総力戦
決勝当日。
球場へ到着した時点で、これまでの試合とは明らかに空気が違っていた。
入口へ続く通路には、まだ試合開始まで時間があるにもかかわらず多くの人が集まっている。
西東京大会決勝。
勝った学校が甲子園へ行く。
その一試合を見るために、両校の生徒だけではなく、高校野球ファンや報道関係者まで球場へ足を運んでいた。
バスを降りた九条が周囲を見回す。
「多いな」
黒崎も続いて降りる。
「準決勝よりおるんちゃう?」
「決勝だからね」
水城が答えた。
蒼凛の応援席へ向かう人の流れも、初戦とは比べものにならないほど大きくなっている。
制服姿の生徒や教師、保護者だけではない。野球部と直接関わったことのない生徒の姿もあった。
創部一年目。部員十一人、全員一年生。
そのチームが西東京大会の決勝まで勝ち上がったことで、蒼凛学園野球部の名前は学校の中だけではなく、
少しずつ外にも広まり始めている。
そして、その中心にいる人物へ向けられる視線も増えていた。
神代は荷物を肩に掛けたまま球場入口へ向かう。
少し離れた場所では、数人の記者がこちらを見ていた。
帝明戦で残した数字は、
9回2失点、12奪三振、最速152km/h。
そして打者としては逆転3ラン。
あの試合以降、神代怜司という名前はそれまでとは比較にならないほど知られるようになっていた。
隣を歩く九条が言う。
「めっちゃ見られてるぞ」
「誰が?」
「お前」
神代が周囲を確認する。
「そうみたいだな」
「気にならないの?」
「別に」
「だと思った」
九条はそれ以上言わなかった。
神代の視線はすでに球場の中へ向いている。今日見るべき相手は一校しかいない。
私立慶真高校。
西東京第1シード。
一昨日、杉野宮を5対1で破った優勝候補。
その相手に勝てば甲子園だった。
三塁側スタンドにも、すでに見慣れた顔があった。
桜庭、篠宮、千夏の三人は前の方の席を確保している。
桜庭はグラウンドへ出てきた蒼凛の選手たちを見渡すと、すぐに一人を見つけた。
「怜司くんいた!」
篠宮が隣を見る。
「今日も早いね」
「ずっと探してたからね」
「それなら早いに決まってるね」
千夏は後ろへ振り返り、蒼凛側の応援席を見た。
「今日は学校の人もかなり来てるよ」
初戦では空席の方が圧倒的に多かったスタンドに、今日はまとまった応援席ができている。
桜庭も周囲を見てから言った。
「本当に決勝なんだね」
「勝ったら甲子園だもんね」
篠宮がグラウンドを見る。
桜庭の視線はすぐ神代へ戻った。
「怜司くん、今日投げるのかな」
千夏が答える。
「昨日の家での夕飯の時に、水城くんが先発って聞いたよ」
「じゃあ怜司くん投げないの?」
「そこまでは聞いてないけどね」
桜庭は少し考えた後、再びグラウンドを見る。
「まあ勝てばいいか」
篠宮が笑う。
「本当に?」
「……できれば投げてほしいけど」
グラウンドでは、蒼凛の十一人がアップを始めていた。
水城と朝倉がキャッチボールをする一方、
神代は轟、九条、白石と一塁付近で送球を確認している。
黒崎はその少し後ろで身体を動かしていた。
一昨日の準決勝では8回を投げている。
肩に痛みはないが、今日は最初からマウンドへ上がるわけではない。
黒崎は水城の投球をしばらく見てから声をかけた。
「湊」
水城が振り返る。
「何?」
「初回から点取られんなよ」
「いきなりそれ?」
「俺に回ってくるまで試合作るんやろ?」
「昨日それ聞いた」
「大事やから二回言うてんねん」
水城は少し笑った。
「大雅はちゃんと休んどいてよ」
「そうさせてもらうわ」
黒崎はそう答えながら、軽く右肩を回した。
昨日までなら、決勝の先発を譲ることにもっと何か感じていたかもしれない。
背番号1を与えられ、準決勝では8回無失点。それでも今日は水城から始める。
自分には、その後の役割がある。
なら今はそれでいい。
試合開始が近づくと、両校の選手がベンチへ戻った。
榊原監督が十一人を集める。
「スタメンを確認する」
全員が監督を見る。
「一番ショート、九条。二番セカンド、白石。三番ファースト、神代。四番サード、轟。
五番ライト、御堂。六番キャッチャー、
