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満月

 ――レストランを後にした師匠は、女とともに街のホテルへ入っていた。

 客室の入口には小さな空間があり、その先の扉を開けるとベッドルームになっている。

 師匠はそこへ足を踏み入れるなり、真っ先にベッドへ倒れ込んだ。


「ふぅ、久しぶりに死ぬほど飲んだわ」


 着替えもせず、鉄パイプを握ったまま横になる。


(ほんと、なんであれだけ飲んで死んでくれないのかしら)


 女は入口の小さな空間にカバンを置き、中からディフューザーを取り出した。

 ベッドルームへ戻って扉を閉め、ナイトテーブルにそれを置く。

 噴霧口《ふんむこう》は、師匠の顔へ向けてあった。


「このアロマ、わたしのお気に入りなんです。おじさまにも気に入ってもらえると嬉しいなぁ」


 返事はなく、師匠はもういびきをかいていた。

 女はつまらなさそうに口を曲げ、ディフューザーの電源を入れる。

 柔らかなカモミールの香りが、部屋に広がり始めた。


「わたしは先にシャワー浴びてますので、ゆっくりくつろいでいてくださいね」


 そう言い残し、ベッドルームに隣接《りんせつ》する更衣室へ入った。

 奥にはシャワールームがある。

 女は背後の扉をしっかり閉め、耳を澄《す》ませた。

 向こうからは、相変わらず師匠のいびきが聞こえてくる。

 女は時計へ目を落とした。

 最初に吹き出すのは、薬を含まないアロマだけだ。

 だが、そろそろ薬の散布が始まる頃合《ころあ》いだった。


(今、呑気に吸い込んでるのはカルフェンタニル。モルヒネの10,000倍もの効力を持つ麻薬よ。あなたに合わせて、用意できる最高濃度にしてあるわ)


 女は壁にもたれ、口元をゆがめる。


(どうして、こんな安っぽいホテルを選んだかわかる?)


 ベッドルームとシャワールームの換気は独立していた。

 更衣室への空気の流れも調べ、事前の検証まで済ませてある。

 この扉を閉じている限り、ベッドルームに散布した薬は、こちらへ流れ込まない。

 女がこのホテルを選んだ理由は、そこにあった。


(ここで待つ分には問題ない。危険なのは、あの部屋へ戻るときよ)


 食事に混ぜたほかの薬には、まるで反応がなかった。

 事前の情報では、遠距離から狙った殺し屋たちも仕留められなかったという。

 できることなら、この奥の手だけは使いたくなかった。

 それでも、女がこのホテルへ師匠を誘った時点で、戻る覚悟は決まっていた。

 薬だけで仕留められなくても、意識を失わせ、直接とどめを刺す。

 そのための道具は、もう衣服の下に隠してある。


 女は錠剤《じょうざい》を取り出し、手のひらに盛った。

 それを見つめ、ごくりと唾《つば》をのむ。


(ナルトレキソン……。オピオイドの作用を妨げる薬。でも、これを飲めば必ず助かるわけじゃない)


 あの部屋で、自分がどれだけ薬に曝《さら》されることになるのかはわからない。

 女は手のひらの錠剤を見下ろした。


(服用量の不足まで重ねるつもりはないわ)


 震える手で錠剤を口へ運び、蛇口《じゃぐち》の水で流し込んだ。


(腹痛や吐き気、肝障害《かんしょうがい》の危険もある。それでも、あの報酬さえ手に入れば……)


 やがて、師匠のいびきが聞こえなくなった。

 女は扉に耳を当てる。

 ベッドルームからは、物音一つしない。


(ようやく効いたのかしら。でも、あれだけの男よ。これで死んだとは限らない)


 そのまま扉の前に座り込む。

 散布が終わっても、すぐには戻らない。

 飲んだ薬の効果を待つだけでなく、空気中に漂う薬が少しでも落下し、濃度が下がるのを待つ。

 その時間も、女は段取《だんど》りに組み込んでいた。


(あと1時間……。ただ、待つしかないわね)


 女は時計へ目を向けた。

 少しでも危険を減らしてから扉を開ける。

 ここまでは、準備した通りだった。


 40分ほどが経過した頃、腹痛が女を襲い始めた。

 胃の中でナイフを振り回されるような激痛だった。

 脂汗《あぶらあせ》がにじみ、女はバスタオルを噛みしめる。

 強烈な吐き気が込み上げるたび、洗面台へ身を乗り出して胃液を吐いた。


(あと、20分……! たった20分よ。耐えるのよ、私……!)


