全力
師匠の一声が路地裏に響いた瞬間、すべての動きが止まった。
悠真の目の前では、テンパの拳が髪の毛一本ほどの隙間を残して静止している。
踏み込んだ身体も、不安定な体勢のまま固まっていた。
路地裏の入口から、師匠が足音を鳴らして歩いてくる。
その顔に、いつものニヤけた笑みはなかった。
入口に最も近いヒューリは、背後に現れた気配を感じ取った。
(いま……後ろにいるのか……。これがターゲット!)
振り返ろうとしても、首が動かない。
身体のどこにも力が入らず、視線すら移せなかった。
(首が動かせない、いや……視線すら。プレッシャー……いや、能力か? それどころじゃない……呼吸が……意識が…………遠のいて…………)
ヒューリの隣まで歩いた師匠が、そこでようやく彼の異変に気づいた。
「ん? あぁ、すまん。呼吸くらいはしてもいいぞ。悪い癖なんだ」
その言葉を聞いた途端、ヒューリとテンパ、悠真の三人が、喉を鳴らして息を吸い込んだ。
だが、動くのは呼吸に伴う胸だけだ。
指先も眼球も動かず、三人とも蝋人形のように固まっている。
横たわるミーシャも、静かに呼吸を再開していた。
異様な静けさの中に、三人の荒い息遣いが重なる。
師匠は悠真のそばへ行くと、鉄パイプの先を服の襟足に引っかけた。
そのまま悠真を引きずり、テンパの拳から遠ざける。
「悪いな、お前まで。変に動かれると危ないからな」
師匠は鉄パイプを脇に挟み、ヒューリとテンパへ振り返ると、手のひらをパンパンと叩いた。
「おら、もう動いていいぞ」
止まっていた身体が、再び動きだす。
虫の音も、鳥の声も、路地裏に戻ってきた。
テンパは拳を突き出した不安定な体勢から解放され、そのまま地面に転んだ。
悠真は呆然と、その様子を見つめていた。
息ができる。手も動く。
すぐそばには、師匠がいる。
助かったのだと、ようやく思えた。
張りつめていたものが緩み、口を開きかけたところへ、師匠のげんこつが落ちてきた。
「……え?」
「え、じゃねぇ。なんで全力出さなかった」
「……どういうことですか?」
「いつも言ってるよな、全力出せって」
悠真は頭を押さえ、師匠を見上げた。
目に涙がにじむ。
「……僕だって、全力でしたよ」
「なんでオーラの切り離し試しもしなかった?」
「……だって、できるかどうかもわかんないし。できたところで、またガス欠になるって思ったから……」
師匠は悠真に背を向け、歩きだした。
「おまえ、いつまでも俺が守ってやれると思ってんだろ」
悠真の手が、頭からゆっくり下がった。
遠ざかるその一歩が、もう二度と縮められない距離のように感じられた。
「もっかい戦え。次、俺は何があっても助けないからな」
「師匠……」
呼び止めても、師匠は戻ってこなかった。
いつもの気の抜けた笑みを浮かべ、テンパのほうを向く。
「てなわけだ、再戦頼むわ。もちろん殺す気で戦ってくれ」
悠真は、聞き間違いだと思った。
けれど師匠は、言い直さなかった。
傷ついた右腕を押さえたヒューリが、二人のそばへ歩いてきた。
師匠の前で立ち止まると、すっと背筋を正す。
先ほどまでの刺々《とげとげ》しい態度を収め、落ち着いた声で切り出した。
「私たちの目的はあなたです。どうかご同行をお願いいたします。それさえ叶えば、そこの少年と戦う理由はありません。私たちは――」
「ウーリだろ」
「――ッ! いつからご存じで? 私たちはまだ、直接的な情報は何もお伝えしていないはずですが」
「お前さんら、この前、水茶屋にいただろ。あんときだよ」
ヒューリの背筋が、さらに張りつめた。
(あのときから正体に気がついていただと……!)
