話し合い
準決勝の翌日。
蒼凛学園のグラウンドには、いつものような激しい声は響いていなかった。
決勝は明日。
三笠戦で8回を投げた黒崎は、キャッチボールすら軽めに抑えている。
水城も昨日の最終回を投げているため、
ブルペンには入らず身体を動かす程度だった。
野手も打ち込みの量は普段より少ない。
榊原監督が最初に決めたことだった。
「今日は強くなる日じゃない」
十一人が監督を見る。
「明日、一番いい状態でグラウンドに立つための日だ。追い込む必要はない」
黒崎が右肩を回した。
「昨日投げたからですか?」
「お前は特にな」
「全然投げられますけど」
「知ってる。だが投げるな」
即答され、黒崎が口を閉じる。
九条が横から笑った。
「昨日も同じようなやり取りしてなかった?」
「昨日は試合中やろ!」
「今日は練習中だけど、内容は同じだね」
「俺の肩は元気や言うてんねん」
水城が横を見る。
「元気なら明日まで取っておけば?」
「お前まで監督みたいなこと言うなや」
「普通のこと言っただけだけど」
黒崎は不満そうな顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。
以前なら、もっと投げたがったかもしれない。
だが明日も試合がある。
しかも最後の一試合。
そこまで分かっていて、無理に今日投げる理由はなかった。
軽いアップと守備確認を終えると、十一人は室内へ移動した。
ホワイトボードの前に榊原監督が立つ。
その横には、昨日の慶真対杉野宮のスコアが書かれていた。
5対1。
久世が6回1失点。
片桐が3回無失点。
数字だけなら、それほど異常な試合ではない。
それでも十一人の中に、慶真を簡単な相手だと思っている者はいなかった。
榊原監督がホワイトボードへペンを置く。
「昨日見たことを踏まえて意見を出せ」
誰もすぐには話さなかった。
監督は神代を見ない。
神代も何も言わない。
最初に口を開いたのは朝倉だった。
「高瀬さんです」
何人かの視線が集まる。
「久世さんもすごいですけど、昨日見てて一番気になったのは高瀬さんでした」
榊原監督が頷く。
「続けろ」
「杉野宮の打者が一打席目から待ち方を変えた時、それに合わせて二打席目の配球も変えてました」
朝倉は昨日の配球を思い出していた。
一打席目でカーブを簡単に見送った打者。
二打席目では、そのカーブをストライクゾーンへ入れてきた。
見送れば取られる球に変わっていた。
「多分、打者が何を待ってるかをかなり見てます。最初に決めた配球をそのまま続けてる感じじゃないです」
「昨日、湊が言ってた二番の打席も同じです」
水城が頷く。
白石が聞く。
「じゃあ、最初の打席で見せた反応も利用されるってこと?」
「うん」
朝倉が答える。
「だから、一打席目で分かったことをそのまま次に持っていくだけだと危ないと思う」
九条が腕を組む。
「こっちが変えたら、向こうも変えるってことか」
「多分ね」
神代は黙って聞いていた。
朝倉の見方は自分とほとんど同じだった。
だから付け加える必要はない。
次に水城が口を開いた。
「僕は片桐さんも気になるかな」
黒崎が隣を見る。
「久世さんちゃうん?」
「久世さんはみんな見てたでしょ」
「そらそうやけど」
「片桐さんは、右打者に内角のストレートを意識させてからチェンジアップを使ってた」
水城が机の上で左手を軽く動かす。
「球速だけなら久世さんより下。でも右打者からすると、あの角度で内角に入ってくる球があるから外の遅い球も遠く感じると思う」
御堂が頷いた。
「確かに打ちにくそうだった」
「久世さんを早めに降ろせても、そこで終わりじゃないと思う」
水城が言った。
黒崎も少し考えてから口を開く。
