ウーリ
――幾度も曲がる車体に揺られ、どれほどの時間が経ったころか。
車が止まり、ドアのロックが外れる。
「お待たせしました。到着です」
悠真が車から足を踏み出すと、耳鳴りがするほどの静寂が広がっていた。
街の喧騒は遠く、車の振動ももう伝わってこない。
辺りに人影はなく、足元には、かつて何かが建っていたことを示すコンクリートの基礎の跡が、風化しかけてうっすらと残っている。
建物と呼べるものは、1棟の廃ビルだけだった。
風景から取り残されたようにぽつんとそびえ、その外壁も緑の波に飲まれ始めている。
あと数年もすれば、この場所は完全に自然の奥底へと飲み込まれ、地図の空白の中に消えてしまう。
そんな、世界の端っこに放り出されたような錯覚に、悠真はとらわれた。
「この中の一室で、ウーリ様がお待ちになっています。そこへは、あなた様お一人でお願いいたします」
師匠は悠真を残し、一人で廃ビルの中へ入っていった。
――師匠は階段を上り、扉を失った部屋が並ぶ廊下を進んだ。
ビルの入口側にある一室だけには、扉が残っていた。
師匠が中へ入ると、一人の女性が、分厚いコンクリートの窓台に座って待っている。
淡い水色の長い髪。片脚を伸ばし、もう片方の膝を立てた姿勢で、水たばこを吸っていた。
膝の横に置かれたガラス瓶から、ゴボゴボと低く密やかな水音が響く。
吸い口から唇を離すと、濃密な白い煙が髪に混ざり合うように、ゆったりと溢れ出した。
「久しぶりだね。いつぶりかな。名前変わったんだってね。たしか今は……」
師匠のげんこつが、彼女を襲った。
「いきなり殴ることないだろ!」
「弟子巻き込むこたねぇだろ!! つーか、いつの話だよ。何回も会ってんだろ」
彼女は静かに師匠から目を逸らし、窓の外へ視線を向けた。
「あー、あの子、本当に弟子なんだ。それについては謝るよ。子供を連れてるとは聞いていたけど、弟子がいるなんて思わなかったからね」
彼女は再び吸い口をくわえた。
「それにしてもウーリか。お前らのうちの誰かってのは薄々《うすうす》わかってたが、てっきりファカあたりが遊び相手欲しさに呼んだんかと思ったぜ」
今度はウーリが、師匠の芝居につき合わなかった。
「なんだ、今さら。私だってことくらい、ここに来る前からわかっていただろ」
「冷てぇな。せっかく今知ったフリして話してやってんのに」
「私じゃ不服か?」
ウーリは軽い笑みで師匠を見上げた。
「そんなことはねぇよ。ただ、お前はそんなことで俺を呼ぶタイプじゃないだろ。何の用だ?」
「別に、呼んだ理由は大体そんな感じだよ。ただ……」
「ただ?」
「ただ、会いたがってるのは私じゃない。リエラが会いたがってる」
その名前を聞くと、師匠はバツが悪そうに顔を逸らした。
「ずっとお前が会いにこないって毎回うるさいんだ。うっとおしいから、いい加減そろそろ会ってやってくれ」
「あ、ああ……。たまには、顔くらい出してやるか」
「そうしてくれると助かるよ」
ウーリは煙を吐き出し、窓の外へ流れるのを見送った。
「それにしても、よかったのか? さすがに500億はちょっと高かったろ」
「あー、それなら問題ないよ。依頼は取り消したからね。じきに全額返金されるよ。私が負担したのは、わずかな登録手数料だけ」
師匠が呆れたように口を曲げる。
ウーリは涼しい顔で続けた。
「直接情報屋に探させると高くつくし、裏社会でコソコソ生きてるやつにお金を払うのは癪に障るからね。お前を狙う殺し屋のために、情報屋も随分働いてくれたよ。あとは情報を聞いた殺し屋たちを見ていれば、場所がわかる。あいつらをタダ同然でコマにするのは、気分がいいね」
「そりゃいいが、500億だぜ。俺が誰かに殺されてたらどうするよ」
「ないな。有象無象に殺せるようなら、とっくの昔に私が殺しているよ。それに、私はお前が死んでくれたほうが嬉しい。お前が生まれてこなければ……お前が死んでさえくれれば、私は今すぐにでも……」
