知名度
準々決勝の翌朝。
神代のスマートフォンに、九条から一つのリンクが送られてきた。
高校野球専門のネットメディアだった。
大会が始まってから、蒼凛について記事を見るのはこれで三度目だ。
見出しは、これまでとは明らかに違っている。
『創部1年目・蒼凛学園が前年代表撃破
1年生主将・神代怜司が152km/h、12奪三振&逆転3ラン』
神代はベッドの上で記事を開いた。
『西東京大会準々決勝で、創部一年目の蒼凛学園が前年代表・帝明学園を3対2で破り、
ベスト4進出を決めた。
最大の注目を集めたのは、今大会初登板となった一年生主将・神代怜司だ。
神代は帝明打線を相手に9回を投げ、被安打6、四球0、12奪三振、2失点で完投。
さらに0対2で迎えた八回には、帝明の二年生右腕・真壁駿から右中間へ逆転3ランを放ち、投打で勝利の中心となった。
だが、最も興味深いのは152km/hという数字そのものではない。
試合序盤、神代のストレートは140km/h台前半が中心だった。
大きく曲がるカーブとチェンジアップを組み合わせ、前年代表の強力打線を抑えていた。
だが六回裏の一アウト二、三塁で四番・香坂遼を迎えると投球が一変。
150km/hを記録した直後、球場表示で152km/h。
さらに最後は、ストレートと似た軌道から鋭く落ちるスプリットとみられる球で空振り三振を奪った。
最初から152km/hを投げられなかったのか。
それとも、必要になるまで使わなかったのか。
現時点では判断できない。
ただ一つ確かなのは、152km/hの速球だけが神代怜司の武器ではないということだ。
制球、緩急、複数の変化球。
そして打者としても、試合を決める一打を放った。
創部一年目。
部員はわずか十一人で全員が一年生。
大会前にはほとんど知られていなかった新設校が、前年代表を倒して西東京のベスト4まで来た。
甲子園まで、あと2勝。
蒼凛学園と、その中心にいる一年生主将から目が離せない』
神代は最後まで読むと、画面を閉じかけた。
その前に、記事の下に表示されているコメント数が目に入る。
これまでの記事とは比較にならないほど増えていた。
神代は数件だけ読む。
『公式戦初登板で前年代表相手に12奪三振ってどういうこと?』
『152km/hより四球0の方が怖い』
『しかも3番打って逆転ホームラン。投手なのか野手なのか分からん』
『帝明の四番にホームラン打たれてから抑えてるのもすごい』
『蒼凛って背番号1も140キロ台後半投げる
1年なんだろ? 投手陣どうなってるんだ』
そこまでは野球の話だった。
少し下へ進む。
『神代くん、普通に顔もかっこよくない?』
『試合の写真見たけど背高いしスタイルいい』
『高校野球詳しくないけど蒼凛の3番気になる』
『マウンドでほとんど表情変わらないの好き』
『彼女いるのかな』
『次の試合、神代くん見に行きたい』
神代はそこで画面を閉じた。
野球とは関係がない。
それ以上読む理由もなかった。
同じ頃。
桜庭も同じ記事を開いていた。
記事本文はすでに二度読んでいる。
152km/h。
12奪三振。
逆転3ラン。
昨日、球場で全て見ていた。
それでも文章になって並ぶと、改めてすごいことをしたのだと分かる。
問題は、その下だった。
桜庭の指が止まる。
『神代くん、普通に顔もかっこよくない?』
『マウンドでほとんど表情変わらないの好き』
『彼女いるのかな』
桜庭の眉が僅かに動いた。
「……野球の記事なのに」
もう一度スクロールする。
『次の試合、神代くん見に行きたい』
「試合を見に行けばいいじゃん」
誰もいない部屋で一人で言った。
その直後。
『野球分からないけど顔見に行くだけでもいいかも』
指が止まる。
「……何、この人」
記事を閉じた。
数秒後。
また開いた。
そして同じコメントを見る。
しばらくして、桜庭は別の画面を開いた。
神代とのメッセージだ。