師匠は、なんでもないことのように続ける。
「あんときお前さんら二人を見て、ウーリの仕業だってわかったからな。せっかくだから、いろいろ利用させてもらうために逃げ回って迷惑かけたわ」
「それならなおさら、その少年と戦う必要はないはずです――」
「あいつ殺せたら、ついて行ってやるよ。悪いが、そっちの言うこと聞いてついて行ってやんだ。こっちの要求ものんでもらうぜ」
ヒューリは複雑そうに顔をしかめ、まだ地面に伏しているテンパへ声をかけた。
「テンパ、そういうことだ。そのガキの相手は任せた」
(言われなくても聞こえてんだけどな……)
テンパは地面に手をついて立ち上がった。
「そういうわけで、もう一度戦うことになったよ。もっと早くに協力してくれてたら……」
言葉を切り、悠真へ向き直る。
「君のことは好きだけど、ウーリ様のためなんだ。君を殺す」
悠真は放心したまま、身構えることもできずに立っていた。
「早く構えるんだ。もう忠告はしないよ」
その声も、すぐには頭に入ってこない。
目は、師匠を追っていた。
(師匠……。僕、死ぬところだったんですよ)
ミーシャも、まだ動かない。
それなのに、どうしてもう一度戦えと言うのだろう。
どうして、殺す気で戦えなどと言えるのだろう。
テンパは悠真の心情を察して、心の整理がつくまで待っていた。
だが、師匠はそれを待ってはくれなかった。
「なにしてんだ。とっとと始めろ」
テンパは奥歯を噛みしめ、悠真に襲いかかった。
大きな拳が顔へ向かう。
悠真は反射的に両腕を持ち上げ、頭を守ろうとした。
その腕が視界を塞ぐより先に、テンパの蹴りが、がら空きになった腹へ突き刺さる。
「ぐっ……!」
身体が折れる。
悠真は転がるように距離を取り、壁に手をついて息を吸った。
テンパは間を置かずに追ってくる。
(読まれた……! ずっと尾行されてたんだ。癖を読まれてる……!)
考えている隙に、テンパが拳を振り下ろした。
悠真はとっさに横へ身をかわす。
背後で、拳が壁を砕く音が響いた。
さっきまでの彼なら、ここで声をかけてきただろう。
だが今は、悠真が起き上がるのを待つためにも、降参を勧めるためにも手を止めない。
師匠を自分たちについて来させるため、悠真を本気で殺すと決めた男が、そこにいた。
悠真は逃げながら、師匠のほうを一瞬だけ見る。
いつものように鉄パイプを肩へ引っかけ、真剣な顔でじっとこちらを見ている。
(僕が無事だったことより、全力を出してないってことが重要なんですか。それに……僕はずっと、まじめですよ)
師匠は助けてくれた。
もう少し遅ければ、テンパの拳が顔に当たっていた。
それなのに、師匠の言葉を思い出すと胸の奥が冷える。
『次、俺は何があっても助けないからな』
今度こそ、本当に助けてくれないのだろうか。
自分がいなくなっても、師匠は旅を続けるのだろうか。
いつものように笑って、別の誰かをからかいながら。
悠真は激しく首を振った。
その想像を追い払おうとしたところへ、テンパの蹴りが迫る。
身をかがめてかわし、壁際を走った。
(そんなふうに言わなくたって、いいじゃないですか)
視界がにじむ。
拭う余裕はない。
テンパが行く手を塞ぐ。
悠真は拳の行き先と、自分の守りが作る隙の両方を見ようとした。
テンパの右の拳が動く。
とっさに、左腕の前へ空気の壁を作る。
しかし、テンパは途中で拳を引き、悠真の足を払った。
「うわっ!」
倒れかけたところへ、掌底が胸を突く。
悠真は後ろに跳んで威力を逃がしたが、無傷ではすまない。
地面を転がり、肘をついて身体を起こす。
顔が上がったとき、また師匠を探していた。
何か言ってほしかった。
もういいと、いつもの調子で笑ってほしかった。
その自分が、悔しかった。
(こんなことする人だったんですか、師匠は)
それでも、目をそらせなかった。
あんなに怖いことを言われたのに、そばへ戻りたいと思ってしまう。
一緒に見たものも、話したことも、全部なくなってしまうのは嫌だった。
(いやだ。旅が終わるのも、師匠と一緒にいられなくなるのも)
テンパが踏み込む。
悠真は慌てて立ち上がり、振り抜かれた腕をかいくぐった。
(まただ。見てからじゃない。見る前に、どう防御するかバレてる。オーラの移動速度でカバーしきれない……!)
