天井
「……いま説明した通り、君たちはその男をここへ連れてくるだけでいい」
廃ビルの一室で、ヒューリとテンパは床に跪いていた。
正面の窓台には、淡い青髪の女が背を預けて座っている。
足元のシーシャが、こぽこぽと鳴った。
女は二人を穏やかな目で見下ろす。
「承知いたしました。しかしウーリ様、500億もの大金をその首にかけてしまえば、その男も殺されてしまうのでは」
ウーリは指を唇に当て、しばらく虚空を見つめた。
「んー、現実離れしすぎていて想像がつかないな。あの男が死ぬ、か。私は別にいいかな。むしろ、死んでくれるなら願ったり叶ったりだよ」
ヒューリは自信ありげに笑った。
「でしたら、私たちが始末してみせますよ」
意気込むヒューリと、戸惑うテンパ。
二人を見比べ、ウーリは微笑んだ。
「頑張ってね。もしその気なら、最初から全力を出した方がいいよ。そうでないと、きっと遊んですらくれないだろうから」
窓からの風に髪を揺らし、傍らのマウスピースをくわえる。
深く煙を吸い込む彼女に、ヒューリがおずおずと尋ねた。
「……ウーリ様は、戦われないのですか。ウーリ様ほどのお力があれば、あるいは」
ウーリは吸い口を離さず、横目でヒューリを見た。
やがて唇の隙間からゆっくり煙を吐き、立てた膝を抱えて顎をのせる。
「私? ……ふふ。嫌だよ。私は命が惜しいからね。いい機会だ、一度体験してみるといいよ。この世界の天井を」
――ミーシャとヒューリの戦いが決着する、ほんの少し前。
路地裏では、悠真とテンパの戦いが続いていた。
「――聞いてはいた。聞いてはいたけど……」
テンパは、少年の粘り強さに驚いていた。
「弟子でこのレベルなのか……!」
(……早く、早くミーシャさんを助けに行かないとッ! ミーシャさんがッ!)
ミーシャのほうへ駆けようとする悠真の前に、テンパの巨体が立ち塞がる。
(速い……。それにこの人、僕と同じ、基礎が強い人だ)
悠真は相手の動きから目を離せなかった。
どう動いても、その巨体が行く手を塞ぐ。
(オーラの操作だけ、ほんの少しだけ僕が上だと思うけど、身体の強さも大きさも、体術も全部負けてる……)
懐へ飛び込もうとしたところへ、テンパの蹴りが入った。
悠真は腕で受け止めたが、その腕にしびれが走る。
(うっ、全力で固めてもダメージが……)
テンパの背後で、地面を打つ轟音がした。
二人の動きが止まる。
悠真はその脇をすり抜け、ミーシャのもとへ走った。
勝ったのはミーシャだ。きっと今なら、一緒に逃げられる。
そう思って見た先で、彼女は頭から地面にめり込み、身体を逆さに突き上げていた。
傍らには、ヒューリが立っている。
悠真の足が止まった。
次の瞬間、襟をつかんだテンパに路地の奥へ投げ飛ばされる。
「ミー……シャ…………さん………………?」
テンパは倒れた悠真をそのままに、ヒューリへ駆け寄る。
投げ出された先には、砕けたガラス瓶の破片が散らばっていた。
さっきミーシャが、配管を狙うために飛ばしたゴミの1つだ。
悠真は路面に手をついた。
テンパはミーシャの姿を間近に見て、声を上ずらせた。
「おいおいおい! なにしてんだよヒューリ! 殺したらダメだって、あれだけ言っただろ!」
ヒューリは黙って立っていた。
「死んじゃいない。さすがはレスラーというべきか、想像以上のタフネスだ」
ミーシャの頭が埋まった穴には、小さな水の粒がいくつも浮いていた。
ヒューリの腕のすぐそばで爆発した水塊のうち、操作できる大きさを保って残ったものだ。
その粒で、彼女の状態を確認していた。
「水で確認したが、頭部に目立った外傷はない。最後の一撃には頭突きを選んでいたんだろう。オーラが集中していたおかげで、地面に叩きつけられたときの損傷は防げている。意識を失ったのは、頭を打った衝撃のせいだろうな。軽い脳震盪だと思うが」
テンパは穴の縁から、ミーシャの様子を覗き込んだ。
「テンパ、この女を引っ張り上げて、横向きに寝かせろ」
テンパは自分を指さし、口を開けたままヒューリを見る。
「何度も言わせるな。私は見ての通りこの腕だ。今後のためにも死なせたくないなら、早く処置をしろ」
「あ、ああ。そうだな! まだ生きてるんだもんな!」
テンパはミーシャの足をつかんで穴から引き上げ、その身体を地面に横たえた。
「……これでいいか?」
ヒューリは、その姿を見て眉を寄せる。
「それだと転がって気道がふさがるだろ。女が転がらないように、壁にもたれかけさせろ」
「最初からそう言ってくれたらいいのに……」
テンパはミーシャを抱え直し、背を壁に添えるようにして、横向きに寝かせた。
「それより、腕は大丈夫か?」
ミーシャのそばに浮いていた水の粒が、今度はヒューリの傷ついた腕へ集まる。
「さあな。再生を試みるが、できるかもわからん。できたとしても、今日中にとはいかないだろうな。あのガキの相手は、お前ひとりに任せる。その間、私はこの女の容態でも見ておくとする。……悪いな」
