に、僕が、僕ばっかりがこんなにいい思いしてもいいんですかね。村にいるお母さんにも少しくらい、少しくらい……」
師匠はからかうような笑みを引っ込め、優しく答えた。
「いいんだよ。親ってのはな、自分より子供が幸せなほうが嬉しいもんなんだ。お前がここでどんな体験をしてきたか、今度お母さんにたくさん聞かせてやりな。そのほうが、よっぽど喜んでくれるぜ。――そのためにも、今何をするべきか、分かるよな?」
悠真はシャツの袖で涙をごしごしと拭い、顔を上げた。
「はい!」
――荷物を置いて部屋を出ると、今度は悠真が先に立った。
パンフレットを手に小走りで廊下を進み、師匠を振り返る。
「で、一番最初に行きたいところがここかよ」
師匠が呆れたように言ったのは、重厚な二枚扉の向こうに広がる、ホテルの図書室だった。
「さっき部屋に来るときにチラって見えたんです! だってこんなに本があるんですよ!」
悠真は目を輝かせ、両手を広げてみせた。
師匠は「別に俺はいいけどよ」と肩をすくめる。
「悠真、お前、文字読めたっけ?」
「馬鹿にしないでください! 少しくらいなら僕だって読めますよ。お母さんにちゃんと教わったんですから!」
頬を膨らませて言い返すと、悠真はさっそく書架へ目を向けた。
「そういや、何読みたいんだ?」
「世界についての本です! どんな国や街、素敵な場所があるのかって、考えるだけでわくわくするじゃないですか!」
「おいおい。俺たちは今まさに旅してんだろ。本なんか読まなくてもいいじゃねぇか」
「違いますよ! 先に読んでおくから、これからどんなところに行くんだろうって、もっと楽しみになるんじゃないですか!」
「はいはい。じゃあ俺は外で煙草吸ってくるぜ」
師匠は黒い革グローブの手をひらひらと振り、図書室を出ていった。
残された悠真は、目当ての棚へ小走りで向かう。
天井近くまで伸びる木製の本棚に、年季の入った革表紙の書籍がずらりと並んでいた。
午後の日差しが差し込む中、悠真は背伸びをし、背表紙の文字を指先で一つずつなぞった。
母親に教わった通り、声に出して確かめる。
「ええっと……せ、か、い……『世界の歩き方』……あ、あった!」
ずっしりと重い本を両手で抱え、近くの一人掛けのソファに腰を下ろした。
そっとページを開くと、故郷の村や、これまで歩いてきた薄暗い裏路地からは想像もつかない景色が広がっていた。
白い砂浜と、澄んだエメラルドグリーンの海。
賑やかな市場に並ぶ、見たこともない色の果物。
宝石箱をひっくり返したように輝く、大都市の夜景。
(本当に……本当にこんな場所が、この世界のどこかに実在するんだ。いつか、師匠と……)
ページをめくる手が止まらない。
これまでは、師匠の気まぐれな行き先についていくだけだった。
けれど、この本に載っている街にも、これから行くのかもしれない。
そう思うと、次のページにも、その次にも、確かめたい景色が待っていた。