「俺は投げるほうから見とったけどな」
九条が横を見る。
「投げるほう?」
「五種類も持っとったら、一球ごとに選ばなあかんやろ。普通はどこかで迷いが出る」
黒崎はホワイトボードを見る。
「でも久世さん、迷って投げた球が一球もなかった」
「全部そこそこじゃなくて、全部いい」
水城が補足する。
黒崎が頷いた。
「せや。せやから待つ球決めても、それ以外で普通にアウト取られる」
以前なら、相手投手を評価する時もどこかで自分と比べていた。
自分の方が速い。
自分ならもっと三振を取れる。
だが今日は違う。
目の前にいる投手が、どうすれば打ちにくいのか。
そこだけを見ている。
「どっちが出てきても面倒やな」
黒崎が言った。
九条が横を見る。
「素直だな」
「昨日から何回それ言うねん」
「最近ちょっと素直だから」
「前からや!」
「それは違う」
昨日と同じ返しに何人かが笑った。
榊原監督はそのまま話を進める。
「それで、打線はどう見る?」
今度は九条が手を上げた。
「俺、一回の攻撃が一番嫌でした」
ホワイトボードに書かれている最初の一点を見る。
ヒット。
盗塁。
進塁打。
犠牲フライ。
「一本しかヒット打ってないのに、一点入ったからね」
白石も続ける。
「六回も似てた。四球から送って、九番が返して、その後も追加点」
「長打打たれなきゃいいってチームじゃないよな」
九条が言った。
「先頭出した時点で、一つの出塁を一点まで持っていく方法が、向こうにはいくつもある」
榊原監督が白石を見る。
「他にはどうだ?」
「走塁ですかね」
白石ではなく、今度は鷹野が答えた。
「昨日、かなりスタート早かったです」
鷹野は一回の犠牲フライを思い出している。
深い打球ではなかった。
それでも三塁走者は迷わなかった。
「打球見てから考えてる感じじゃないです。
最初から自分がどこまで行けるか分かってる気がします」
橘も頷く。
「外野からしたら嫌だな。ちょっと処理遅れただけで次の塁行かれそう」
藤堂が静かに続けた。
「アウト一つを取っても安心できませんね」
全員が藤堂を見る。
「送りバントや進塁打なら、こちらはアウトを取っています。でも慶真にとっては、それ自体が攻撃の一部になっています」
「確かに」
白石が頷く。
「一アウト取ったのに相手の狙い通り、ってこともあるのか」
「はい。ですから、アウトの数だけで状況を判断すると危ないと思います」
神代は藤堂を見る。
それも昨日、自分が感じていたことの一つだった。
そして四番の岩瀬の存在も大きい。
轟が口を開いた。
「外だけ投げても駄目だと思う」
黒崎が見る。
「昨日2本とも右中間やったもんな」
「ああ」
岩瀬は追い込まれても崩れなかった。
外角へ逃げるように投げても、無理に引っ張らない。
自分の力をそのまま逆方向へ伝えていた。
「力はある。でも、それだけじゃない」
轟が言った。
「打者として完成してる」
短い言葉だった。
だが轟が他の打者をそう評価するのは珍しかった。
御堂も頷く。
「追い込んだから有利って感じもしなかった」
神代はそれを聞きながら柴崎を思い出す。
主将のショートで三番を任せられている選手。
派手な長打はなかった。
それでも一回には犠牲フライで先制点を作り、その後は自分が走者となって二度ホームへ返っている。
さらに守備でも、杉野宮が流れを作りかけたところで併殺を完成させた。
神代が口を開いた。
「それなら柴崎さんも同じだと思う」
全員が神代を見る。
今日、神代が自分から話したのは初めてだった。
「何が?」
九条が聞く。
「一つだけ突出してる感じじゃない。でも、必要なことをほとんど失敗しない」
昨日、柴崎と視線が合った。
帝明戦の自分を研究していた男。
神代も同じように柴崎を見ていた。
