昨年の王者
一学期最後の日。
体育館には蒼凛学園の全校生徒が集まっていた。
入学式から三か月ほど。
神代たち一年生にとって、高校生活で最初の一学期が終わろうとしている。
壇上では校長が夏休み中の生活について話していた。
神代は列の中で前を向きながら聞いている。
隣には九条、その少し先には朝倉や黒崎たちの姿もあった。
長かった話が終わりに近づいたところで、
校長が手元の紙へ視線を落とした。
「最後に、部活動について一つお知らせがあります」
体育館に座る生徒たちの間で僅かに空気が変わる。
「本校野球部が、現在行われている夏の西東京大会で三試合を勝ち抜き、準々決勝進出を決めました」
拍手が起こった。
最初はまばらだった音が、体育館全体へ広がっていく。
黒崎が僅かに胸を張った。
九条が横から見る。
「大雅、嬉しそうだな」
「そら嬉しいやろ」
「やっぱりな」
「顔見たら分かるみたいな言い方すんなや」
少し離れたところで水城が振り返る。
「ちゃんと顔に出てるよ」
「湊まで言うな!」
周囲から小さな笑いが起きる。
校長の話は続いていた。
「創部一年目、部員十一人全員が一年生というチームです。次の相手は、昨年の西東京代表として甲子園に出場した帝明学園と聞いています」
今度は拍手だけではなかった。
「帝明とやるの?」
「去年甲子園出てたところだよな?」
そんな声が体育館のあちこちから聞こえてくる。
神代は僅かに周囲を見る。
初戦の前とは明らかに違った。
あの時も、野球部が夏の大会へ出ることを知っている生徒はいた。
それでも、実際に試合を見に来たのは桜庭たちを含めても僅かだった。
しかし今は違う。
三つ勝った。
ベスト8まで来た。
そして次は前年の西東京代表。
それだけで、これまで野球部を気にしていなかった生徒まで話題にし始めている。
終業式が終わり、教室へ戻る途中でも同じだった。
廊下を歩いていた神代に、別のクラスの男子生徒が声をかける。
「神代」
神代が止まる。
ほとんど話したことのない相手だった。
「次、帝明なんだろ?」
「ああ」
「去年甲子園行ったところだよな。勝てそう?」
神代は少し考えた。
「勝つつもりだけど」
「いや、そうじゃなくて……」
後ろにいた九条が笑った。
「こいつに聞いたらそうなるって」
男子生徒も苦笑する。
「次、見に行こうかな。友達も行くって言ってるし」
「来れば?」
神代が普通に返す。
「軽いな」
「見るかどうかは俺が決めることじゃないだろ」
「まあそうだけど」
男子生徒が去った後、九条が神代を見る。
「増えそうだな」
「何が?」
「応援」
神代は廊下を見渡した。
野球部の話をしている声がいくつか聞こえる。
「そうみたいだな」
教室へ戻ると、そこでも空気は似ていた。
桜庭が自分のクラスから神代のところへ来る。
「怜司くん、次の試合、学校でも結構見に行く人いるみたいだよ」
「さっきも言われた」
「もう?」
「ああ」
篠宮も近くから会話に入る。
「昨日までは野球部のこと詳しく知らなかった人まで話してるよ」
「三回勝ったから?」
「それもあるけど、次が帝明だからじゃない?」
桜庭が頷く。
「去年甲子園出てるんでしょ?」
「らしいね」
篠宮が答えた。
神代は席へ座る。
「去年出たかどうかは、次の試合には直接関係ないけど」
「またそういうこと言う」
篠宮が呆れたように見る。
「選手も変わってるし、今の状態で考えないと意味ないだろ」
「言ってることは分かるけど、普通は『甲子園に出た強豪と戦う』ってだけで気になるの」
桜庭も続く。
「私もいつもより緊張する」
「なんで桜庭が?」
「応援するから!」
「応援する人も緊張するの?」
「するよ!」
神代にはよく分からなかった。
篠宮が神代を見る。
「野球部って、神代くんが主将なんだよね」
「そうだけど」
「意外だった」
「なんで?」
「そういうの、やりたがらない人だと思ってたから」
「やりたいかどうかで決めた話じゃない」
篠宮が小さく笑う。
「ほら、そういうところ」