朝倉。七番センター、鷹野。八番レフト、橘。そして九番ピッチャー、水城」
「はい」
水城が静かに答えた。
ベンチには黒崎と藤堂。
準決勝から先発投手だけを入れ替えた形だった。
黒崎が水城を見る。
「頼んだで」
「うん」
「軽いな」
「じゃあ何て言えばいいの?」
「絶対抑えますとか」
「それ大雅が言うやつでしょ」
九条が笑う。
「確かに」
「なんでや!」
榊原監督はそのやり取りを止めず、最後に神代を見る。
「昨日話した通りだ」
「はい」
「試合は予定通り進むとは限らない。継投も回は決めない。その時に一番勝てる形を使う」
「分かりました」
神代は短く答えた。
今はファースト。
投手として出るのは、その後だ。
いつになるのかは分からない。
そもそも予定通り自分まで繋がる保証もない。
だから今考える必要はなかった。
まずは九人で試合をする。
それだけだ。
試合前の攻守決めでは、両校の主将がホームベース付近で向かい合った。
蒼凛は神代。
慶真は柴崎。
一昨日、スタンドとグラウンドで一度だけ目が合っているが、近くで向かい合うのはこれが初めてだった。
柴崎が神代を見る。
「一昨日、見てたよな」
「はい」
「こっちも見てたから」
柴崎が僅かに笑う。
「知ってます」
攻守決めの結果、蒼凛は後攻となった。
柴崎が慶真ベンチへ戻る。
その視線の先にいるのは神代ではなく、
水城だった。
慶真側も蒼凛の投手起用はある程度予想していた。
水城。
黒崎。
そして神代。
順番までは分からないが、少なくとも神代が最初ではないことは確定した。
柴崎は仲間のところへ戻ると言った。
「最初は水城からだ」
四番の岩瀬がグラウンドを見る。
「神代じゃないんだな」
「そうみたいだ」
高瀬もマスクを手にしながら水城を見ている。
「でも最後まで出てこないとは思わない方がいい」
柴崎が頷いた。
帝明戦の映像は何度も見た。
最速152km/h。
一年生とは思えない完成度。
それでも無敵ではない。
帝明は二点を取っている。走者も出した。
今日の自分たちは、その帝明より弱いつもりはない。
「まず水城から取る」
柴崎が言った。
誰も異論はなかった。
やがて場内アナウンスが両校のスターティングメンバーを読み上げ始める。
蒼凛の選手の名前が呼ばれるたびに、三塁側から拍手と声援が上がった。
九条、白石、そして三番の神代。
神代の名前が呼ばれると、桜庭は当然のように一番大きく拍手した。
「三番なんだ」
篠宮が言う。
千夏が頷いた。
「準決勝も三番だったよ」
「じゃあもう固定なのかな」
「今の蒼凛では点を取りやすい並びなんじゃない?」
桜庭は難しいことには興味がないらしい。
「怜司くん打つかな」
「やっぱりそこなんだ」
やがて選手たちがグラウンドへ出た。
水城がマウンドへ向かい、朝倉がホームへ入る。
九条と白石が二遊間、轟が三塁、神代が一塁につき、御堂、鷹野、橘もそれぞれの外野守備位置へ散った。
そして、『西東京大会決勝』が始まった。
一回表。
水城はマウンド上で一度だけ大きく息を吐いた。
初戦とは違う。
あの時は公式戦というだけで、普段以上のことをやろうとしていた。
今日は相手が西東京第1シードで、勝てば甲子園という試合だ。
それでも、最初から全てを使う必要はない。
まず自分の投球をする。
そこから相手を見る。
朝倉が出した最初のサインに、水城が頷いた。
先頭打者への初球は外角のストレート。
見送られてストライクになると、二球目は少し間を長くした。
打者が僅かに構え直した瞬間に内角へ投げ込み、ファウルを取る。
ベンチから見ていた黒崎が言った。
「ええやん湊のやつ」
水城自身にも悪くない感覚があった。
今は初戦のような硬さはない。
追い込んでからも簡単には終わらず、先頭打者は何球か粘った末に低めのストレートをセンター前へ運んだ。
無死一塁。
黒崎の表情が僅かに変わる。
「しっかり打ってくるな」
神代は一塁へ戻りながら、慶真のベンチへ視線を向けた。
最初の打者から簡単には終わらない。
予想通りだった。
続く二番打者に対し、水城は一塁走者を警戒しながら投球までの間を変えた。
それでも慶真は迷わず送りバントを選択する。
