目醒めの刻
七回裏、スコアは0対0のまま、
先頭の四番・轟が右打席へ入った。
秋月との対戦はこれが三度目になる。
一打席目は縦のスライダーに空振り三振、
二打席目は何とかバットに当てたもののサードゴロ。
二度とも最後まで秋月の球を捉え切れていなかった。
六回まで秋月が許した安打は、御堂と神代の二本だけ。
九条には四球を与えているものの、走者を出しても一人もホームへ返していない。
轟はマウンドを見ながらバットを構えた。
前日の練習で考えたことがある。
落ちてから打とうとしたら遅い。
だが、実際に秋月の球を二打席見て、
それだけでも足りないことが分かった。
映像で見るより落ち始めるのが遅く、
打者の近くまでストレートに見える。
だからこそ、最後まで変化を確認してからでは間に合わない。
秋月が投じた最初のストレートを轟は見送った。
球威も十分にあり、簡単に変化球だけを待てる投手ではない。
続いて来た球は途中まで同じような軌道を通ったが、ホームベースの手前で鋭く沈んでいく。
縦のスライダー。
轟はバットを出さなかった。
一打席目なら反応していたかもしれない。
次の外角へのストレートには轟も反応し、
打球は一塁側のスタンドへファウルになった。
これで追い込まれた。
それでも、二打席目までとは違う。
ストレートも見えている。
縦のスライダーが落ち始める位置も、少しずつ分かってきた。
秋月がセットに入り、右腕を振る。
放たれた球は、これまで轟が空振りしてきた縦のスライダーより僅かに高い軌道で入ってきた。
まだ落ちていない。
だが、この先で落ちる。
轟はそこまで見てから判断したわけではなかった。
落ちるのを待たず、自分が最も強く振れる高さにあるうちにバットを出した。
芯で捉えた金属音が球場に響く。
轟の打球は左中間へ高く伸びた。
三笠のレフトとセンターが同時に下がりながら打球を追う。
フェンス際まで到達しても、白球は落ちてこない。
そしてそのまま二人の頭上を越え、スタンドへ飛び込んだ。
一瞬遅れて、蒼凛側のスタンドから大きな歓声が上がる。
桜庭が立ち上がって手を叩いた。
「入った!」
篠宮も打球が消えた方向を見たままだった。
「轟くん……」
千夏はスコアボードの数字が変わるのを見ている。
「やっと一点だね」
轟は打球が入ったのを確認すると、右拳を強く握った。
「よし!」
六回まで一度も動かなかったスコアが、
ようやく変わった。
1対0。
轟が一塁、二塁と回り、三塁へ近づく。
三塁コーチャーに入っていた藤堂が笑って手を叩いた。
「轟くん。ナイスバッティングです!」
轟も少し笑う。
「ありがとう、岳!」
そしてそのまま三塁を回り、ホームを踏んだ。
蒼凛のベンチでは九条が真っ先に轟の肩を叩いた。
「やっと打ったな!」
「うるさい」
「だって二打席やられてたじゃん」
「だから三打席目で打ったんだじゃねえか」
白石や朝倉も笑いながら轟を迎える。
その少し後ろに神代がいた。
轟が神代を見る。
「怜司、今の打席どうだった?」
神代は少し考えてから答えた。
「四番にふさわしいバッティングだった」
「そうか、やっとか」
「俺でもまだまともに捉えてないからな」
轟の口元が僅かに上がる。
「じゃあ俺の勝ちだな」
「ああ、今の打席はな」
「そこは普通に認めろよ」
神代も僅かに笑った。
自分も秋月からヒットを打った。
だが、その安打は得点にはならなかった。
轟は二度抑えられた後、自分で球を見て、
自分で考え、一振りで試合を動かした。
神代が答えを教えたわけではない。
それでいい。
試合はまだ続く。
