エースの対策
八回表。
先頭は二番の白石。
七回まで1対1。
蒼凛はようやく追いついたが、柏木の投手はまだ崩れていない。
白石が左打席へ入る。
ここまで低めを中心に攻められてきた。
だが、分かっているからといって狙いを一つに絞ることもしない。
柏木も試合の中で変えている。
外角のストレートを、白石は逆らわずに打ち返した。
打球は三遊間へ。
横へ動いたショートのグラブを抜ける。
レフト前ヒット。
無死一塁。
ベンチから九条が声を上げた。
「よし!」
白石は一塁上で軽く手を上げる。
三番、御堂。
柏木の外野はもう左へ寄っていない。
配球も内角だけではない。
互いに一度用意した対策だけでは、もう勝負していなかった。
御堂は外角の球を右方向へ転がした。
セカンドが回り込んで捕球する。
二塁は間に合わない。
一塁へ送球。
アウト。
一アウト二塁。
白石が得点圏へ進んだ。
黒崎がベンチから声を出す。
「あと一本や!」
四番、轟。
外角低めを見送り、内角のストレートを振ってファウル。
その後、僅かに高く入った球を強く捉えた。
打球は左中間へ大きく上がる。
センターが下がり、レフトも寄った。
「抜けろ!」
黒崎がベンチから身を乗り出す。
だがセンターが追いついた。
二アウト二塁。
轟がベンチへ戻りながら息を吐く。
「もう少しだったのに」
九条が言う。
「十分飛んでたけどな」
「飛んだだけじゃ点は入らねぇだろ」
あと一本。
今日の蒼凛が何度も届かなかったものだった。
五番、朝倉。
打席へ向かう途中、一度だけ二塁を見る。
白石と目が合った。
どちらも何も言わなかった。
柏木の投手がセットに入る。
朝倉は低めの球を見送った。
続くストレートはファウル。
簡単には勝負球をくれない。
それでも朝倉は焦らない。
そして次の低めへ沈む変化球。
朝倉が振り抜いた。
打球は投手の横を抜け、センター前へ転がった。
打球を確認して白石がスタートする。
三塁コーチャーの藤堂が腕を回した。
白石は迷わず三塁を蹴る。
センターが前へ出て捕球し、そのままホームへ返す。
朝倉は一塁を回ったところで止まった。
白石は送球より僅かに早くホームへ滑り込んだ。
「セーフ!」
2対1。
三塁側スタンドで桜庭が立ち上がった。
「勝ち越した!」
篠宮も大きく息を吐く。
「やっとだね」
千夏は一塁上の朝倉を見る。
「朝倉くん、よく打ったね」
「さっきは怜司くんで追いついて、今度は朝倉くんで勝ち越しだね!」
桜庭は嬉しそうにスコアボードを見る。
六回まで並んでいた蒼凛の0。
その横に七回の1。
そして八回にも1が入った。
ベンチでは黒崎が一番騒いでいる。
「蓮!ナイスや!」
朝倉が一塁から黒崎を見る。
神代はスコアボードを確認した。
2対1。
七回は鷹野が出て、自分が還した。
八回は白石が出て、御堂が進め、朝倉が還した。
柏木は蒼凛の選手を調べてきた。
試合の中でも修正してきた。
それでも、一人を止める方法だけでは点は防げない。
続く六番、鷹野。
外角の球を打ったが、打球はショート正面へ転がった。
ショートが処理して一塁へ送る。
三アウト。
追加点は入らなかった。
それでも蒼凛が、この試合で初めてリードした。
2対1。
八回裏。
黒崎が再びマウンドへ向かう。
七回を投げたことで、途中から登板する感覚にも身体が慣れていた。
先頭打者はストレートを打ち上げた。
ライトフライ。
御堂が難なく捕球する。
一アウト。
続く打者には高めのストレートを見せてから低めのスライダーを使った。
打者は手を出さない。
黒崎も無理に振らせようとはしない。
次のストレートを打たせ、セカンドゴロに仕留めた。
二アウト。
三人目も外角のストレートを打ち上げる。
センターの鷹野が捕球。
三者凡退。
黒崎は小さく息を吐き、ベンチへ戻った。
水城が待っている。