一塁側へ転がされた打球を水城が前へ出て処理し、そのまま神代へ送って一アウト。
走者は二塁へ進んだ。
一昨日と同じだった。
走者を出し、必要ならアウト一つを使って進め、得点できる形を作る。
打席には三番の柴崎が入った。
朝倉がマスク越しにその構えを見る。
一昨日は外角の球を逆方向へ運んでいた。
無理に引っ張らず、その時に必要な打撃を選べる打者だった。
水城は初球までの間を長く取ったが、柴崎は動かない。
外角のストレートを見送ってボールになると、次は少しテンポを早めて内角へ投げ込み、ファウルを取った。
低めの変化球にも柴崎は手を出さない。
そして次のストレートだった。
柴崎は外寄りの球に逆らわず、センター方向へ弾き返した。
鷹野が素早く前へ出たが、打球はその前に落ちる。
二塁走者は迷わず三塁を回り、鷹野も捕球とほぼ同時にホームへ低く鋭い返球を送った。
朝倉のミットへボールが収まる。
僅かに、その前だった。
走者の手がホームへ触れる。
0対1。
慶真が先制した。
一塁側から大きな歓声が上がる。
慶真ベンチでも何人かが拳を握ったが、
柴崎自身は一塁上で大きく喜ばなかった。
やるべきことをやっただけ。
一昨日と同じだった。
水城も表情を変えない。
朝倉はマウンドへ行かず、ホームから一度だけ水城を見る。水城が小さく頷いた。
一点。
まだそれだけだった。
一アウト一塁で迎えるのは四番の岩瀬。
ここで長打まで繋がれば、慶真が一気に流れを作る。
朝倉と水城は最初の二球を外角へ集め、
岩瀬の反応を見た。
簡単には手を出してこないと判断すると、
三球目は内角へ攻める。
岩瀬が強く振り抜いた。
三塁線寄りへ飛んだ速いゴロに轟が反応し、身体を沈めて確実に捕球する。
そのまま二塁の白石へ送り、白石も素早く一塁の神代へ転送した。
ダブルプレー。
一つの打球で残り二つのアウトを取り、慶真の攻撃を一点で切った。
轟がグラブを叩く。
「よし」
水城はマウンドを降りながら小さく息を吐いた。
一点は取られた。
それでも後を続けさせなかった。
昨日、十一人で話したことがある。
一つ目をやられても、二つ目を続けさせない。
先頭打者を出し、送りバントを許し、柴崎には適時打まで打たれた。
それでも岩瀬まで続けさせなかった。
慶真の強みそのものを消すことはできなくても、繋がりを途中で切ることはできる。
ベンチへ戻った水城に黒崎が言った。
「さっそく先制されとるやん」
「一点だけね」
「俺ならゼロや」
「昨日も似たこと言ってたね」
「今日は投げるから説得力あるやろ」
「まだ投げてないけど」
「細かいな!」
ヘルメットを被った九条が二人を見る。
「一点なら返せばいいだろ」
「そういうことや」
黒崎が頷いた。
「お前が言うなよ」
九条はバットを持って打席へ向かった。
一回裏。
マウンドには久世が立っている。
一昨日は杉野宮を相手に6回1失点。
ストレート、カットボール、スライダー、
フォーク、カーブの五種類を高い水準で操り、打者が対応を変えれば自分も攻め方を変えていた慶真のエースだ。
九条は打席へ入る前に高瀬を一度だけ見てから、久世へ視線を移した。
初球の外角ストレートを見送り、二球目の内角へのカットボールにはバットを出したが、詰まらされてファウルになる。
一昨日見た通りだった。
ストレートだけに狙いを絞れば、別の球で崩される。
追い込まれた九条は低めの変化球を見極めると、続くストレートをセンター方向へ弾き返した。
打球が二遊間を抜ける。
センター前ヒット。
無死一塁。
三塁側スタンドが一気に沸いた。
九条は一塁へ到達すると、すぐに久世と高瀬を見る。
大きすぎないリード。
だが、いつでも行ける。
久世が二度牽制を入れても、その幅はほとんど変わらなかった。
二番の白石が左打席で投球を待つ。
久世がセットに入った直後、九条がスタートした。
高瀬もすぐに立ち上がり、二塁へ強い送球を送る。
柴崎がベースカバーに入ったが、九条の足が僅かに早く二塁へ届いた。
「セーフ!」
無死二塁。
蒼凛ベンチから声が上がる。
九条の武器は単純な足の速さだけではない。
投手を見る。
捕手を見る。
相手の動きを読み、自分で行ける瞬間を判断する。
久世と高瀬を相手にしても、それは変わらなかった。