五番の御堂が左打席へ入ったが、秋月はホームランを打たれても大きく崩れなかった。
御堂にはストレートを意識させたところから縦のスライダーを使い、空振り三振。
続く朝倉も低めの変化球を打たされ、セカンドゴロに倒れた。
二アウトとなって鷹野がストレートをセンター方向へ弾き返したものの、打球はセンターの守備範囲に収まった。
三アウト。
秋月が七回に許したのは、轟の一発だけだった。
それでも試合は1対0。
まだ勝ちを確信するにら至らない点差であった。
ベンチへ戻ってきた黒崎が轟の肩を強く叩く。
「よう打ったで剛士!」
「痛ぇよ」
「一点あったら十分や!」
そう言いながら、黒崎はすぐに自分のグラブを取った。
当初の予定では黒崎は七回までで、八回から水城へ繋ぐことになっていた。
だが黒崎はここまで被安打3、四球1の無失点。
ストレートの球威もスライダーの切れも落ちていない。
榊原監督は朝倉を見る。
「朝倉、黒崎はどうだ?」
「まだいけると思います」
榊原監督はそれを聞いてから黒崎へ視線を移した。
「黒崎」
「はい」
「そのまま行ってこい」
黒崎の表情がすぐに明るくなる。
「はい!」
水城はベンチに戻ると、自分のグラブを置いた。
黒崎が横を見る。
「悪いな、湊」
「別に。大雅が抑えてるなら、その方がいいよ」
「九回も俺でええねんけどな」
「それは監督が決めることでしょ」
「せやな」
黒崎は笑いながら八回のマウンドへ向かった。
三笠の打順は七番から。
一点を追う三笠に残された攻撃は、あと二回だった。
先頭の七番は早いカウントから黒崎のストレートを狙ったが、振り切った打球はレフト方向へのフライとなり、橘が落ち着いて捕球した。
一アウト。
八番打者は簡単には終わらず、ストレートを何度もファウルにして粘った。
だが黒崎は力でねじ伏せようとはしない。
外角のストレートを見せた後、同じ腕の振りからスライダーを低めへ逃がす。
打者のバットは届かなかった。
空振り三振。
これで二アウト。
続く九番にはスライダーを意識させながらストレートで押し込み、最後は低めの球をショートへ打たせた。
九条が正面で捕球し、一塁の神代へ送る。
三アウト。
黒崎は八回も三者凡退で終えた。
8回を投げて無失点。
被安打3、四球1。
三笠打線は、まだ一人もホームを踏めていない。
ベンチへ戻る黒崎を神代が迎える。
「大雅、あと一回だな」
「せや。最後まで俺は行くで!」
「決めるのは監督だけどな」
「おい怜司、冷めること言うなや!」
神代は少し笑った。
八回裏、蒼凛の攻撃は八番の橘から始まる。
秋月にとっても、この回を一点差のまま終えれば味方の最後の攻撃に望みを繋げられる。
橘は追い込まれながらも縦のスライダーへ食らいつき、低めへ沈み切る前の球にバットを合わせた。
打球は三遊間へ転がる。
サードが追ったが届かず、レフト前へ抜けた。
無死一塁。
追加点の走者が出る。
打席には九番の黒崎。
榊原監督から送りバントのサインが出た。
黒崎は一度だけベンチを見る。
九条がその顔を見て笑う。
「大雅、打ちたいの顔に出てるぞ」
「ええやんけ!」
文句を言いながらも、黒崎はきちんとバントの構えに入った。
秋月の球を一塁側へ転がし、一塁手が前へ出て処理する。
黒崎は一塁でアウトになったが、橘は二塁へ進んだ。
一アウト二塁。
黒崎がベンチへ戻ると、水城が声をかける。
「ナイスバント」
「普通に打ちたかったわ」
「でも成功したじゃん」
「それはそうやけど」
打順は一番へ戻る。
九条が打席に入った。
ここで一本出れば2対0。
だが秋月も粘る。
九条は低めのスライダーを見極めながら何球も食らいついたが、最後は強いストレートに振り遅れて空振り三振。