テンパは、速さだけで悠真を圧倒しているのではない。
悠真が何を恐れ、どこを守ろうとしているかを表情と視線から読み、そこに生まれる隙を攻めている。
それは、何週間も尾行していたからではなかった。
戦闘技術でヒューリに劣るテンパが、後れを取らないために磨いてきたものだ。
悠真は拳を握り、テンパの顔へ踏み込んだ。
だが、テンパはその表情から、本命が拳ではなく蹴りであることを見抜く。
踏み込みのために脚へ集めた大量のオーラを、そのまま蹴りに流用するつもりなのだ。
拳に集めたオーラは、注意を引くためのフェイクにすぎない。
テンパは最初から拳を相手にせず、悠真の右足を掴んで投げ飛ばした。
悠真は地面に打ちつけられ、痛みに身をよじる。
師匠は、何がしたいのだろう。
自分に何を期待して、何を求めているのだろう。
わからない。勝てない。
そう考えかけたとき、昼の森で聞いた師匠の声がよみがえった。
『諦めは最悪の選択だ、0点だな』
森で襲ってきた殺し屋が、勝てないと決めつけ、能力も使わなかったときの言葉だ。
悠真は地面に手をついた。
起き上がろうとして、胸の痛みに息が詰まる。
あのとき、自分も同じことをしたのだろうか。
できるかわからないから、試さない。
オーラが尽きるかもしれないから、使わない。
切り離したオーラにほかの使い道がないか、考えようともしなかった。
最後には自分を守る力まで消して、助けてと願った。
(……まだ、試してないことがあった)
だからといって、師匠の言い方がつらかったことまで、なかったことにはできない。
殺していいと言った理由も、わからないままだ。
わかったふりなど、できなかった。
それでも、教えてもらったことまで嘘だったとは思えない。
修行でできるようになったことは、今も自分の身体に残っている。
悠真は立ち上がった。
テンパの拳を両腕で受け、押されるまま後ろへ跳ぶ。
着地した脚が震えた。
(なんで師匠は、切り離すオーラのことをわざわざ言ったんだろう。そんなの、役に立つわけが――)
悠真は唇を噛んだ。
(違う。役に立たないって決めたのは、僕だ)
テンパの腕をかわしながら、その向こうへ目を向ける。
壁際に横たわるミーシャさんは、まだ動かない。
止まった拳が、目の前に浮かんだ。
あのときは、もう避けようとも、守ろうともしていなかった。
(僕が諦めて、師匠も来なかったら……ミーシャさんは?)
悠真は息をのんだ。
自分を助けるために来てくれた。
相手が殺し屋だとわかっても、命を懸けて戦ってくれた。
そのミーシャさんが倒れているのに、自分はもう何も考えたくないと思った。
守ることも、戦うことも、全部投げ出そうとした。
(そんなの……ミーシャさんを置いていくのと、同じじゃないか)
自分が倒れた後のことなど、考えていなかった。
怖くて、つらくて、それだけで頭がいっぱいだった。
テンパの拳が迫る。
悠真は両腕で受け、押されながらも踏みとどまった。
師匠が何を考えているのかは、まだわからない。
言われたことは、今もつらい。
それでも、自分が諦めたら何を手放すことになるのか、もう考えずにはいられなかった。
(僕だけのことじゃ、なかったんだ)
ミーシャさんを助けたい。
自分も生きて、師匠と旅を続けたい。
そう願っているのに、まだ試していないことまで投げ出してはいけない。
(考えろ……! 教わったことを、ちゃんと思い出せ……!)