昨日の帰りに、準決勝まで中二日空くことは聞いている。
榊原監督は、9回を投げた神代だけではなく、野手も含めて翌日を完全休養日にしていた。
桜庭が文字を打つ。
『今日、休みなんだよね?』
返事はすぐに来た。
『うん』
『何か予定ある?』
少し間が空いた。
『ない』
桜庭は一度入力した文章を消した。
もう一度打つ。
『じゃあ、お昼一緒に食べない?』
今度の返事は早かった。
『いいよ』
桜庭は画面を見たまま、少しだけ笑った。
昼過ぎ。
二人は駅の近くで待ち合わせた。
神代はいつも通りだった。
昨日9回を投げたとは思えないほど普通に歩いている。
桜庭が横から見る。
「身体、大丈夫?」
「少し疲れてるけど大丈夫」
「昨日あんなに投げてたのに?」
「今日は投げないから」
「そういう問題なのかな」
神代は少し考えた。
「多分」
「多分なんだ」
桜庭が笑う。
二人は近くの店に入り、昼食を取った。
大げさな場所ではない。
食事を終えれば、そのまま帰ってもいいくらいの短い外出だった。
ただ、桜庭にとっては二人だけで食事をすること自体が初めてだった。
だが神代はそこまで特別なことだとは考えていないようだった。
料理を待っている途中、桜庭が聞く。
「今日の記事見た?」
「見た」
「全部?」
「一通りは」
桜庭の動きが止まる。
「コメントは?」
「少しだけ」
「……どこまで見た?」
「野球の話じゃないのが増えたところまで」
桜庭は神代を見る。
「気にならないの?」
「何が?」
「その……かっこいいとか」
「知らない人に言われてもよく分からない」
神代は水を飲む。
「野球と関係ないし」
桜庭は少しだけ口元を緩めた。
「彼女いるのかなって書いてた人もいたよ」
「いないけど?」
即答だった。
桜庭の表情が僅かに明るくなる。
神代は気づかない。
「そういうコメント、そんなに気になる?」
「別に」
「じゃあなんで覚えてるの?」
「……もういい」
神代が少し首を傾げる。
「最近またそれ言われるな」
桜庭は笑った。
食事を終えた後も、二人はすぐには帰らなかった。
駅へ真っすぐ戻らず、近くの遊歩道をゆっくり歩く。
夏の日差しは強い。
それでも昨日の球場とは違い、急ぐ必要はなかった。
桜庭が聞く。
「昨日、怖くなかった?」
神代が横を見る。
「何が?」
「六回のピンチの場面のこと」
一アウト二、三塁。
前の打席でホームランを打たれている香坂。
さらに一点を失えば0対3になる場面だった。
神代は少し考える。
「怖いとは思わなかったな」
「やっぱり」
「でも、あそこで点を取られたらかなり厳しくなるとは思ってた」
「それって緊張とは違うの?」
神代はすぐには答えなかった。
歩きながら考える。
「多分、違う」
「どう違うの?」
「緊張してたら、もっと自分のことを考えると思う」
桜庭は黙って聞く。
「昨日は、どうすれば香坂さんを抑えられるかしか考えてなかった」
「152km/hも?」
「あそこなら使った方がいいと思ったから」
「じゃあ最初から出せたんだ」
「ああ」
桜庭が足を止めかける。
「やっぱりそうなんだ」
「何が?」
「記事に書いてあったから。最初から投げられなかったのか、使わなかったのかって」
神代は前を見る。
「使う必要がなかっただけ」
「152km/hなのに?」
「速い球を投げれば絶対抑えられるわけじゃないだろ」
桜庭には、その答えの全ては分からない。
それでも神代が何を考えていたのかは、少しずつ分かってきた。
また歩き出す。
しばらくして、神代の方から口を開いた。
「昨日、帝明の三年が泣いてた」
桜庭が見る。
「うん」
「香坂さんにも言われた」
「甲子園に行けって?」
「そう」
桜庭は昨日、遠くから二人が話しているところを見ていた。
「怜司くん、何て答えたの?」
「もちろんですって」
桜庭が笑う。
「そこはちゃんと敬語なんだ」
「年上だから」
「そういうところはちゃんとしてるんだね」
「普通だろ」
