旅立ち
――耳をくすぐる小鳥のさえずりで、悠真はゆっくりと目を覚ました。
まぶたを開けると、テントの薄い布地を通して、爽やかな朝の光が差し込んでいる。
昨夜、吹き飛ばされたはずのテントが、元通りになっていた。
布地を見回しても、破れたところは見当たらない。眠っている間に、師匠が直したのだろう。
隣に、その師匠の姿はなかった。
外からは、パチパチと薪がはぜる音が聞こえる。醤油の甘辛い匂いも漂ってきた。
悠真がのそりと這い出ると、朝露に濡れた草むらの向こうで、師匠が焚き火の前にしゃがみ込んでいた。
「お、起きたか。ちょうど出来上がったところだぞ」
師匠は鍋から具材を汁ごとすくい、深皿によそって悠真に手渡した。
湯気の中に見えるのは、赤茶色に煮込まれたタコのぶつ切りだ。吸盤の並んだ足に、つやつやと煮汁が絡んでいる。
「……あ、これってもしかして、この前言ってたタコですか?」
「おうよ。美味そうだろ。ほら、冷めねぇうちに食え」
ふーふーと息を吹きかけ、悠真はひと切れを口に運んだ。
噛むと、お肉とも魚とも違う弾力があり、甘辛い煮汁の奥から旨みが広がる。
たこ焼きの中に入っていたものとは、ずいぶん印象が違った。
美味しい。けれど、タコそのものをこうして味わうのは初めてだ。この町のタコがほかとどう違うのかまでは、さっぱり分からなかった。
「どうだ、うめぇか?」
「おいしいですけど……。師匠、やっぱりお金隠し持ってます?」
師匠は笑って答えた。
「ひでぇな、師匠を疑うなんて。この1週間、町でいろいろ手伝ってただろ。調味料とかも、そんときに分けてもらったんだよ。タコは今朝、漁師の手伝いをして、もらってきた」
「普通にお金をもらえばいいじゃないですか」
「こういうのは、物でもらうからいいんだよ。誰を手伝って、どんな話をして、何をもらったか。金だけもらうより、日記に書くことも増えるだろ」
師匠は皿の中のタコをひと切れ口へ放り込んだ。
「お前も大人になりゃ分かるさ」
いつものように軽口を叩き合いながら、朝食を平らげた。
師匠は立ち上がると、ポケットから葉巻を取り出した。火をつけ、悠真に手渡す。
「よし、食ったら修行だ。今日は昨日見せた、切り離すオーラだ。まぁ、まずはやってみろ」
「やってみろって……、やり方も何も教えてもらってませんよ!」
「こればっかりは自分で感覚つかむしかねぇからな。俺はテント片付けっから、その間いろいろ試してみろ」
そう言うと、師匠はテントの支柱を抜き、片付けを始めてしまった。
悠真は手渡された葉巻を見つめ、ごくりと唾を飲み込んだ。
煙を伸ばし、つながったまま動かすことならできる。けれど、切り離した後も操り続けるには、何をどうすればいいのだろう。
「伸ばすんじゃなくて、飛ばす……」
煙にオーラを込め、意識を集中させる。
上へ伸ばしていた煙を前に押し出し、その先を切り離そうと試みた。
何度か試すうち、煙のひとかたまりが、オーラとともに葉巻から離れた。
だが、形を保っていられたのは数秒だけだった。動かそうと意識を向ける間に、輪郭が崩れ、朝の風に流されていく。
何回かに1回は切り離せても、その先が続かない。
「うぅん……難しいなぁ……」
やがて集中が切れ、悠真はため息をついた。
気分転換に顔を上げると、この1週間、見下ろしてきた町と湖が広がっていた。
今日で、この場所ともお別れだ。
高いところから見る景色をもう一度目に焼き付けてから、悠真は周囲へ視線を戻した。
そして、昨夜の戦いがあった場所を見て、首をかしげる。
「……あれ?」
目をこすって、もう一度見た。
「穴が……ない?」
地面にぽっかりと開いた、あの大穴が消えていた。
それだけではない。トーチが落ちた小さな穴も、散らばっていたガラス片も、どこにも見当たらない。
昨夜は足を取られた地面に、今は草が生えている。
テントだけでなく、こっちまで直してしまったらしい。
悠真は師匠の方を見た。本人は何事もなかったように、荷物をまとめている。
「おい、悠真。準備できたか?」
「はい! 僕はいつでも大丈夫です!」
「よし。じゃあ行くか、お前の故郷に」
故郷。その言葉に、母の顔が浮かんだ。