「状況に合わせてやることを変えられる。
それが一番厄介かもしれない」
榊原監督はそこで神代を見る。
「他は?」
「大体みんなと同じです」
少し間が空いた。
黒崎が眉を上げる。
「それだけなんか?」
「ああ」
「もっとなんかあるやろ。お前は怜司やぞ?」
「大雅は俺を何だと思ってるんだ」
「なんでも分かるやつやろ」
「分からないこともある」
「あるんや」
九条が笑った。
「そこに驚くのかよ」
神代はホワイトボードを見る。
朝倉が見た高瀬。
水城と黒崎が見た投手陣。
九条と白石が見た得点の作り方。
鷹野が見た走塁。
藤堂が見たアウトの使い方。
轟と御堂が見た岩瀬。
同じ試合を見た。
だが全員が同じ場所を見ていたわけではない。
むしろその方がいい。
一人では見落とすものもある。
神代はいつからか、そう考えるようになっていた。
榊原監督がホワイトボードへ大きく一本線を引いた。
「じゃあ、どうする」
今度は全員が考える。
弱点。
昨日から探している。
久世の球種を絞る。
高瀬の配球を読む。
岩瀬を避ける。
柴崎を出さない。
走者を止める。
どれも間違いではない。
だが、それだけで勝てるようには思えない。
神代が口を開いた。
「全部止めようとしなくていいと思います」
九条が見る。
「どういうこと?」
「慶真は一つ一つを繋げて点を取ってる」
神代は一回の得点経過を見る。
「先頭が出ることはある。盗塁されることもある。岩瀬さんにヒットを打たれることもある」
黒崎が聞く。
「それでええん?」
「よくはない。でも、全部をゼロにしようとすると選択肢が減る」
神代は続ける。
「一つ目をやられても、二つ目を続けさせなければいい」
水城が少し考える。
「走者を出しても、次へ進ませない」
「それもある」
「進まれても返さない」
朝倉が続けた。
神代が頷く。
「そう」
慶真には明確な穴がない。
なら、穴を探してそこだけを攻め続ける試合にはできない。
相手が一つ成功した後。
その次。
さらにその次。
そこで切る。
九条がホワイトボードを見る。
「向こうの得意な流れを繋げさせないってことか」
「多分、それが一番現実的だと思う」
「多分なんだ」
「まだ試合してないからな」
「そこは慎重なんだな」
榊原監督は十一人の話を聞き終えると、ホワイトボードの前へ立った。
「よし、これで大体見えてきたな」
そして話題を変える。
「次はこっちの投手陣だ」
黒崎の表情が少し変わった。
水城も監督を見る。
神代は黙ったまま待つ。
榊原監督は三人を順番に見た。
「まず明日の先発は水城」
黒崎が僅かに動いた。
「湊ですか」
「ああ」
「理由、聞いてええですか?」
以前のような不満をぶつける声ではなかった。
榊原監督もすぐに答える。
「慶真は攻撃の形を作るのが上手い。まず水城で、その形に入るタイミングをずらしたい」
水城は相手に合わせて投球の間を変える。
セットに入るまでの時間。
視線。
呼吸。
足を上げるタイミング。
速い球で押し込む投手ではない。
だが、打者が気持ちよく自分の間で打つことを許さない。
「水城」
「はい」
「最初から全部使おうとするなよ」
初戦のことだった。
水城が少し笑う。
「分かってます」
「まず自分の投球をしろ。相手が変えたら、お前も変えろ」
「はい」
榊原監督は次に黒崎を見る。
「黒崎は中盤から行く」
黒崎はすぐに頷かなかった。
背番号1を与えられた。
昨日は準決勝で8回無失点。
決勝の先発を考えていなかったわけではない。
少しだけ間を置く。
「分かりました」
九条が横を見る。
黒崎は続けた。
「湊の次、俺が抑えたらええんですよね?」
「そういうことだ」
「なら大丈夫です」
水城が横を見る。
「随分余裕だね」
「昨日8回無失点やぞ?」
