第6話 立川①
ミサキ・キリシマの手記
わたしの読者さんへ。
前回どこまで書いたか読み返して対話についてだったことを思い出す。
日本連邦はその始まりから対話より排除を好んでいた。
少し思考実験をしてみよう。
『ある国でクーデターが成功した。
国内情勢は不安定。
社会を安定させるためにはどうすればいい?』
イエス、粛清だ!
古今東西どの国でも、例え民主主義であったとしても政情不安定な時には敵対思想の排除が行われてきた。
そんな時に対話なんて滅多に起きないことは歴史を見れば明らかである。
アメリカですら南北戦争に冷戦期の赤狩りなんかがあった。
内戦に発展することはあれどアメリカは比較的マシな方と言える。
大抵は暴力によって早期解決を図り、あらゆる反発を招き失敗するからだ。
しかし日本連邦という国は少し変わったやり方をした。
それは成熟した民主主義のなせる技なのか、それとも江戸時代以前からずっと続く政治テクニックなのか、わたしにはわからない。
要点をわかりやすくまとめよう。
つまり日本連邦は反体制派をすべて東京という出島に島流しにして、反体制とまで行かなくてもどうしても連邦のやり方が合わないのなら自由に出て行ってください、という自発性に任せたのだ。
この排除の理論によって関東一帯(利根川から南側)を保持していた旧日本国は徐々にリベラルな、あるいは革新政党として先鋭化していった。
わたしの読者さんへ。
たぶんこれを読むのはアメリカ人だと想定して書くが、自由よりも平等を、それも最大限平等を、そんな全体主義的な社会がどれほど生き辛いかご存じか?
わたしたちは映画やドラマや小説でそんなディストピア社会を知り、さらに100年前のニューヨークやサンフランシスコ、もっと前なら南米の社会主義実験国家たちの失敗と挫折。
最も有名なのがソビエト連邦の解体といった歴史からどれほど無謀なことか知っている。
そんな失敗の確定した政策を旧日本国は東京で実行したのだ。
これを書いた時から70年以上前の話になる。
わたしはあの日、新宿を訪れた翌日、そんな旧日本国の後継政府である立川政府。
その政府機関がある西東京立川へとマイケル夫妻と共に向かった。
国営中央線。
この路線は東京駅から新宿を経由してさらに西東京の立川まで続いている。
東京を南北に分ける線路だ。
ちょうど地上鉄道ということもあり、震災後もすぐに復旧した路線になる。
とくに新宿より西側は地下鉄がほとんど無かったことから陥没のリスクが少なく、立川政府の重要路線として機能していた。
すべてディーゼル機関車になる。
その力強い馬力によって貨物列車を西へと運び、ついでのように旅行客が乗る一般車両も輸送する。
車両は随分昔から更新されていないらしく、そこら中の突起や隅っこ、広告の枠の溝に頑固な汚れがこびりついていた。
プラスチックは劣化してひび割れ、イスに使われるクッションはくたびれ、その下の硬いアルミ板をお尻で感じ取れた。
早朝だったがこの時間帯は乗客はそれほど多くなかった。
車掌は東京人にしては太っちょな男で、だらしなく腹の出た男がゆっくりとホームを歩いていた。
南米系でガムを噛みながら仕事をする姿がなんとも印象的だった。
途中でガムをホームに吐き捨てていたのは今も鮮明に覚えている。
追記、駅のホームにはガムを吐き捨てて固まった黒色の斑点模様ができていた。アメリカよりも汚いホームがあるなんてビックリだ!
さらに追記、国営だからなのか本来の出発時刻を大幅に遅れて出発した。なんどトイレに行っとけばと後悔したことか!!
やっと出発してから移り変わる車窓の景色を眺め、マイケル夫妻と楽しんだ。
東京の貨物ステーション、新宿の増築都市、その次に杉並区のベッドタウンと続いて東京24区を出ると西東京の田園地帯が、どこまでも続く水田が現れた。
水田には美しい青空と白く輝く雲が映し出された。
そよ風が通過すると水田のキャンパスを揺らして青白いまだら模様を描く。
らせん状のアルミフレームの弦三本が風を捕まえてクルクル回転する。
マイクはその田園風景を自慢のカメラで撮りながら言った。
「あれはダリウス型風車と言ってプロペラ型より効率が悪い代わりに低コストでメンテナンス性もいいんだ。なによりあの当時はクリーンエネルギー(CEと略す)市場が拡大していて入手性がよかったんだ」
3枚の細いブレードがまるでツリーのように上空へと伸びている。
並木通りの代わりに風力発電がずっとずっと東西南北を網の目のように続いていた。
「まるで別世界みたいですね」
「そりゃそうさ。なにせ立川の政府と東京は別の行政。高度な自治が約束されて互いに不干渉だからね」
わたしの読者さん。
あなたが何年後に読んでいるかわからないので22世紀の国際都市東京の”外側”について少し書いておこう。
旧日本国はずっと少子化問題に悩まされてきた。
それは80年前に日本連邦が誕生しても同じだった。
急激な少子化と人口減少は西東京の”ベッドタウン”を”ゴーストタウン”へと変えていった。
ゴーストタウンは放火、不法侵入、不法占拠、クマの侵入と繁殖、とにかく治安が著しく悪くなっていた。
特に真の社会主義を標榜する旧日本国はいろいろな政策を打ち立てたが、その政策が功を奏することはなく貧困層が急激に拡大していった。
例えばゴーストタウン対策として『コンクリートから農地へ』というキャンペーン活動をするくらいだ。
その政策の成否はともかく80年間の土壌改良の結果として東京24区の外側はほとんど田園風景となっていた。
さて、そんな旧日本国の政策に抵抗したのが東京23区だった。
グローバル企業の資金力にものを言わせて(人はそれを賄賂という)、”国際都市東京”という高度な自治を獲得した。
ざっくりとした東京史おわり。
わたしの読者さん。
お気づきのように東京は日本連邦と対話できないだけではない。
西東京の立川政府と東京24区の間でも対話ができていないのだ。
わたしはあの日、そんな複雑怪奇なもう一つの東京へと行ってきたのだ。