「今の回は落ち着いてたね」
「最初から落ち着いとったわ」
「七回は?」
「落ち着いとった!」
「じゃあそういうことにしとく」
「その言い方やめろや!」
水城が笑う。
朝倉もマスクを外しながら横を通った。
「八回はよかったよ」
「八回『は』ってなんやねん!」
九条も横で笑った。
2対1。
残るはあと一回。
九回表。
先頭は七番の神代。
左打席へ入ったところで、柏木の守備が動いた。
センターが僅かに右へ寄る。
ライトも位置を確認した。
七回に放った右中間への二塁打。
それまで柏木が持っていた神代の情報は少なかった。
だが今は、一つ増えている。
神代は守備位置を見る。
予想していた通りだった。
柏木バッテリーも簡単にはストライクを取りに来ない。
外角低め。
さらに際どい外角。
神代はどちらにも手を出さなかった。
内角へ一球見せた後、再び外へ投じた球も外れる。
結果は四球。
無死一塁。
神代はバットを置き、一塁へ向かった。
七回の一打だけで扱いが変わった。
一つ情報を与えれば、次から使われる。
当然、自分も例外ではない。
八番、橘。
榊原監督から送りバントのサインが出た。
ベンチの水城が榊原監督を見る。
次は九番の黒崎。
打撃を期待できる打順ではない。
橘は一塁側へ確実に転がし、神代を二塁へ進めた。
一アウト二塁。
九番、黒崎。
ヘルメットを被った黒崎に、水城が声をかける。
「大雅」
「なんや」
「打つ方も頑張って」
黒崎が振り返る。
「言われんでも分かっとる」
「三振しそう」
「なんで先に言うねん!」
黒崎が右打席へ入った。
神代は二塁。
ここで追加点が入れば、九回裏は大きく楽になる。
黒崎は初球から強く振ったが空振り。
二球目も振ってファウルとなった。
ベンチの九条が呟く。
「力入ってんな大雅のやつ」
追い込まれた黒崎は、最後に低めへ落ちる変化球を振らされる。
三振。
二アウト二塁。
黒崎がベンチへ戻ると、九条がすれ違いざまに言った。
「打撃はいいから投げる方に集中しろよ」
「まだこの回終わってへんやろ!颯真打ってこいや」
「お前の打席は終わったけどな」
「分かっとんねん!」
九条が左打席へ入る。
神代を二塁に置いて二アウト。
柏木は九条にも外角を丁寧に使ってきた。
九条は粘ったものの、最後は外角のストレートをレフトへ打ち上げる。
三アウト。
追加点は取れなかった。
2対1。
九回裏。
黒崎がマウンドへ向かう。
あと三アウト。
一点差。
ここまで来ても、柏木は崩れていない。
朝倉がホームへ入る。
「大雅」
「なんや」
「一点ある」
「分かっとる」
「でも一点しかない」
黒崎が朝倉を見る。
「それも分かっとる」
朝倉が頷く。
「じゃああと三つ取ろう」
黒崎が少し笑った。
「最初からそのつもりや」
先頭打者。
黒崎は高めのストレートを見せた後、内角へ投げ込んだ。
打者は詰まった。
打球はサードへ転がる。
轟が捕球して一塁へ送った。
一アウト。
黒崎は神代から返球を受け取る。
あと二つ。
続く打者は簡単には終わらなかった。
外角のストレートを逆らわずセンターへ弾き返す。
センター前ヒット。
一アウト一塁。
柏木ベンチの声が大きくなる。
三塁側スタンドで桜庭が両手を握った。
「あと二人なのに……」
篠宮はグラウンドを見たまま答える。
「まだ勝ってる」
「分かってるけど」
千夏もマウンドを見る。
「柏木も最後まで変わらないね」
「変わらない?」
「一人ずつ進めて、一点を取りに来る」
次打者は右方向を意識していた。
黒崎のストレートを打った打球はセカンド方向へ転がる。
白石が前へ出たが、二塁への送球には間に合わない。
やむなく一塁へ送る。
神代が捕球。
アウト。
二アウト二塁。
走者は進んだ。
一打同点。
柏木のベンチから声が飛び続ける。
桜庭は何も言わなくなった。
篠宮も千夏もグラウンドから目を離さない。