神代は少し間を置いた。
「でも、昨日は少し変な感じだった」
「何が?」
「負けたら終わるってこと」
桜庭は言葉を挟まない。
「知ってはいた。大会が始まる前から分かってたし、俺たちも一回負けたら終わる」
「うん」
「でも、帝明は去年甲子園に行って、今年も行くつもりだった」
神代は前を見たまま続ける。
「それが昨日で終わった」
桜庭は相槌だけを返した。
「香坂さんに甲子園へ行けって言われて、
宗方さんたちが泣いてるのを見てたら、
負けるって結果だけじゃないんだなって思った」
「結果だけじゃない?」
「三年間やってきたものも、そこで終わる」
昨日、朝倉に話した時よりも言葉が増えていた。
神代自身も、それに気づいていた。
桜庭は答えを出そうとしない。
「そっか」
それだけだった。
神代は少し黙った。
不思議と話しにくくはなかった。
桜庭が聞く。
「私、野球のこと詳しくないから、こういう話されても聞いてるくらいしかできないけど」
「それでいいよ」
桜庭が神代を見る。
「いいの?」
「ああ」
「何か答え欲しくて話してるんじゃないの?」
神代は少し考える。
「違うと思う」
「じゃあ、なんで話してるの?」
また少し考えた。
「話してると整理できるからかな」
桜庭は数秒何も言わなかった。
それから小さく笑う。
「じゃあこれからも聞くね」
「うん」
二人はそのまま歩いた。
話題は自然に次の試合へ移る。
もう一つの準々決勝も、昨日のうちに終わっている。
準決勝の相手は『私立三笠高校』
昔は甲子園出場経験もある私立の強豪。
近年は甲子園から遠ざかっているが、西東京大会では毎年のように上位へ残っている。
その中心が、三年生の右腕エース・秋月航平だった。
「もう調べたの?」
桜庭が聞く。
「少しだけ」
「昨日試合だったのに?」
「帰ってから映像を見た」
「休む気ある?」
「今日は休んでる」
「今、三笠の話してるけど」
「考えるだけなら休めるだろ」
桜庭が笑った。
「怜司くんらしいね」
神代は秋月の投球を思い出す。
「縦に落ちるスライダーがかなりいい」
「スライダーって横に曲がるんじゃないの?」
「横に曲がるものもある。でも秋月さんのはかなり縦に落ちる」
神代は右手で僅かに軌道を作る。
「ストレートに見えるところから落ちるから、判断が遅れる」
「怜司くんなら打てる?」
神代はすぐには答えなかった。
「簡単ではないと思う」
桜庭が少し驚く。
「怜司くんでも?」
「ああ」
「珍しいね」
「何が?」
「怜司くんが打てないかもって言うの」
神代は首を振る。
「打てないとは言ってない」
「やっぱり」
桜庭が笑う。
神代も僅かに口元を緩めた。
「でも、三笠は強い」
「帝明より?」
「種類が違う」
「そっか」
それ以上、桜庭は野球について深く聞かなかった。
神代が話せば聞く。
止まれば、別の話をする。
それだけだった。
やがて駅が見えてくる。
準決勝まで、あと二日。
明日からまた練習が始まる。
別れる前、桜庭が神代を見る。
「次も応援行くから」
「うん」
「勝ってね」
神代は少しだけ考えた。
帝明戦の前なら、何も考えずに答えていたかもしれない。
相手も勝つために来る。
三年生なら、負ければそこで終わる。
それを昨日知った。
それでも答えは変わらない。
「勝つよ」
桜庭が笑った。
「うん」
二人はそこで別れた。
神代は一人になってから、少しだけ振り返る。
桜庭はもう反対方向へ歩いていた。
勝つための練習をしたわけではない。
三笠の分析が進んだわけでもない。
ただ食事をして、歩いて、考えていることを話した。
以前の神代なら、その時間に意味を求めていたかもしれない。
しかし今は、無駄だったとは思わなかった。
明日グラウンドへ戻れば、準決勝の準備が始まる。
相手は私立三笠高校。
そして、縦に落ちるスライダーを武器にする三年生右腕。
次はまた、昨日とは全く違う戦いが待っていた。