「ハッ、そりゃ悪いが諦めてくれ」
――一方、廃ビルの入口に残された悠真は、両側に立つヒューリとテンパに挟まれるように座っていた。
和解したとはいえ、数時間前まで命がけで戦っていた相手だ。
二人は背筋を伸ばして立ち、ひたすら正面を見ている。
その律儀さも、今は居心地の悪さを増した。
師匠がいつ戻るかもわからない。
悠真は何か話して、この空気を変えたくなった。
「あの……」
ヒューリは動かない。
代わりに、テンパが振り向いた。
「ん? どうかした?」
「その、いま師匠が会ってるウーリさんって人、どんな人なんですか?」
「あー、ウーリ様――」
ヒューリが横から遮った。
「貴様、ウーリ様のことを軽々《かるがる》しく話すな!」
「おい、待ってくれよ、ヒューリ。ウーリ様から、この子も客人として失礼のないようにって、さっきお達しがあっただろ。これくらいいいじゃないか」
ヒューリは不服そうに口を結び、正面へ向き直った。
「そうだな、ウーリ様か。説明難しいな。ウーリ様は――」
「神のようなお方だ」
またしてもヒューリが割り込んだ。
「美しく、聡明で、そして強い。この世を統べるべきお方は、ウーリ様以外にはいない。いまだに人類が天下を取っているのは、ウーリ様のお心ゆえだ」
「俺に言っておいて、お前が全部言うんだな」
話の大きさに戸惑いながら、悠真はもう一度尋ねた。
「あの、そんなにすごい人なんですか?」
「ウーリ様が世界で、世界がウーリ様だと考えていい」
「あ、こいつが過激なだけだから、無視していいからね?」
悠真には、少し大げさに聞こえた。
それでも、あれほど堅苦しい顔をしたヒューリが誰かを強く慕っていることに、どこか温かいものを感じた。
「……そんなに尊敬しているんですね」
「俺たち、ウーリ様に命を拾ってもらってるしな。小さいころ親に売られて、臓器売買に出されてたんだ。次に俺たちの番ってところで助けてくれたのが、そのウーリ様ってわけ」
悠真は二人を交互に見た。
テンパは、淡々と話を続ける。
「ウーリ様に仕えてたら、別にあのとき正義感で助けたわけじゃなくて、気まぐれか、自分の縄張りを荒らされたのが気に食わなかっただけなんだろうって、わかってきたんだけどさ。それでも、あのときの俺たちからしたら、まさしく神様にしか見えなかったよ」
ヒューリが、当然のことのように付け加えた。
「あのときから、姿かたち何一つ変わることのない美しさで、今なおこの世に君臨しておられる」
悠真が言葉を失っていると、テンパが笑いながら顔を寄せた。
「あ、そうそう、こいつヤバいんだぜ。ウーリ様に合わせて名前変えてんだよ」
「えっ?!」
ヒューリは鼻を鳴らした。
「ゴミからもらった名など捨てて、ウーリ様に少しでも近づきたかっただけだ」
ヒューリにとっては、生まれたときにもらった名前さえ、捨てたい過去なのだ。
悠真はようやく、それを理解した。
「テンパさんは、名前は変えなかったんですか?」
「え、俺? 俺は変えないかなぁ。感じ方って人それぞれだけどさ、俺はこの名前を大事にしたいんだ」
テンパは照れ隠しに、こめかみを指でかいた。
「あんな親でも、やっぱり親だからさ。親がくれたもんなんて、この体と名前くらいだから。せめてものって感じだよ」
悠真はテンパを見上げ、にっこりと笑った。
「僕はそれ、すっごく素敵だと思います」
――部屋では、ウーリが水たばこの煙をゆっくり吐き出した。
「それにしても、また随分物好きだね。あの子供、才能ないだろ。よくあそこまで育てられたもんだよ」
「まあ、そのほうが育てがいがあるしな。あいつは素直だからな。その点は育てやすくていいさ」
師匠は少し嬉しそうに話し始めた。
「あいつ反応が可愛いんだぜ。ついからかってやりたくなる感じだよ」
「ふーん、あっそ。確かに前の弟子は、才能あっても可愛げのないやつだったな」
