エースへ託す
完全休養日の翌朝、蒼凛学園のグラウンドに十一人が戻ってきた。
準決勝まで、あと一日。
神代は全体練習には参加していたが、投球練習に入る予定はなかった。
帝明戦で9回を投げてから二日が経っている。強い痛みはないものの右肩にはまだ疲労が残っており、榊原監督からも今日は軽いキャッチボールまでに抑えるよう言われていた。
右肩をゆっくり回している神代を見て、黒崎が近づいてくる。
「ほんまに投げへんの?」
「ああ、投げない」
「昨日も何もしてへんねやろ?」
「休養日だからな」
「二日も投げへんかったら気持ち悪ない?」
横で聞いていた水城が笑う。
「大雅は休む方が練習より難しそうだね」
「ちゃんと休めるわ!」
「じゃあ昨日何してたの?」
黒崎は一瞬だけ黙った。
「……ちょっと走った」
「それ休んでないじゃん」
「軽くやって!」
いつも通りのやり取りを聞きながら、神代は肩の状態を確かめる。
以前なら、身体が動くなら少しでも多く練習した方がいいと考えていたかもしれない。
だが今は、今日投げることより、次に必要になった時に万全に近い状態で投げられることの方が重要だと理解している。
全体練習が始まる前、榊原監督は十一人を部室へ集めた。
前方のモニターには、準決勝で対戦する
私立三笠高校の試合映像が映し出されている。
三笠高校には昔、甲子園出場経験がある。
近年は全国大会から遠ざかっているものの、西東京では毎年のように上位へ進出しており、安定して強いチームを作り続けていた。
そして今年、その中心にいるのが三年生右腕のエース、『秋月航平』だった。
榊原監督が映像を再生する。
秋月の右腕から放たれた球は、途中までストレートとほとんど変わらない軌道で打者へ向かう。
打者がスイングを始めた直後、白球は鋭く縦へ沈み、バットの下を通過した。
映像が切り替わる。
次の打者は途中でスイングを止めようとしたが間に合わず、再びバットが空を切った。
轟が腕を組んだまま画面を見る。
「かなり落ちるな」
九条も頷いた。
「これ、分かってても振りそうだな」
昨日のうちに、神代は映像のリンクを全員へ送っていた。
水城が神代を見る。
「昨日も神代くんが同じこと言ってた」
「もう見てたんだよね?」
「ああ」
黒崎が振り返る。
「休養日ちゃうんか」
「映像を見ただけだ」
「それ休んどるん?」
「身体は動かしてない」
「そういう問題か?」
神代は答えず、再び画面へ視線を戻した。
秋月がストレートを投げ、その直後に縦のスライダーを投げる。
球種は違うが、リリースまでの腕の振りには大きな差が見えない。
白石が尋ねる。
「低めを全部捨てるのは?」
神代は首を振った。
「多分、それだけだと難しいな」
「なんで?」
「ストライクを取る時にも使ってるからだ」
榊原監督が別の映像を流した。
秋月のスライダーはストライクゾーンの低めへ向かい、そこから僅かに沈んだ。
打者はボールになると判断したのかバットを出さなかったが、判定はストライク。
続く球も途中までは似た高さを通る。
しかし今度はそこからさらに深く沈み、反応した打者のバットが白球の上を通過した。
朝倉が画面を見ながら言う。
「同じ球でも使い方が違うんだ」
「そうみたいだ」
神代が答える。
「ボールになる球だけなら捨てればいい。
でもストライクにも入れてくるから厄介だな」
九条が聞く。
「じゃあ攻略法は?」
「それはまだ分からない」
その返事に、何人かが神代を見る。
黒崎も少し眉を上げた。
「お前がか?」
「実際に打席に立ってないからな」
「映像だけじゃ分からへんってことか」
「そういうことだ」
神代はモニターを指す。
「映像なら何回でも見直せる。でも打席では、その球を見るのは一回だけだ。それに、こっちがスライダーを意識してると分かれば三笠も配球を変える」
白石が頷く。
「なるほど、ストレートが増えるかもしれないね」
「そしてその逆もある」
神代は続ける。
「だから、最初から答えを決めない方がいい」
それは六月から何度も繰り返してきた考え方だった。
前の打者が得た情報は共有する。
ただし、その情報を次の打者の答えにはしない。
相手も試合の中で変わる以上、自分たちもそれに合わせて判断を変えなければならない。
九条が少し笑う。
「結局、打席で見るしかないってことか」
「そうなるな」
神代はもう一度モニターを見た。
「ただ、見るだけで一打席使うと後がない」
白石が顔を上げる。
「一試合で三回か四回しか回ってこないもんな」
「そうだ」
黒崎が腕を組む。
「見極めもせんと初球から振れってことか?」
「打てる球なら振る」