「また言ってる」
「事実やろ!」
「明日は昨日と相手違うよ」
「分かっとるわ!」
いつものやり取り。
だが黒崎は先発ではないことに食い下がらなかった。
榊原監督が最後に神代を見る。
「神代」
「はい」
「お前は終盤に残す」
「分かりました」
黒崎が神代を見る。
「何回からですか?」
「そこは決めない」
榊原監督が答えた。
「試合を見て決める」
神代もそれでいいと思っていた。
水城が最初に投げる。
黒崎が繋ぐ。
その後。
必要になったところで、自分が行く。
以前なら最初から自分が投げた方が勝率が高いと考えたかもしれない。
今でも、自分の能力だけを見ればそう思っている。
だが九回全てを神代一人で取る必要はない。
十一人で勝つ。
そのために三人の投手がいる。
ミーティングを終えると、十一人はもう一度グラウンドへ戻った。
午後はさらに軽い調整だった。
水城は朝倉を相手に短いブルペンへ入る。
投げる球数は少ない。
基本となるテンポ。
少し長い間。
逆に早い投球。
その度に朝倉と確認する。
黒崎はブルペンへ入らず、ネット越しにその投球を見ていた。
「湊」
「何?」
「四回くらいまで絶対試合作れよ」
水城が投球を止める。
「四回って決まってないけど」
「だいたいや!」
「勝手に決めないでよ」
「俺が投げる時に負けとったら嫌やねん」
「じゃあちゃんと準備しといて」
「言われんでもするっての!」
朝倉がマスク越しに笑った。
少し離れた場所では、神代が一人で肩を作っていた。
強くは投げない。
フォームを確認する程度。
何球か投げたところで、水城がブルペンから出てくる。
「神代くん」
「何?」
「僕に何かある?」
神代は水城を見る。
「何が?」
「明日の慶真戦について」
水城は少し笑った。
「いつもなら色々言うかなと思って」
神代は少し考える。
以前なら相手打者の狙い。
走者を出した時の配球。
柴崎や岩瀬への攻め方。
自分が考えたものを全部伝えていたかもしれない。
だが昨日、水城も自分で見た。
今日も自分で考えた。
朝倉とも話している。
「今は特にないな」
「本当に?」
「ああ」
水城が意外そうに神代を見る。
「昨日、自分で見てただろ」
「見てたけど」
「じゃあ、それでいいんじゃないか?」
水城は少し黙った。
「随分任せるようになったね」
神代が首を傾げる。
「駄目なのか?」
「いや」
水城は笑った。
「悪くないと思う」
少し離れたところから黒崎が声を飛ばす。
「湊! 休憩終わりやぞ!」
「監督じゃないんだから」
「明日先発なんやからちゃんとやれ!」
「大雅も明日投げるでしょ」
「俺はもうできとんねん!」
「今日何も投げてないのに?」
「心の準備の話や!」
二人の声を聞きながら、神代はもう一球投げた。
ブルペンから移動してきていた朝倉が、その球を受ける。
「どう?」
朝倉が聞いた。
「普通」
「明日もそれでいい?」
「『今はな』」
「今は?」
神代はボールを受け取る。
「『試合になったら変わるかもしれない』」
朝倉はそれ以上聞かなかった。
神代もまだ何も決めていない。
慶真がどう来るか。
試合がどう進むか。
水城と黒崎がどう抑えるか。
それを見てからでいい。
練習はいつもより早く終わった。
片付けを済ませ、十一人がグラウンドの外へ向かう。
誰も特別なことは言わなかった。
明日勝てば甲子園。
その事実は全員が知っている。
だからこそ、今さら声にする必要もなかった。
水城が最初にマウンドへ立つ。
黒崎がその後を受け取る。
最後に神代が残っている。
打線も九人で久世と片桐に向かう。
誰か一人が慶真を倒すわけではない。
十一人で九回を取る。
神代は最後に一度だけグラウンドを振り返った。
決勝まで、あと一日。