「その話はよしてくんねぇかな。それより、ウーリが弟子を持つとはな」
「部下だよ。多少手ほどきしたけどね。人間にしてはできるほうだよ」
ウーリは吸い口を離し、口元を緩めた。
「それに、一人はすごいもんだよ。私に憧れて髪を同じ色に染めるし、しゃべり方も少しずつ真似してくるし。名前まで私に寄せて変えたときは、少し驚いたよ。あそこまで崇拝されるのは久しぶりだからね。さすがに気分がいい」
「なんでぃ、そっちも楽しんでるじゃねぇか。あ、でも冗談くらいはわかるように教育しとけよ。ありゃ全部ガチで受け取ってるぜ」
「あー、私がそういうふうに教育したからね。そのほうが面白いだろ。ただ、戦闘じゃなくて育成でも負けるのは悔しいな。あとで、いつもより厳しく稽古をつけるとするよ」
「おっかねぇな。ちゃんと加減してやれよ」
「余計なお世話だよ。もう用は済んだんだ。とっとと帰ってくれないかな」
ウーリが窓台を人差し指でトンと叩いた。
その合図に、ビルの入口付近にいたヒューリとテンパが動く。
悠真の両側から離れた二人は、瞬く間に部屋の入口へ姿を現した。
「はっ!」
二人の話が終わったと察し、ヒューリが口を開く。
「では、帰りも元の場所まで車で――」
ウーリは、その申し出を遮った。
「あぁ、帰りは大丈夫。用事も終わったから、そろそろ行くよ。準備しておいてね」
ヒューリとテンパへ準備を命じるウーリに、師匠が口を尖らせる。
「寂しいじゃねぇか。久しぶりだってのに、もう帰らせんのかよ」
「お前はリエラのとこに行くんだろ。早く行ってあげなよ」
「俺、行かなきゃダメかなぁ」
「行きなよ。いつも泣き言を聞かされる私の立場にもなってくれ」
「はいはい、しゃーねぇなぁ」
「……そういえば、頼まれていた件。調べてみたけど、手がかり一つなかったよ」
「……そうか。あんがとよ」
師匠は部屋を出た。
ウーリが窓から見下ろすと、外で待っていた悠真と連れ立って、廃ビルを離れていく。
窓台から身を乗り出し、ウーリは大声を張り上げた。
「二度と私のとこには来なくていいからなーー!」
窓台から降り、部屋の出口へ歩く。
「と、言っても、どうせまたすぐに会うんだろうね」
扉を開けると、帰ったはずの師匠が満面の笑みで立っていた。
鉄パイプを脇に挟み、ねだるように両手を差し出している。
ウーリはとっさに扉を閉めた。
頭を抱えてため息をつき、観念して、再び扉を開ける。
「何の用だ」
「お金♡」
彼女の冷たい視線にも動じず、師匠は手を差し出したまま続けた。
「お金ちょーだい♡」
「失せろ」
「ねぇ、1億でいいからさぁ。たった1億だけでいいから、ちょーだいさぁ♡」
「『たった』の後に続けて要求する額じゃないな。図々《ずうずう》しい。お金なら、リエラが文字通りいくらでも貢いでくれるだろ」
師匠は、すんと表情を消した。
「ケチ」
それだけ言い残して、部屋を出る。
「ケチ!!!」
大きな声が、もうビルの下から聞こえてきた。
「あの男には、小銭ひとつ恵むなよ。顔を覚えられて、一生たかられる」
ウーリは窓台へ戻り、吹き込む風を全身で受けた。
(お前は終わることのない旅に、本当にその子をいつまでも連れていくつもりか……)
風がやむと、片づけをしていた二人に声をかける。
「どうだった? 世界の天井に触れてみた感想は」
ヒューリは手を止め、振り返った。
「ウーリ様がおっしゃったとおり、尋常ならざる相手でした。直接刃を交えることはありませんでしたが、出会った瞬間に能力を使用され、身動き一つ取れぬまま、あの男の流れに飲まれてしまいました」
「能力? あいつが……?」
ウーリはしばらく考え込み、やがて吹き出した。
「……ふふっ、そうか。知らないと、そう思うよね」
「……ウーリ様?」
「いいよ。どうせあの感じだと、またすぐに会いに来るだろうし。そのときに、また相手してもらって答え合わせするといいよ」