「その球がこーへんかったら?」
「それはその時に考える」
黒崎が息を吐いた。
「お前が言うと簡単そうに聞こえるんが腹立つわ」
九条が笑う。
「でもたぶん本人は簡単だと思ってないぞ」
神代は否定しなかった。
榊原監督が映像を止めた。
「おまえら、エースの秋月だけを見すぎるなよ」
十一人の視線が監督へ戻る。
「三笠が毎年上位に残っている理由はエース一人じゃない。守備で大きく崩れないし、
無理な走塁も少ない。派手ではないが、相手がミスをすれば確実にそこを取ってくる」
黒崎の表情から笑みが消える。
大会に入ってから、蒼凛も何度か厳しい試合を経験してきた。
都立柏木戦では相手に研究され、最後まで2対1の接戦だった。
帝明戦では神代が投げても七回まで0対2。
八回に逆転できなければ、そのまま夏が終わっていた可能性もある。
四試合を勝った今なら分かる。
強い相手だから何か特別なことが起こるわけではない。
自分たちが一つ崩れれば、そこから試合を失う。
榊原監督が机の上の資料を閉じた。
「それと、明日の先発を伝える」
黒崎が誰よりも早く顔を上げる。
「黒崎」
「はい」
「お前に任せる」
黒崎は間を置かずに答えた。
「わかりました」
それだけだった。
九条が横を見る。
「案外静かだな」
「何が?」
「二回戦の時はもっと嬉しそうだっただろ」
「準決勝やぞ」
「二回戦は準決勝じゃなかったもんな」
「当たり前やろ!」
そこで少しだけ、いつもの黒崎に戻った。
榊原監督が続ける。
「今のところ、七回までを考えている」
黒崎が監督を見る。
「七回?」
「八回から水城を入れる予定だ」
水城は静かに頷いた。
「はい」
黒崎はすぐには何も言わなかった。
二回戦の頃なら、最後まで投げたいと言っていたかもしれない。
背番号1。
エース。
完投。
今でも、その全てに対する思いが消えたわけではない。
だが榊原監督は続ける。
「もちろん試合展開次第で変える。お前が崩れれば早く代えるし、球数と状態次第では七回より先まで行かせる可能性もある」
「はい」
「今のところ神代を投げさせる予定はない」
今度は何人かが神代を見る。
神代自身は特に表情を変えなかった。
黒崎が隣から聞く。
「ほんまに投げへんのやな」
「大雅が抑えれば必要ないだろ」
「おっ、言うたな」
「言ったな」
黒崎の口元が上がる。
「ほな、絶対投げさせへん」
水城が横を見る。
「僕も投げる予定なんだけど」
「お前はええねん」
「何その扱い」
「湊は八回から抑えたらええやろ」
「大雅が七回まで0で来たらね」
「行ったるわ!」
「じゃあ僕も0で行くよ」
黒崎は水城を見ると、少しだけ笑った。
「頼むで」
水城が一瞬だけ目を丸くする。
「素直だね」
「そこで茶化すなや!」
部室に笑いが起きた。
その後、十一人はグラウンドへ出た。
野手陣は秋月を想定した打撃練習に入る。
投げるのはピッチングマシンだった。
黒崎は明日の先発、水城も八回からの登板が決まっている。
そもそも、縦に鋭く落ちるスライダーを完全に再現できる投手は蒼凛にいない。
榊原監督がマシンの落差を何度か変えていく。
それでも、秋月の球そのものにはならない。
だから、似た変化球だけを打ち続けるような練習にはしなかった。
低い球を無理に追わない。
ストレートを待ちながら、変化球にも反応できる準備をする。
そして何より、実際の打席で球筋を見る。
それぞれが自分なりの方法で準備を進めていく。
轟は何度か打席に入り、低めの変化球を見送った後、少し高く入った球を強く振り抜いた。
打球は勢いよく左中間へ飛んでいく。
打席を出た轟に、後ろから神代が声をかける。
「剛士、今のはどうだった?」
「低い球を追わないようにした」
「それだけ?」
轟は少し考えた。
「落ちてから打とうとしたら遅い気がする」
神代は黙って続きを待つ。
「だから、打つならもっと前かな」
「なるほど。そうかもな」
轟が振り返る。
「そうかも?」
「秋月さんの球を実際に見てないから、今はなんとも言えない」
轟は少し笑った。
「じゃあ明日、自分で見る」
「そうしてくれ」
神代はそれ以上何も言わなかった。
答えを渡す必要はない。
轟自身が考え始めている。
それならそれでいい。
その頃、少し離れたブルペンでは黒崎と朝倉が準備に入っていた。
黒崎がストレートを投げると、乾いた音とともに朝倉のミットへ収まる。
続けて外角へ投げた球も大きく外れず、朝倉は捕球したボールを返しながら頷いた。
「いいね大雅」
黒崎も頷き、今度はスライダーを投げる。
ストレートに近い腕の振りから放たれた球が、外角低めへ曲がりながら沈んだ。