その時、少し離れた席で水城がスマートフォンを見ながら声を上げた。
「ねえ、また記事に出てるよ」
黒崎がすぐに反応する。
「俺載ってるんか?」
「そこから?」
水城の周りへ何人かが集まった。
以前も蒼凛を取り上げた、高校野球専門のネットメディアだった。
記事の見出しにはこうある。
『創部1年目の新鋭・蒼凛学園、前年代表の帝明学園に挑む 西東京準々決勝の注目カード』
黒崎が画面を覗き込む。
「注目カードやって」
「嬉しそうだね」
水城が言う。
「そらそうやろ」
記事には、準々決勝へ進んだ両校について書かれていた。
『帝明学園。前年の西東京大会を制し、
甲子園へ出場。上級生を中心に投打とも選手層が厚い。
今大会も自慢の打力で得点を積み重ねて勝ち上がっている。
対する蒼凛学園は創部一年目。
登録選手はたったの十一人。
しかも全員が一年生。
初戦を8対1、二回戦を9対2と二試合連続で七回コールド勝ちし、三回戦では都立柏木との接戦を2対1で制してベスト8へ進出した。』
水城が記事を下へ送る。
「前より僕たちのこと詳しくなってるね」
神代も自分のスマートフォンで同じ記事を開いた。
前の記事では、水城と黒崎が中心だった。
初戦を完投した左腕。
二回戦で8奪三振を記録した背番号1の右腕。
その二人が蒼凛の投手陣として紹介されていた。
だが今回は違った。
『柏木戦では、主将を務める神代怜司が七回に同点の適時二塁打。八回には朝倉蓮の適時打で勝ち越し、投手陣だけではなく接戦での勝負強さも見せた』
黒崎が神代の画面を見る。
「怜司も名前出とるやん」
「ああ」
「嬉しくないん?」
「別に」
「なんでやねん」
水城が笑う。
「大雅と反応が逆すぎるね」
そして水城が画面へ視線を戻す。
「主将って書かれてるね」
「事実だから仕方ない」
神代が答える。
「ただ、こういうものは一つずつ増えていく」
神代は記事の続きを読んだ。
そこには自分について、もう一つ書かれている。
『また、背番号3の神代は投手としても登録されているが、今大会ではここまで一度も登板していない。準々決勝で投手起用があるのかも注目される』
神代の指が止まった。
水城が横から画面を見る。
「そこまで見てるんだね」
「そうみたいだな」
二回戦終了時点の記事では、ほとんど触れられていなかった。
三試合勝ったことで、登録選手や起用法まで調べられ始めている。
黒崎も記事を見る。
「でも怜司がどれくらい投げるかまでは分からんやろ」
「今はな」
神代が答える。
「次に投げれば分かる」
黒崎が少し黙った。
水城が聞く。
「隠しておきたい?」
「全部は見せない方がいい」
神代はすぐに答えた。
「でも次は勝つために必要な分は使う」
「帝明相手でも?」
「ああ」
記事の最後には試合展望があった。
『総合力と経験では前年代表の帝明学園が優位と見るのが妥当だろう。一方、創部一年目の蒼凛が三試合で見せた戦いぶりは、新設校という言葉だけでは片付けられない。若いチームが前年代表を相手にどこまで食い下がれるか注目したい』
黒崎の眉が動いた。
「どこまで食い下がれるかやと?」
嫌そうな声だった。
水城が笑う。
「絶対そこ引っかかると思った」
「なんやねん、この書き方」
「普通だよ。向こうは去年甲子園行ってるんだから」
「俺らも行くんやから一緒やろ」
水城が首を傾げる。
「まだ行ってないよ」
「行く予定の話や!」
「それなら全国の高校が言えるんじゃない?」
「なんやお前今日めっちゃ腹立つな!」
周囲のクラスメイトが笑う。
以前なら、野球部員同士の会話を気にする者はほとんどいなかった。
今は何人もこちらを見ている。
記事を自分のスマートフォンで開いている生徒もいた。
「本当に次見に行こうかな」
「帝明戦なら面白そう」
「神代、ピッチャーもやるの?」
そんな声まで聞こえる。
桜庭が少し不満そうに周囲を見る。
「急にみんな怜司くんのこと気にし始めてる」
篠宮が笑う。
「何、その言い方」
「だって今までそんなに知らなかったじゃん」
「野球部が勝ってるんだから普通でしょ」
