VS中堅
初戦から数日後。
西東京大会、二回戦。
蒼凛学園の相手は私立武蔵陵高校だった。
甲子園出場経験こそないが、毎年のように大会で一つ二つは勝ち上がる、
西東京では中堅に位置するチームだ。
前回よりも、蒼凛側のスタンドには僅かに人が増えていた。
桜庭、篠宮、千夏の三人に加え、同じ学校の制服を着た生徒が何人か座っている。
創部一年目の野球部が初戦を8対1のコールドで勝ったと聞き、興味を持ったらしい。
そして今日、桜庭が真っ先に確認したのはスコアボードだった。
両チームのスタメンが表示されている。
「怜司くん、今日は出る!」
篠宮も同じ場所へ目を向けた。
「七番ファーストだね」
「七番なんだ」
「神代くんならもっと上でも打てそうだけど」
千夏の言葉に、桜庭が頷く。
「絶対打てる」
「何その自信」
「怜司くんだから」
迷いのない答えに、篠宮が小さく笑った。
蒼凛のスタメンは、
一番ショート九条、二番セカンド白石、
三番ライト御堂、四番サード轟、
五番キャッチャー朝倉、六番センター鷹野、七番ファースト神代、八番レフト橘。
そして九番、ピッチャー黒崎。
ベンチには水城と藤堂が入る。
試合前、ベンチ裏で榊原監督が神代を呼んだ。
「打順は七番に入ってもらう」
「はい」
「不満か」
「いえ」
神代は本当に何も思っていないようだった。榊原監督が続ける。
「お前を三番か四番に置けば、クリーンナップは今より確実に点を取る。だが、それだとお前がいない時に何が起きるか分からないままだ」
「初戦は俺が出ていません」
「あれは相手が弱かった。今日は違う形で試す」
御堂、轟、朝倉。
その三人だけで走者を還せるかどうか。
神代は頷いた。
「分かりました」
「お前は七番で、後ろに橘と黒崎がいる。そこでどう打つかも見ておく」
「はい」
榊原監督はそれだけ言ってベンチへ戻った。
黒崎はブルペンで最後の一球を朝倉のミットへ投げ込むと、満足そうに笑った。
「ええやん」
朝倉が立ち上がる。
「スライダーも?」
「問題ない」
黒崎は自信を持って答えた。
横浜星央戦で打たれて以降、最も時間をかけてきた球だった。
神代に答えを聞くのではなく、朝倉や打者役の仲間と話しながら自分で修正してきた。
握り、腕の振り、ストレートとの軌道差。
曲げようとしすぎれば腕が緩む。
それを直し、今では以前より小さく鋭く変化する。
黒崎は少し離れた場所にいる神代を見る。
「怜司」
「何?」
「今日見とけよ」
「見るけど」
「そういう意味ちゃうねん。俺のスライダーや」
「分かった」
「反応薄いな!」
神代は首を傾げる。
「まだ投げてないだろ」
「投げたら分かるわ!」
水城が横で笑う。
「大雅、初戦の時に自分なら三者三振できるって言ってたもんね」
「できるわ!」
「じゃあ期待してる」
「おっ、おう」
黒崎はそのままマウンドへ向かった。
一回表。
その言葉通り、黒崎の立ち上がりは良かった。
先頭をストレートで空振り三振。
二番打者は高めの速球に詰まり、セカンドフライ。
三番も最後は外へ逃げるスライダーにバットが届かなかった。
三者凡退、2奪三振。
黒崎が勢いよくベンチへ戻ってくる。
「どうや!」
水城が答える。
「まだ一回だよ」
「素直に褒めろや!」
「よかったよ」
「後から付け足すな!」
神代は何も言わなかった。
だが、黒崎のスライダーは確かに以前と違っていた。
ストレートと途中まで同じ軌道を通り、
打者の手元で小さく外へ逃げる。
変化量だけを求めていた頃より、打者にとっては厄介な球になっている。
一回裏。
九条がセンター前ヒットで出塁すると、
白石が確実に送り、一アウト二塁。
三番の御堂は外角のストレートを逆らわず左中間へ運んだ。
打球は外野の間を抜け、九条がホームへ返る。
1対0。
蒼凛が先制した。
続く轟と朝倉は倒れたが、黒崎に一点の援護が入った。
二回表。
武蔵陵の四番が黒崎のストレートをセンター前へ運ぶ。
初めて走者を背負ったが、黒崎は崩れなかった。
次打者をセンターフライ。
続く打者をスライダーで空振り三振に取り、最後はサードゴロ。
轟が一塁へ送って三アウト。
無失点。
二回裏は鷹野から。
鷹野がセンター前ヒットで出塁すると、