二アウト二塁。
白石も秋月の球へ粘り強く対応したものの、最後はストライクゾーンから鋭く沈む縦のスライダーにバットが空を切った。
三アウト。
追加点は入らない。
秋月は八回を投げ、失点は轟のソロホームランによる一点だけ。
蒼凛が放った安打も、御堂、神代、轟、橘の4本。
負けている投手の内容とは思えないほど、
最後まで好調だった。
それでもスコアは1対0。
三笠に残された攻撃は、九回表だけとなった。
黒崎が当然のようにグラブを手に取る。
だが、ベンチを出る前に榊原監督が呼び止めた。
「黒崎」
「はい」
「ここまでだ」
黒崎の動きが止まる。
「……まだ行けますけど?」
「たしかに好調なのは見ててわかる」
榊原監督はすぐに答えた。
「だが球数も来てるだろ」
一度言葉を切る。
「決勝まで間はない。お前を次に投げられる状態で残しておきたい」
そして黒崎を見た。
「最後は水城に決めてもらう」
黒崎は黙った。
球威はまだ残っている。
制球も崩れていない。
ここまで8回無失点。
完封まで、あとアウト三つ。
投手なら投げたい。
背番号1をつけているなら、なおさらだった。
「次もある」
榊原監督の言葉に、黒崎は僅かに視線を落とした。
準決勝を勝つことだけが目的ではない。
甲子園へ行く。
そして、その先でも勝つ。
自分の完封より、チームとして次の一勝を取りに行く方が大事だということは、
黒崎にも分かっていた。
少しだけ間を置いてから、黒崎は水城に声をかけた。
「湊」
ブルペンからベンチへ戻っていた水城が近づく。
「何?」
黒崎はボールを差し出した。
「絶対返されんなよ」
「分かってる」
「俺の勝ち消したら許さんからな」
水城が少し笑う。
「やっぱりそこなんだ」
「そこも大事やろ!」
「はいはい」
水城が頷く。
黒崎は少しだけ表情を変えた。
「……頼むでほんま」
今度は水城も茶化さなかった。
「うん、任せて」
九回表。
背番号10の水城がマウンドへ向かう。
三笠の打順は一番から。
あと三つアウトを取れば、蒼凛は決勝進出。
一点を失えば同点。
水城はマウンドで軽く息を吐くと、朝倉のサインを見る。
最初から無理に投球間隔を変えることはしない。
まず自分の基準となるテンポで投げる。
しかし先頭の一番打者は簡単には終わらなかった。
何球かファウルで粘った後、外角寄りのストレートをセンター方向へ弾き返す。
鷹野が前へ走ったが、打球はその手前に落ちた。
センター前ヒット。
無死一塁。
三笠側の応援が一気に大きくなる。
ベンチでは黒崎が最前列まで出ていた。
「湊!」
藤堂が横から黒崎を見る。
「無死一塁やぞ!」
水城は一塁走者を確認したが、表情は変わらない。
二番打者はバントの構えを見せた。
一点差の九回。
三笠としては当然、同点の走者を得点圏へ進めたい。
水城も無理に阻止しようとはしなかった。
一塁側へ転がった打球に神代が前進し、
捕球すると一塁のカバーへ入った白石へ送る。
打者走者はアウト。
その間に一塁走者が二塁へ進み、
一アウト二塁となった。
一打同点。
三番打者が打席へ入る。
水城は先ほどまでと同じ間では投げなかった。
走者を一度確認してから少し長く持ち、打者が構え直したところへストレートを投げ込む。
ファウル。
次は逆にテンポを早めた。
その変化に打者のタイミングが僅かにずれ、打球はセカンド方向へのゴロになる。
白石が正面で捕球し、そのまま一塁へ送った。
二アウト。
ただし、その間に二塁走者は三塁へ進んでいる。
二アウト三塁。
最後まで一点差。
打席には四番。