ホテルの裏の森で、師匠は手にオーラを集めながら話していた。
破壊力は、物質の硬さと、まとわせるオーラの密度との掛け算で決まる。
(テンパさんと僕とじゃ、身体そのものの硬さがまるで違う……。オーラの練度も、ほとんど同じなのに……)
ただオーラを飛ばせば、何かが起こるかもしれない。
そんな考えがよぎったが、悠真はすぐに思い直した。
(ミーシャさんのときは、オーラだけで威力を出そうとしたから、大量に使った。それで、すぐにガス欠になったんだ……)
テンパの蹴りが、脇腹をかすめた。
かわしきれず、悠真は片手を路面につく。
痛みに息を詰めながら、次の攻撃を見上げた。
すぐに立ち上がり、テンパの腕をかいくぐる。
教わったことを思い返すたび、何かが引っかかった。
煙にオーラをまとわせる修行を、ずっと続けてきた。
空気の壁だって、何度も使っている。
いつも使ってきたものと、身体から切り離す技術。
それから、師匠が話していたオーラの本質。
『そもそも、オーラや能力の本質は「世界のルールを部分的に書き換えること」だ』
『技術と知識がありゃ、すべての能力をオーラの操作だけで再現できる』
悠真はテンパの拳をかわし、踏みとどまった。
ばらばらだった教えが、頭の中で一つにつながりかけていた。
これからやろうとしていることを、直接教わったわけではない。
できるという保証もない。
それでも、試すために必要なことは、これまで教わった中にある。
悠真はテンパの目をまっすぐ見た。
「僕は、もう途中で投げ出しません!」
そう言い切り、師匠へちらりと視線を向ける。
その表情に変化はなかった。
胸はまだ痛かった。
師匠の顔を見ても、さっきまでの不安が消えるわけではない。
それでも、今度は返事を待たず、テンパへ向き直った。
(師匠。今度こそ全力で戦います。ちゃんと、見ていてください)
わからないことは、あとで聞きたい。
どうしてあんなことを言ったのかも。
そのためにも、ここで終わるわけにはいかない。
悠真は構えを直す。
負けない方法は、まだわからない。
怖さもなくならない。
けれど、試す前にやめるのは、もう嫌だった。
明らかに変化した悠真の表情を見て、テンパの気も引きしまる。
無言で腰を落とし、両の拳にオーラを巡らせた。
今度は、テンパが動くより先に悠真が攻めた。
踏み込み、拳を大きく振り下ろす。
テンパは、それを軽々とよけた。
悠真の拳が地面を穿ち、路面に幾筋もの亀裂が走る。
穴の奥から、砕けたものがぶつかり合う乾いた音がした。
テンパの中に、違和感が生まれる。
(急に攻めに転じた? いや、ずっと防戦一方よりは正しいんだろうけど、なんだ? この子から伝わる、何かを企んでいる感じは……)
その一瞬の硬直に、悠真が矢継ぎ早の攻撃を重ねる。
突き、蹴り、頭突き。
息もつかせぬ速さでフェイントを織り交ぜるが、テンパは見事に読み切り、すべてをいなした。
猛攻の隙をついて悠真を激しく突き飛ばすと、今度はテンパが攻めに出る。
その拳が振り下ろされる前に、悠真は両腕を掴んだ。
つかみ合いになる。
体格差があるうえ、テンパが上から押さえつけるような体勢だ。
悠真に有利なはずがない。
悠真は押されるまま、一歩だけ後ろへ下がった。
テンパも距離を詰める。
それでも悠真は、掴んだ腕を離さなかった。
ずっと丁寧に防いでいた少年とは思えない行動に、テンパは再び違和感を覚える。
そして、踏み込んだ足元には、先ほど悠真が地面を穿って作った穴があった。
悠真の、してやったりという表情。
それを見た瞬間、テンパは悟った。
(誘われた……?!)
悠真は掴んだ両腕を離さず、足先にオーラを集めた。
(硬い物にまとわせれば、少ないオーラでも威力を出せる……! そのために、さっき仕込んだ!)
自分の身体で足りない硬さを、コンクリートで補う。
残されたオーラを使い切らずに、テンパへ届く一撃を作るためだった。
悠真は足先からオーラを飛ばし、穴の底にあるコンクリートの塊へぶつけた。
地面を殴ったとき、その塊にまとわせ、切り離しておいたオーラが反応する。
自分のオーラを感知したら、上へ飛び出せ。
悠真が仕込んだルールは、それだけだった。
煙にオーラをまとわせ、身体から切り離す。
繰り返してきた修行で、まとわせる物を変えた。
そこへ、師匠から聞いた「ルールを書き換える」という使い方を加えたのだ。
ぶっつけ本番だった。
少しでも成功の可能性を増やすため、条件は単純にした。
(足から飛ばしたオーラが合図だ! 飛んでけ! コンクリート!)
塊が地面から跳ね上がる。
狙うのは、テンパの顎。
そのために、ここへ踏み込ませた。
テンパも、すぐさま悠真の意図に気づいた。
(この感じ……顎かっ!)
テンパは窮地において、悠真をはるかに凌駕する圧倒的なオーラの移動速度を見せた。
悠真の必死の一撃をしのぐため、すぐさま全身のオーラを顎へ集中させる。
そして地面から悠真のオーラをまとったコンクリートの塊は、正確に、的確に、テンパの股間をかち上げた。