湖のことも、町のことも、この1週間の修行のことも。聞いてほしい話は、たくさんある。
一度帰って、母に話したら、今度はまた違うところへ行きたい。
悠真が日記の入った荷物を抱え直す間に、師匠は森へ歩き出していた。
慌てて、その背中を追いかける。
木々に遮られた薄暗い森を、師匠の足音について歩いた。
やがて前方に光が見え、森を抜けた途端、目の前に大きな湖が広がった。
「うわぁ……!」
この1週間、ずっと上から見下ろしていた湖だ。
けれど、水辺に立つと、向こう岸がずっと遠い。朝の光を受けてきらめく水面が、目の前からどこまでも続いている。
「綺麗だなぁ……」
悠真が足を止めている間も、師匠は先へ進んでいく。
(相変わらずだなぁ……。あ、でも、師匠は何回も降りてきてたんだったっけ)
自分には新鮮でも、師匠にはもう見慣れた景色なのかもしれない。
悠真は小走りで追いつき、尋ねた。
「あの、師匠。村に行くって、どう行くんですか?」
「簡単だよ。来た道を戻る」
師匠は町に入ってきた時と同じ道を通り、見覚えのある街道へ出た。
ここまで来る間には、いろいろな土地へ寄ってきた。その道を戻るなら、村へまっすぐ向かうより遠回りになる。
(でも、師匠らしいや)
悠真も、その隣に並んだ。
――太陽を浴びながら街道を進んでいると、立派な2本の松が見えてきた。
「あーーっ! ここ、あのお団子屋さんのところだ!」
悠真は声を上げ、指をさした。
けれど、近づいても、水茶屋の建物は見当たらない。2本の松が、風に揺れているだけだった。
隣では、師匠が退屈そうに耳をほじっている。
「何言ってんだ。勘違いじゃねぇのか?」
「絶対ここです! ほら、こんな立派な二本松、この街道でここしかなかったじゃないですか!」
「まぁ、水茶屋だしなぁ。今の時代に合ってないんだよ。消えちまうのも仕方のないことさ」
「そんな……。ついこの間まであったのに。すごくおいしかったから、またいつか食べたかったのに……」
肩を落とす悠真に、師匠はニヤニヤと笑いかけた。
「どのみち今は金がねぇから食えんけどな」
「もう! 誰のせいだと思ってるんですか!」
悠真が顔を上げると、師匠の手が頭へ伸びてきた。
髪をくしゃくしゃと撫でられ、文句を言いかけた声が途切れる。
「ま、そう怒るな。金が入ったら、違う店でまた団子食わしてやるよ」
「……本当ですか? 約束ですからね!」
――それから1か月弱、二人は来た道を戻りながら、懐かしい景色をいくつも通り過ぎた。
ある日の夕暮れ、ようやく、かつて悠真が泥だらけになって戦い抜いた、あの裏闘技場のある町へたどり着いた。
見覚えのある町並みを歩いていると、ホーガンの顔が浮かんだ。
今夜も、あの場所にいるだろうか。
「ねぇ、師匠」
「ん、どした?」
悠真は歩きながら、師匠の顔をちらちらと見上げた。
「せっかくこの町に来たんですし……。ちょっと、寄っていきませんか?」
「寄るって、どこにだよ」
「あの……あれですよ、あれ。……闘技場です」
師匠は足を止め、呆れたように悠真を見下ろした。
「お前、こないだ『闘技場なんてもう行かない』って言ってなかったか?」
「う……」
図星を突かれ、悠真は顔を赤くして口ごもった。
確かに、あの時はそう言った。けれど、今はあの場所が少し気になる。
近くまで来たのなら、少しだけ覗いてみたかった。
「……いいじゃないですか、別に! ちょっと見るだけですよ。行きましょうよ、師匠!」
服の袖をぐいぐいと引っ張ると、師匠はいつもの不敵な笑みを浮かべた。
「しゃあねぇなぁ。ちょうど手元の金もスッカラカンだしな。……ちょっくら稼ぎに行くか」
闘技場に近づくにつれ、通りに歓声が漏れ聞こえてきた。
師匠が分厚い扉を押し開ける。
途端に、大歓声が押し寄せた。
若い観客たちが身を乗り出し、拳を振り上げて叫んでいる。汗の匂いと熱気の中、隣の声も聞き取りにくいほどだった。
悠真はその勢いに目を丸くし、師匠の後に続いて会場へ足を踏み入れた。
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