七番の神代が左打席へ入った。
公式戦初打席。
スタンドでは桜庭が僅かに身を乗り出す。
「怜司くん!」
その声がグラウンドまで届いたかは分からない。
神代は相手投手だけを見ていた。
初球を見送り、二球目も振らない。
三球目、外角のストレートにバットを出した。
打球はセンターへ上がる。
センターが捕球。
一アウト一塁。
桜庭の肩が少し落ちた。
「あ……」
篠宮が横を見る。
「毎回打つわけじゃないでしょ」
「分かってるけど」
「すごい残念そう」
「初打席だったのに」
それを聞いて千夏が笑った。
続く橘が左中間への二塁打を放つと、鷹野が一気にホームまで戻った。
2対0。
その後黒崎と九条は倒れたが、蒼凛がもう一点を追加した。
三回表。
黒崎は再び三者凡退。
スライダーでも一つ三振を奪い、武蔵陵打線にほとんどまともな打球を許さなかった。
そしてその裏、先頭の白石が右中間への二塁打で出塁する。
御堂のセカンドゴロで三塁へ進み、一アウト三塁。
轟がセンターへ十分な距離のフライを打ち上げ、白石がタッチアップした。
3対0。
しかし朝倉はショートゴロに倒れ、三回を終えた。
黒崎はベンチで水を飲みながらスコアボードを見る。
「余裕やな」
朝倉が隣に座る。
「まだ三回だよ」
「分かっとる」
「本当に?」
「分かっとるって!」
神代は武蔵陵のベンチを見ていた。
三回まで、黒崎のスライダーに武蔵陵の打者は何度も手を出している。
だが、一巡が終わった。
次から同じとは限らない。
四回表。
二番打者から始まった。
黒崎の初球は外へ逃げるスライダー。
打者は振らず、ボールとなった。
二球目もスライダー。
低い。
また振らない。
黒崎の眉が僅かに動いた。
三球目。
ストライクを取りにいったストレートをセンター前へ弾き返される。
無死一塁。
続く三番打者にも朝倉はスライダーを要求したが、打者は動かなかった。
そして次のストレートを左中間へ運ばれる。
無死二、三塁。
黒崎の表情が変わった。
「なんやねん」
四番打者にもスライダーを見送られた。
カウントを悪くしたくない黒崎がストレートを投げると、打球はセンターへ上がった。
鷹野が捕球。
三塁走者がタッチアップする。
3対1。
なおも一アウト二塁。
五番打者。
またスライダーには手を出さない。
黒崎はストレートで押した。
しかしライト前ヒット。
御堂がすぐに返球したが、間に合わず二塁走者がホームへ戻った。
3対2。
一点差。
一アウト一塁。
黒崎が強くボールを握った。
「大雅」
朝倉が声をかける。
六番打者への初球はストレート。
高く外れる。
二球目も外。
黒崎の腕に力が入り始めていた。
結局、その打者を四球で歩かせてしまった。
一アウト一、二塁。
朝倉がタイムを取り、マウンドへ向かった。
黒崎がすぐに言う。
「スライダーが効いてへん」
朝倉は首を振った。
「本当に?」
「振らへんやんけ」
「だから、何で振らないと思う?」
黒崎が黙る。
「見切られとるからやろ」
「全員が?」
黒崎は武蔵陵のベンチを見た。
次打者、その次の打者。
そして、ここまでの打席を思い返す。
一巡目は振っていた。
二巡目から急に全員が振らなくなった。
それも、スライダーだけ。
黒崎が小さく息を吐く。
「……捨てとるんか?」
朝倉が頷いた。
「多分ね」
黒崎の視線が変わった。
スライダーが見切られたわけではない。
打てないから追わない。
ボールになるスライダーは最初から捨て、
ストライクゾーンへ来るストレートだけを狙っている。
なら、やれることはある。
黒崎は一瞬だけ一塁を見る。
神代が立っていた。
そして目が合う。
神代なら、もっと早く気づいていたかもしれない。
何を投げればいいかも分かっているはずだ。
だが黒崎は何も聞かなかった。
朝倉を見る。
「蓮」
「うん」
「次、初球スライダーでストライク取る」
朝倉が笑った。
「僕もそれでいいと思う」
「ボール球にするから捨てられんねん。振らんでもええ。ストライクにしたら、見てるだけじゃカウント取れる」
「いこう」
朝倉がホームへ戻った。
一アウト一、二塁。
七番打者への初球。
黒崎のスライダーが外角低めへ向かう。