二回には黒崎からセンター前ヒットを放っている、三笠打線の中でも最も警戒するべき打者だった。
三笠側の応援は、この試合で一番大きくなっていた。
蒼凛のベンチでは黒崎が立ったままグラウンドを見ている。
轟も九条も水城へ声をかけない。
神代は一塁からマウンドを見る。
ここで自分が伝えることはない。
水城と朝倉が考える。
朝倉がサインを出した。
水城は頷いた。
外角へ外れる球を一つ見せた後、今度は少し早いテンポからストレートを投じる。
四番打者が振る。
ファウル。
水城は返球を受け取ると、一度プレートを外して三塁ランナーを確認した。
再びセットに入る。
今度は、先ほどより長く持った。
打者が僅かに重心を動かす。
水城はその瞬間に投げる。
四番打者が振り抜いた。
金属音が響く。
打球はセンター方向へ高く上がった。
三笠側のスタンドから大きな声が上がり、
三塁走者も一歩ホーム方向へ出る。
鷹野が落下点へ走った。
前へ数歩。
そこから僅かに左へ寄る。
最後は余裕を持ってグラブを上げた。
白球が収まる。
三アウト。
「ゲームセット!」
球審の声が響いた。
蒼凛のベンチから選手たちが一斉に飛び出した。
水城はマウンド上で一度だけ大きく息を吐き、センターの鷹野は捕ったボールを持ったまま笑っている。
そして黒崎が、誰よりも大きな声を上げた。
「よっしゃあ!」
三塁側のスタンドでは桜庭が両手を上げていた。
「勝った!」
篠宮も笑っている。
「次は決勝だね」
千夏が小さく息を吐いた。
「うん。あと一つ」
整列を終えてベンチへ戻る途中、水城が黒崎を見る。
「勝ち消さなかったよ」
「当たり前や!」
「ありがとうは?」
黒崎が一瞬黙る。
「……ありがとな」
「素直だね」
「お前それ好きやな!」
九条が横で笑った。
スコアボードには、最後まで一点差の数字が残っていた。
私立三笠 0 0 0 0 0 0 0 0 0|0
蒼凛学園 0 0 0 0 0 0 1 0 x|1
決勝点は七回裏、轟のソロホームラン。
黒崎は8回を投げて無失点。
被安打3、四球1、10奪三振。
最後の一回は水城が一安打を許しながらも無失点で締めた。
三笠のエース秋月も8回1失点。
蒼凛打線を4安打に抑えながら、轟の一振りだけに敗れた。
神代はスコアボードを見上げる。
準々決勝では、自分が9回を投げた。
逆転の3ランも自分が打った。
でも今日は違う。
神代自身も秋月から一本打ったが、得点には繋がっていない。
試合を動かしたのは轟。
8回までゼロを並べたのは黒崎。
最後の一点を守り切ったのは水城。
自分が試合を決めなくても勝った。
それは初戦でも経験している。
だが、相手は準決勝まで勝ち上がってきた三笠高校だった。
神代はグラウンドにいる仲間を見る。
ここにいる十一人で甲子園を目指す。
最初からそう決めていたはずだった。
それでも今、その意味は入学した頃より少し違って見える。
創部一年目。
一年生十一人。
西東京大会、5勝0敗。
決勝進出。
甲子園まで、あと1勝。
だが、その相手はまだ決まっていない。
ベンチの前で、榊原監督が十一人を集めた。
「このあと、もう一つの準決勝がある」
黒崎がすぐに反応する。
「もしかして見て帰るんですか?」
「ああ。スタンドから全員で見るぞ」
榊原監督はそれだけ言って歩き出した。
神代は組み合わせ表を思い出す。
私立慶真高校。
決勝で当たる可能性が最も高い学校だった。
もちろん、まだ一度も戦ったことがない。
十一人はグラウンドを出て、三塁側のスタンドへ向かう。
次の試合は、自分たちが戦うためのものではない。
それでも、そこで決勝の相手が決まる。