白石は二塁の九条を一度だけ確認すると、
自分がヒットを打つことだけに意識を向けなかった。
内角の球を引っ張り、一、二塁間へゴロを転がす。
セカンドが処理して白石は一塁でアウトになったものの、その間に九条は三塁へ進んだ。
一アウト三塁。
白石はベンチへ戻る途中で神代とすれ違う。
「頼んだ」
「分かった」
三番、神代。
場内の空気が僅かに変わった。
帝明戦以降、神代が打席へ入る時の反応は明らかに大きくなっている。
スタンドでは桜庭が身を乗り出した。
「怜司くん!」
神代はマウンドの久世だけを見る。
神代は投手としてだけではない。
帝明戦では八回に逆転3ランを放っている。
高瀬がサインを出した。
久世は初球、内角へカットボールを投げ込んでストライクを取る。
続くカーブは外角低めへ外れ、三球目のフォークにも神代のバットは動かなかった。
2ボール1ストライク。
久世が一度ロージンバッグへ触れる。
変化球を続けても、簡単には反応しない。
四球目は外角へのストレートだった。
神代が振り抜く。
乾いた打球音とともに、打球はセンター前へ抜けていった。
三塁の九条がホームへ返る。
1対1。
蒼凛がすぐに追いついた。
神代は一塁へ到達しても、特別な反応を見せない。
ただ一本打っただけ。
だが慶真側には、その程度の打者ではないことが分かっている。
そして四番の轟が打席へ向かった。
「剛士、一本いったれ!」
ベンチから黒崎が声を飛ばす。
轟は振り返らず、久世の投球だけを見る。
一アウト一塁。
初球のスライダーは外へ外れた。
二球目の内角ストレートには振り遅れず、ファウルにする。
三球目のカーブでタイミングを外されかけたが、轟はバットを止めた。
久世が高瀬のサインを見る。
四球目。
外角寄りのストレートが僅かに甘く入った。
轟が振り抜く。
打球は右中間へ鋭く伸び、追ってきたセンターとライトの間を抜けていった。
神代は打球を確認すると一気に加速する。
二塁を回り、三塁も迷わず蹴った。
慶真の外野から中継へ返球が入り、さらにホームへボールが返ってくる。
しかし神代はその送球より僅かに早く滑り込んだ。
「セーフ!」
2対1。
蒼凛が逆転した。
轟も二塁へ到達し、小さく拳を握る。
蒼凛側のスタンドがさらに大きく沸いた。
「ナイス剛士!」
黒崎が立ち上がる。
轟はベンチへ一度だけ視線を向けた。
「まだ一点だ」
「分かっとるわ!」
ホームへ返ってきた神代を九条が迎える。
「三塁で止まると思った」
「まあ、行けたから」
「それだけ?」
「ああ」
九条が少し笑う。
「お前、投げるだけじゃなくて足もあるんだよな」
「知ってるだろ」
「知ってるけど改めて思った」
一アウト二塁。
まだ得点圏に走者が残っている。
五番の御堂も内角中心の投球に対して無理に引っ張らず、右方向へ強い打球を放った。
しかしライトの正面へ飛び、轟も二塁から進めない。
二アウト。
六番の朝倉が打席へ向かう。
朝倉は入る前に高瀬を一度だけ見た。
一昨日、自分が最も長く観察していた相手。
高瀬も朝倉を見る。
視線が一瞬だけ合った。
朝倉はすぐ久世へ向き直った。
追い込まれてから何球か粘ったが、最後は低めへ落ちるフォークに空振り三振。
三アウト。
それでも蒼凛は初回から久世を攻め、二点を奪った。
一回終了。
慶真 1
蒼凛学園 2
慶真は水城から、出塁、送りバント、柴崎の適時打と自分たちの形で先制した。
蒼凛も九条が出塁すると自ら盗塁を決め、
白石が走者を進め、神代が還す。
さらに轟の長打と神代の走塁で逆転した。
どちらも一つの長所だけで点を取ったわけではない。
慶真が自分たちの野球を繋げたように、
蒼凛もそれぞれの武器を繋げて得点した。
ベンチへ戻った久世が、高瀬と短く言葉を交わす。
その横で柴崎がスコアボードを見ていた。
まだ一回。
一点差。
慶真の選手たちにも焦りはなかった。
それは神代も同じだった。
簡単に終わる相手ではないことは、昨日から分かっている。
水城が再びマウンドへ向かう。
その後を追うように、八人もそれぞれの守備位置へ散っていった。
決勝は、まだ始まったばかりだった。
甲子園まで、残り八回。