 シャワールームの扉を開けても、狭い更衣室にこもった胃液のにおいは消えなかった。

 女は時計を見つめ続ける。

 一分一秒が、どうしようもなく長い。


 ようやく、1時間が経った。

 女は痛みに歯を食いしばり、ぐったりと倒れていた身体を起こした。

 汗を拭き、衣服に隠していた小さな水泳ゴーグルをつける。

 服の上からバスタオルを羽織《はお》り、顔にもタオルを巻いた。


 衣服の下に隠せる装備には、限りがあった。

 それ以上に身につければ、服の上からでも男に気づかれかねない。

 だから、持ち込めたものに、この場にあるタオルを足す。

 女は鏡の中の自分を見つめた。

 薬の作用が完全に遮断《しゃだん》されるわけでも、この格好で曝露《ばくろ》を防ぎきれるわけでもない。

 そんなことは、わかっていた。


(こんなふざけた防護服で部屋に入る……。乾坤一擲《けんこんいってき》の賭けに出るなんて、私も焼きが回ったわ)


 小さく笑い、衣服に隠していたアイスピックを握った。


(本来、あのディフューザーは、仕掛けた部屋へ戻るためのものじゃないのよ。あなたでなければ、置いて逃げれば仕事も終わっていたのに)


 だが、今夜は戻る。

 そのために、ここまで耐えた。

 女は扉の前に立ち、手の中の柄を握り直した。


(長かったわ。でも、これでもうおしまい。あんな対応をされるのも初めてで、案外楽しかったわ。さようなら)


 息を止め、扉を開ける。

 そこに横たわっているはずの男は、いなかった。


 女は立《た》ち尽《つ》くした。

 痛みと吐き気も相《あい》まって、状況がまるで呑《の》み込《こ》めない。

 空のベッドを見つめるだけの余裕もなく、入口の小さな空間へ逃げ込んだ。

 そこで、1つの違和感に気づく。

 閉じたはずのカバンの口が開いていた。

 もしやと思い、中へ手を伸ばす。

 財布がない。


「――あのクソおやじッ!」



 ――女が更衣室で時計を見つめていた、その1時間の途中。

 師匠はすでにホテルを後にしていた。


「悪いが、こう見えて案外一途《いちず》なのよ」


 夜の街を歩きながら、誰に聞かせるでもなくつぶやく。

 手には、女から奪った財布があった。

 軽く放り上げ、落ちてくるたびに受け止める。


「飯の礼だ。ちゃんとホテル代は出しといてやったぜ」


 しばらく歩くうちに、財布をもてあそんでいた手が止まった。

 表情から笑みが消える。

 行き先を決めかねたように、通りをさまよった。


「酔い、さめちまったな……」


 コンビニで酒といくつかの品を買い、再び外へ出る。

 空には、大きな満月があった。

 師匠は缶を開け、月を見上げたままひと口飲んだ。


「ああ……、わかってるよ」


 遠い記憶の中から、声がよみがえる。


「またいつか……会えるかな?」


 月を見上げたまま、師匠はつぶやき返した。


「……あたりまえだ」


 口元に、寂しげな笑みが浮かぶ。

 懐かしい声が、記憶の中で続いた。


「いつまでも……忘れないでね」


 師匠は缶を手にしたまま、答える。


「……忘れやしないさ」


 ゴーグルのレンズに、満月がくっきりと映っていた。

 そのとき、遠い記憶に混じって、今の旅で聞き慣れた呼び声が頭に浮かんだ。


「師匠……」


 その呼び声さえ、今は遠く感じられた。


「……師匠? 師匠……師匠……」


 口の中で繰り返す。

 月を見上げたまま、しばらく動かなかった。











「あ! やべ、悠真《ゆうま》! 忘れてた!!」

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