黒崎がボールを受け取る。
あと一人。
朝倉がサインを出した。
黒崎が首を振る。
別のサインにも、もう一度首を振った。
朝倉が黒崎を見る。
三つ目。
今度は黒崎が頷いた。
一塁の神代も、そのやり取りを見ていた。
黒崎が自分で選んだ。
初球は高めのストレート。
打者が振ってファウルになる。
柏木は七回から何度も見せられている。
高めを使って目線を動かす意図も、もう分かっているかもしれない。
二球目は外角のスライダー。
打者は見送った。
ストライク。
これで追い込んだ。
朝倉から返球を受けた黒崎は、一度だけ二塁ランナーを確認してから打者へ視線を戻した。
柏木は自分を調べてきた。
前の試合で変えたところまで見ていた。
だから自分もさらに変えた。
だが、その変化も七回からすでに見られている。
同じことを続ければ、また対応される。
黒崎がセットに入る。
次は外角低めのスライダー。
打者のバットは途中で止まった。
判定はボール。
黒崎の表情は変わらない。
朝倉から返球を受け、もう一度サインを見る。
頷く。
黒崎が投げた。
今度は高めではなく、外角いっぱいのストレート。
打者が振った。
バットの先に当たった打球はショートへ転がる。
九条が前へ出て捕球し、そのまま一塁へ送った。
神代がベースを踏みながら捕る。
「アウト!」
三アウト。
試合終了。
2対1。
黒崎がマウンド上で拳を握った。
「よっしゃ!」
朝倉がマスクを外してマウンドへ向かう。
ベンチから水城たちも出てくる。
三塁側スタンドでは、桜庭がようやく握っていた手を緩めた。
「勝った……」
篠宮も笑う。
「最後まで分からなかったね」
「心臓に悪いよ」
千夏はグラウンドを見る。
「でも、こういう試合も勝たないと甲子園には行けないからね」
整列を終え、蒼凛の選手たちがベンチへ戻る。
水城が黒崎を見る。
「大雅」
「なんや」
「失点増やさなかったね」
黒崎が振り返る。
「当たり前や言うたやろ!」
朝倉が横から言う。
「最初はちょっと危なかったけどね」
「もう終わった話やろ!」
九条が笑う。
黒崎も最後には笑っていた。
スコアボードには数字が残っている。
蒼凛学園 0 0 0 0 0 0 1 1 0|2
都立柏木 0 1 0 0 0 0 0 0 0|1
初戦は8対1。
二回戦は9対2。
そして三回戦は2対1。
初めて九回まで戦った。
初めて公式戦で継投した。
そして初めて、相手に研究された状態で試合をした。
相手が変われば、自分たちも変える。
その変化を読まれれば、また変える。
それを九回まで続けて、ようやく一つ上へ進んだ。
神代はスコアボードを見る。
公式戦3勝。
甲子園まで、あと3勝。
試合後、榊原監督が十一人を集めた。
「次は準々決勝だ」
黒崎がすぐに聞く。
「相手、決まってるんですか?」
「ああ」
榊原監督が答える。
「去年の西東京代表、帝明学園だ」
何人かの表情が変わった。
大会前、組み合わせ表を見た時に一度だけ話に出た学校だった。
順当に勝ち上がれば準々決勝で当たる可能性があると聞いていた。
その場所まで、本当に来た。
黒崎が笑う。
「やっと来たな」
水城が横を見る。
「まだ三つ目勝っただけだよ」
「分かっとるわ。せやけど去年の代表やろ?」
「そうだね」
「倒したら分かりやすいやん」
神代は何も言わなかった。
都立南台。
私立武蔵陵。
都立柏木。
三つ勝った。
そして次は、前年の西東京代表。
『帝明学園』
ここまでの三校とは、また違う。
神代は榊原監督を見る。
「次、誰が投げますか?」
黒崎がすぐに反応した。
「俺やろ!」
水城も神代を見る。
榊原監督は少し間を置いた。
「次は神代だ」
黒崎の声が止まる。
神代は表情を変えなかった。
夏の公式戦、四試合目。
前年の西東京代表を相手に、ようやく神代怜司がマウンドへ上がる。