ただし今までより僅かに内側。
ボールはストライクゾーンを通った。
打者は振らない。
「ストライク!」
黒崎の口元が上がった。
二球目は高めのストレートをファウル。
三球目は同じ腕の振りから、今度こそボールゾーンへスライダーを逃がす。
打者のバットが出た。
空振り三振。
二アウト。
八番打者には初球から外角のストレート。
続いてスライダーでストライクを取り、最後は内角のストレートで詰まらせた。
ショートゴロ。
九条が捕球して白石へ送る。
三アウト。
この回二点を失った。
だが、それ以上は許さなかった。
ベンチへ戻る途中、黒崎は神代の前を通る。
何か言われると思った。
しかし神代は何も言わない。
「なんや?」
黒崎から聞いた。
「何が?」
「いや、なんかあるやろ」
「自分で直しただろ」
「……まあな」
それだけだった。
黒崎は少しだけ口元を上げ、ベンチへと戻っていった。
四回裏。
先頭の鷹野がショートゴロに倒れ、
一アウト。
七番、神代。
二打席目。
桜庭が再び前のめりになる。
武蔵陵の投手が初球を外へ投げる。
それを神代は見送った。
二球目。
内角寄りのストレート。
神代が振り抜くと、打球は一、二塁間を抜けてライト前へ転がった。
神代は一塁へ到達する。
蒼凛での公式戦初安打。
「打った!」
桜庭が立ち上がった。
「怜司くん打った!」
篠宮も一塁を見る。
「これ、公式戦では初ヒットだよね?」
「初戦は出てないから、そうだね」
千夏が答える。
桜庭の表情がさらに明るくなった。
「じゃあ記念じゃん!」
「本人、全然そんな顔してないけど」
篠宮が言う。
一塁上の神代は特に喜ぶ様子もなく、投手の牽制の動きとライトの守備位置を確認していた。
桜庭が少し頬を膨らませる。
「もうちょっと喜んでもいいのに」
千夏が笑う。
「神代くんだからね」
「それ私が言うやつ」
グラウンドでは神代が一度だけスタンドへ視線を向けた。
桜庭が大きく手を振る。
神代は僅かに首を傾げた後、すぐに投手へ視線を戻した。
続く橘はレフトフライ。
黒崎も空振り三振に倒れ、神代は一塁に残ったまま三アウトとなった。
3対2。
試合は一点差のまま五回へ入る。
だが、黒崎の投球はもう変わっていた。
五回表。
初球からスライダーでストライクを取る。
それを見た打者が次のスライダーへ反応すれば、今度はボールゾーンへ逃がす。
スライダーを意識させた後は、最も自信のあるストレートを使う。
それまで武蔵陵打線は、黒崎の球を二つに分けていた。
振らない球と、振る球。
黒崎はその境界を壊した。
先頭をスライダーで見逃し三振。
次打者はストレートで詰まらせ、ファーストゴロ。
神代が自分でベースを踏む。
最後は高めのストレートで空振り三振。
三者凡退。
ベンチへ戻る黒崎へ、水城が声をかけた。
「大雅、急に投げ方変わったね」
「相手が変えたから、こっちも変えただけや」
「神代くんに聞いた?」
黒崎が水城を見る。
「聞いてへん」
「へえ」
「なんやその顔」
「別に」
「絶対なんか思っとるやろ!」
水城は笑うだけだった。
五回裏。
九条が左中間を破る二塁打。
白石が送り、一アウト三塁。
御堂がセンター前へ運び、九条が生還する。
4対2。
続く轟も甘く入ったストレートをセンターオーバーに放つ。
御堂が一塁から一気にホームまで戻り、
轟は二塁へ到達する。
5対2。
朝倉と鷹野は倒れたものの、蒼凛は再び三点差へ広げた。
ベンチの端で、榊原監督が一度だけ神代を見た。
そのとき神代はグラウンドを見ていた。
三番から五番だけで、走者を二人還している。
この試合で得るものは多そうだ。
六回表。
武蔵陵は先頭打者がセンター前ヒットで出た。
だが黒崎は動じない。
次打者をセカンド正面のゴロに打ち取る。
白石が二塁へ送り、九条から神代へ転送。
ダブルプレー。
二アウト走者なしとなり、最後はセンターフライ。
黒崎は六回も無失点で戻ってきた。
六回裏。
先頭の神代が四球を選ぶと、橘もセンター前へ続いた。
無死一、二塁。
九番の黒崎が打席へ向かう。
朝倉がベンチから声を飛ばした。
「大雅、バント!」
「分かっとる!」
黒崎は三塁側へ確実に転がす。