「今の分かりにくかった」
「ほんまか?」
「うん。ストレートとほとんど変わらなかった」
黒崎は同じ球をもう一度投げたが、今度は少し早い段階から変化が始まった。
朝倉が返球する。
「これは分かったかな」
「身体の使い方か?」
「うん。少し開いたね」
黒崎は返ってきたボールを受け取り、一度だけ自分の足元を見る。
以前なら、ここで神代を探していたかもしれない。
何が違ったのか。
どう直せばいいのか。
聞けば、おそらく答えは返ってくる。
だが黒崎は神代を見なかった。
「蓮、もう一球や」
「オッケー」
二球続けてストレートを投げた後、黒崎は同じ腕の振りからスライダーを投じた。
今度は途中まで真っすぐ進んだ球が最後に小さく曲がり、朝倉のミットが低い位置で鳴る。
朝倉が立ち上がった。
「今のはかなり良かった」
黒崎が小さく笑う。
「よっしゃ!」
ブルペンの後ろで見ていた水城が言った。
「今日は球速、あんまり聞いて来ないんだね」
黒崎が振り返る。
「気にはなっとるわ!」
「昨日から神代くんの152km/hの記事ばっかりだったから、もっと力入れて投げるかと思った」
「せやからなんや?」
「大雅なら意識するかなって」
黒崎はボールを握ったまま、少しだけ黙った。
帝明戦で神代が記録した152km/h。
自分より明らかに速い。
しかも、神代はその球を試合の途中まで使わなかった。
悔しくないわけがない。
黒崎も投手だ。
いつか神代より速い球を投げたいし、神代よりいい投手になりたい。
その気持ちは入学した時から何も変わっていない。
「そりゃ出したいで」
黒崎が言う。
「152キロ?」
「いいや。あれより速いのや」
水城が少し笑った。
「やっぱりね」
「でも、それは明日やることちゃうやろ」
黒崎はそう言ってマウンドへ向き直る。
「速い球投げる大会やないしな」
そしてストレートを投げると、再び朝倉のミットが鳴った。
黒崎は返球を受け取りながら続ける。
「アウト取る大会や」
次のスライダーも狙ったところへ収まった。
「怜司が152キロ出したからって、俺まで152キロ出す必要ないやろ」
「そうだね」
水城が答える。
「大雅が三笠を抑えれば、それでいいもんね」
「せや」
黒崎が笑った。
「俺は俺の球で抑えたんねん」
その言葉を、少し離れた場所まで来ていた神代も聞いていた。
打撃練習を終え、たまたまブルペンの近くを通ったところだった。
黒崎と目が合う。
「なんや怜司?」
「別に」
「なんか言いたそうにしとるやん」
神代は少し考えてから答える。
「今のスライダー、いいと思う」
黒崎は一瞬黙った後、少し笑った。
「お前に言われんでも分かっとるわ」
「ならいい」
「腹立つな、その言い方」
神代がそのままブルペンを離れようとすると、黒崎が呼び止めた。
「怜司」
神代が振り返る。
「何?」
「明日、お前は打つ方だけやっとけ」
「そのつもりだけど」
「マウンドは俺に任せろ」
神代は黒崎を見る。
入学した時から、自分を超えると言い続けている投手。
二回戦では相手にスライダーを捨てられ、途中で対応に苦しんだ。
それでも、最後には朝倉と自分で答えを見つけて立て直した。
今ではもう、困るたびに神代へ答えを求めることもない。
「分かった」
神代が答える。
黒崎は少し眉を寄せた。
「それだけ?」
「じゃあ何て言えばいい?」
「まあええわ」
神代は僅かに笑う。
「頼むぞ、大雅」
黒崎の表情が止まった。
神代からそう言われるとは思っていなかったのか、一瞬だけ返事が遅れる。
やがてボールを握り直し、いつもの笑みを浮かべた。
「任せとけや」
その日の練習は長く続かなかった。
準決勝前日。
身体を追い込むための日ではない。
確認し、整え、明日の試合へ残す。
練習を終えた黒崎はユニフォームを手に取り、その背中にある数字へ目を向けた。
背番号を発表された日の嬉しさは、今でもはっきり覚えている。
だが明日は、その番号を背負っているだけでは意味がない。
準々決勝では神代が前年代表の帝明を倒した。
9回2失点、12奪三振、自己最速152km/h。
さらに八回には逆転3ラン。
誰が見ても、神代怜司が中心だった試合。
だが準決勝は違う。
神代は投げない。
水城がマウンドへ上がるのも、予定では八回から。
最初の七回を任されたのは黒崎だった。
グラウンドへ視線を向け、黒崎が小さく言う。
「やったるで」
準決勝。
相手は私立三笠高校。
そして、三年生エースの秋月航平。
甲子園まで、あと2勝。
その試合で最初にマウンドへ立つのは、蒼凛学園の背番号1だった。