テンパはまた口を開け、ヒューリを見つめた。
「お前……、謝るなんてことできたんだな」
ヒューリの目が険しくなる。
「貴様、殺されたいか?」
路地の奥で、かすかな物音がした。
「……れろ」
悠真が、涙でくしゃくしゃになった顔のまま歩いてくる。
「ミーシャさんから離れろ!!」
ヒューリはミーシャの隣に腰を下ろした。
「もしもの時は援護する」
テンパは首を振る。
「いいよ。余力は治療に使ってくれ」
悠真へ向き直り、再びその前に立った。
「ミーシャさんから! 離れろ!!」
泣きじゃくる少年に、テンパはできるだけ穏やかに声をかける。
「おい、ちょっと待ってくれ! 彼女は無事だよ! いまヒューリが容態を見てくれてるから、安心して大丈夫だから」
「そいつがミーシャさんをそんなにしたんだ!」
「……それ言われると、そうなんだけどさ」
テンパは言葉を探した。
「俺らからしたら、君ひとり、ついてきてくれたらそれでいいんだ。君が来てくれるなら、彼女の命は保証するよ」
(僕が、僕がミーシャさんをあんなにしたんだ。僕が師匠をあのとき止めなかったから。僕が闘技場に行きたいなんて言ったから。ミーシャさんが来てくれた、あの瞬間のチャンスを見惚れて逃したから。僕が……弱いから)
テンパの言葉よりも、自分を責める声が頭の中を埋めていく。
(僕が責任を取らなくちゃいけない……。僕が絶対、ミーシャさんを死なせない……。何をしても絶対……!)
悠真はテンパの向こうにいるミーシャを見た。
動かない。その姿から、目を離せなかった。
(これまで監視されてきたなら、空気の壁はもうバレてる。いままでみたいに隠し玉としては使えない。ほかに意識を割かせて、不意打ちみたいにできたら、隙を作ることくらいはできるかもしれない)
目の前の巨体へ、視線を戻す。
(こうなった以上、逃げる選択肢はない。この二人を倒して、ミーシャさんを助ける……!)
悠真が地面を蹴った。
テンパは腰を落として迎え撃つ。
(もう、綺麗ごとを言っていられる状態じゃない)
悠真の手には、ガラス片があった。
身体を寄せた勢いのまま、テンパの手へ突き立てる。
「痛っ――!」
テンパが反射的に蹴りを返す。
その足の下に空気の壁が現れ、脚を押し上げた。
片足を取られ、巨体がぐらつく。
(ついに出たか。空気の壁……! だが――)
テンパは浮いた脚を戻さぬまま腰をひねり、悠真を殴り飛ばした。
「驚いたよ。君でも武器を使うことがあるんだね。でも、この状況なら無理もないか。そこまで追い込んでしまったことが心苦しいよ」
手に刺さったガラス片を抜き、路面へ放る。
「もう、終わりにしよう。それで君も楽になれる」
右拳へ、オーラが集まっていく。
(君の空気の壁に、直接触れられてよかった。その強度なら、俺の拳で貫ける。壁を破る分だけ威力は削がれる。だがこれだけオーラを集めれば、残った力で君を気絶させられる)
悠真がふらつきながら立つのを見て、テンパは踏み込んだ。
拳を包むオーラの量に、悠真の全身が危険を訴える。
(来る……っ! 空気の壁……無理だ。あのオーラ、防ぎきれない……!)
互いの視線が、拳の先へ吸い寄せられる。
残された一瞬に、二人の思考が走った。
テンパは、少年が防御を張る瞬間を待っていた。
(どうした? なぜ、まだ空気の壁を張らない?)
悠真は、別の手段を必死に探す。
(……切り離すオーラ。……ダメだ、失敗するかもしれない。できても、またガス欠に)
距離が詰まる。
(お願いだ。早く壁を張ってくれ)
(避ける……? でも、足が、足が動かない。お願い、動いて……)
拳が顔へ迫る。
悠真を包むオーラが、大きく揺れた。
(まさか、壁を張らずに直接顔面で受けるつもりか……?)
ミーシャの敗北も、目の前の拳も、すべて自分のせいだと悠真には思えた。
逃げることも、守ることも、もう考え続けられない。
何も考えたくない。何も見たくない。
全部を投げ出して、目をそむけたかった。
まだ声変わりもしていない少年が背負える限界を、この状況はとっくに超えていた。
少年の心は折れた。
(なっ――!)
拳が顔に届く数センチ手前で、悠真のオーラが消える。
張りつめていた意志とともに、制御が途切れた。
テンパは止めようと腕に力を込める。
それでも、拳の勢いは殺せない。
(――無理だ! 急には止まれないって!)
(……師匠。…………助けて)
拳が悠真に触れる、その寸前だった。
「止まれ」
声が届いた瞬間、路地から音が消えた。
テンパの拳は、悠真の顔に触れる寸前で止まっていた。
悠真も、ミーシャの傍らに座るヒューリも、微動だにしない。
鳥も虫も、鳴き声を途切れさせたまま、動きを止めていた。
入口には、月明かりを背に師匠が立っていた。