「そうだけど」
神代が二人を見る。
「何の話?」
「怜司くんは気にしなくていい」
「そう?」
「うん」
神代はそれ以上聞かなかった。
午後。
校内には夏休みに入る前の空気が広がっていた。
荷物を持って帰る生徒。
友人同士で予定を話す声。
部活動へ向かう生徒。
その中で、野球部の十一人だけはいつも通りグラウンドへ集まっていた。
一学期が終わったことより、次の試合の方が重要なことだった。
部室では榊原監督が帝明の資料を机へ置いた。
「さっきの記事、見たやつもいるだろ」
黒崎がすぐに答える。
「見ました」
「内容は間違ってない」
榊原監督は資料を開く。
「帝明は去年の代表。今年も戦力は高い。投手は一人じゃない。継投もできる。守備も大きく崩れない。打線に関しては西東京でナンバーワンだ」
十一人の表情が変わる。
これまでの三校とは違う。
名前だけではない。
実際に、それだけの戦力がある。
「ここまでと同じ感覚で入るなよ」
榊原監督が続ける。
「向こうもお前たちを調べる。先日の柏木より情報を持っていると思っておけ」
九条が神代を見る。
「今日の記事も読むだろうな」
「多分な」
「怜司が投げるかもしれないってのも?」
「ああ」
黒崎が腕を組む。
「でも実際投げるってとこまでは知らんはずや」
榊原監督が黒崎を見る。
「だからといって、それを当てにするな。
神代が投げると予想して準備してくる可能性もあるからな」
黒崎が頷いた。
「はい」
榊原監督は神代へ視線を向ける。
「予定通り、お前が先発だ」
「はい」
「どこまで使うかは試合を見て決める」
「分かりました」
榊原監督が資料を閉じる。
「それと神代。学校が準々決勝で応援のバスを出すか検討してる。人数を把握したいそうだ」
「分かりました。まとめておきます」
九条が横から言う。
「そういうのも主将の仕事なんだな」
「誰かがやることだろ」
黒崎が笑った。
「怜司が言うと当たり前に聞こえるんが腹立つわ」
榊原監督が立ち上がる。
「以上だ。始めろ」
十一人が一斉に部室を出た。
グラウンドへ向かう途中、黒崎が神代の横へ並ぶ。
「怜司」
「何?」
「昨日は俺やって言うたけどな」
「ああ」
「今日は言わへん」
神代が黒崎を見る。
「なんで?」
「相手が去年の代表やからや」
黒崎はそれだけ言って前を向いた。
「一番勝てる方でええ」
少し間を置いてから付け足す。
「そのかわり、次に呼ばれた時は俺が行く」
「分かった」
黒崎が舌打ちする。
「そこは『頼む』って言うとこやろ」
「頼む」
「今言われても遅いわ!」
その後、練習が始まった。
打撃組は帝明の投手を想定した練習へ入り、黒崎と水城もそれぞれ準備する。
そしてブルペン。
朝倉が捕手用具を着けて座った。
その前に神代が立つ。
大会中も球は投げてきた。
だが、次の試合で投げる前提でブルペンに入るのは初めてだった。
黒崎が隣から見る。
水城も少し離れたところに立っている。
神代がボールを握り、朝倉もミットを構える。
その一球目。
神代の右腕が振られた。
乾いた音がブルペンに響く。
朝倉が捕ったボールを一度見る。
黒崎が息を吐いた。
悔しくないわけではない。
それでも今は、この球を見ておきたかった。
神代はすぐに次の球を受け取る。
二球目。
またミットが鳴る。
三球目。
今度は軌道が変わった。
朝倉が捕球する。
「怜司」
「何?」
「問題ない」
「分かった」
それだけだった。
神代は次の球を握る。
学校では野球部の話をする生徒が増えた。
ネットでは準々決勝の注目カードとして取り上げられた。
次の相手は、前年の西東京代表。
そして、その相手がどこまで知っているのかも分からない。
それでも神代がやることは変わらなかった。
勝つために必要なものを使う。
必要のないものは見せない。
朝倉がもう一度ミットを構えた。
神代がセットに入る。
蒼凛学園を見ている人間は、もう十一人だけではない。
夏の大会でまだ一球も投げていない神代が、静かに準備を進めていた。