一アウト二、三塁。
九条がセンターへ犠牲フライを打ち上げ、
神代がホームを踏んだ。
6対2。
白石はセカンドゴロに倒れ、追加点は一点だった。
七回表。
黒崎が再びマウンドへ上がる。
初戦の水城と同じ七回。
だが、ここまでに向き合ったものは違っていた。
水城は緊張と余裕という、自分自身の変化に対応した。
黒崎は、試合の途中で変わった相手に対応した。
先頭をショートゴロ。
次打者をスライダーで空振り三振。
二アウト。
最後の打者はストレートに差し込まれ、ライトへ打ち上げる。
御堂が捕球した。
三アウト。
黒崎が右拳を握る。
七回を投げて2失点。
蒼凛は6対2で七回裏へ入った。
先頭は三番、御堂。
センター前ヒット。
無死一塁。
四番の轟が左中間を破ると、御堂が一気にホームへ戻った。
7対2。
轟は二塁。
続く朝倉もライト前へ運び、轟がホームを踏む。
8対2。
あと一点でコールド。
鷹野もライト前ヒットで続いた。
朝倉は三塁まで進み、無死一、三塁。
七番、神代。
桜庭が再び身を乗り出した。
しかし神代の打球は浅いセンターフライ。
朝倉は動けない。
一アウト一、三塁。
神代はベンチへ戻ると、特に悔しがる様子もなく次打者を見た。
八番、橘。
外角のストレートをセンターへ打ち上げる。
朝倉がタッチアップ。
センターが捕球すると同時にスタートした。
返球がホームへ戻るより早く、朝倉がホームを踏む。
9対2。
その瞬間、球審が試合終了を告げた。
七回コールド。
蒼凛学園、2勝目。
黒崎がベンチ前で大きく息を吐く。
「よっしゃ!」
水城が近づいた。
「大雅、僕より一点多く取られたね」
黒崎の表情が止まる。
「今はええやろ!」
「7回2失点」
「それでも勝ったやろ!」
「僕は1失点だったけど」
「お前絶対それ言いたかっただけやろ!」
周囲から笑いが起きた。
整列を終え、十一人がベンチへ戻る。
黒崎の投球内容は7回2失点。被安打5本、四球1、8奪三振。
数字だけなら、初戦の水城より一点多く失っている。
だが、黒崎が気にしていたのはそこではなかった。
「四回やな」
黒崎が言う。
朝倉が頷いた。
「うん」
「スライダー捨てられて、ストレートだけ狙われた」
「でも気づいた」
「次はもっと早く気づく」
黒崎はそう言ってから神代を見る。
「怜司」
「何?」
「途中から変えたん、分かった?」
「ああ」
「どうやった?」
神代は少し考えた。
「よかったと思う」
黒崎が一瞬黙る。
「……それだけ?」
「何が?」
「もうちょいなんかあるやろ」
「自分で原因を見つけて、自分で直した。それで十分だろ」
黒崎の表情から僅かに力が抜けた。
「まあな」
神代はそれ以上何も言わなかった。
だが、頭の中では今日の試合を整理していた。
初戦の水城は、自分を見なかった。
今日の黒崎も、自分に聞かなかった。
二人とも公式戦の中で問題が起きた。
そして、自分たちで修正した。
横浜星央に負ける前なら、神代が先に答えを伝えていたかもしれない。
でも今は違う。
自分が答えを出さなくても、チームは前に進んでいる。
榊原監督が神代の横に立った。
「七番はどうだった」
「九点のうち六点が、三番から五番でした」
「そうだ」
榊原監督はグラウンドを見たまま続けた。
「お前がいなくても、あそこは点を取れる。それを確かめたかった」
神代は頷いた。
自分が三番か四番に入っていれば、点差はもっと早く開いていたかもしれない。
だが、それでは今日確かめたことは分からなかった。
試合後に榊原監督が十一人を集めた。
「次の相手が決まった」
笑っていた選手たちが監督を見る。
「都立柏木高校。ここまで二試合とも接戦を勝ってきている」
黒崎が聞く。
「強いんですか?」
「今までの二校よりは上だ」
榊原監督は一度言葉を切った。
「それと、今日スタンドに柏木の野球部員が何人か来ていたそうだ」
空気が少し変わる。
九条がグラウンドの向こうを見る。
「偵察?」
「そうだろうな」
神代もスタンドへ視線を向けた。
二試合続けてコールド勝ち。
もう、相手が何も知らない状態では戦えない。
今度は蒼凛が、調べられる側になる。
西東京大会、2勝。
甲子園まで、あと4勝。




