水城の課題
試合前の攻守決めで、蒼凛は後攻になった。
一回表。
マウンドに立った水城は、一度だけ大きく息を吐いた。
蒼凛学園として初めての公式戦。
その最初の一球を投げるのは、自分だった。
朝倉がホームからサインを出す。
水城が頷き、セットに入った。
初球のストレートは外角へ外れた。
二球目も僅かに高い。
普段なら相手を見ながら意図的に変える投球までの間も、今日は自分が落ち着く場所を探すようにばらついている。
結局、先頭打者を四球で歩かせてしまった。
「湊、硬ないか?」
ベンチの黒崎が眉をひそめた。
「少しな」
隣で見ていた神代にも分かる。
腕の振りが僅かに小さい。
それ以上に、普段は武器になっている投球テンポの変化が、今は水城自身を迷わせていた。
二番打者は送りバント。
一塁側へ転がった打球を水城が処理して藤堂へ送り、一アウト二塁。
続く三番打者。
水城は少し長く持ってからストレートを投げた。
打者はセンター前へ弾き返す。
二塁走者が三塁を回る。
鷹野が素早く返球したが間に合わない。
0対1。
都立南台が先制した。
三塁側スタンドで、桜庭がスコアボードを見る。
「先に取られた」
「まだ一点だよ」
千夏が答える。
篠宮はスコアではなく、マウンドの水城を見ていた。
「水城くん、いつもより落ち着いてない気がする」
「分かるの?」
「何となくだけど」
水城自身にも分かっていた。
緊張しているから、普段以上に色々やろうとしている。
その結果、考えることだけが増えている。
朝倉がマウンドへ向かった。
「湊」
「何?」
「考えすぎ」
水城が苦笑する。
「やっぱり?」
「最初は普通に投げよう」
「普通って?」
「いつもの湊のこと」
「それ、一番難しいこと言ってない?」
「湊ならできるでしょ」
朝倉はそれだけ言ってホームへ戻った。
一アウト一塁。
四番打者に対し、水城は余計なことを考えず、自分の基準となるテンポで投げた。
二球目のストレートを打者が引っ張る。
強いゴロがサードへ飛んだ。
轟が捕球し、二塁へ送る。
ベースに入った白石が一つ目のアウトを取り、そのまま一塁へ転送した。
藤堂が捕球。
ダブルプレー。
三アウト。
1失点で初回を切り抜けた。
水城がベンチへ戻ると、黒崎が待っていた。
「初回から何しとんねん」
「1失点しちゃった」
「俺やったら三者三振や」
「大雅、投げてもないのによく言えるよね」
「投げたら分かるわ!」
朝倉が横から笑う。
「はいはい。湊はもう落ち着いた?」
「多分ね」
いつものやり取りに、水城も笑った。
少なくとも、マウンドへ上がった時より身体から余計な力は抜けていた。
一回裏。
一番、九条。
相手右腕の二球目をセンター前へ弾き返し、蒼凛の公式戦最初の打者がいきなり出塁した。
二番の白石も続く。
左打席から内角寄りのストレートを引っ張り、一、二塁間を破るライト前ヒット。
九条は迷わず三塁まで進み、無死一、三塁となった。
三番、御堂。
初球は外角。
二球目も外寄りだった。
御堂は三球目を無理に引っ張らず、センターへ高く打ち上げる。
捕球と同時に九条がスタート。
ホームイン。
1対1。
なおも一アウト一塁。
ベンチで神代が相手投手を見ていた。
黒崎が隣から聞く。
「初打席、立ちたかったんちゃう?」
「別に」
「ほんまか?」
「今日は俺が出る必要ないだろ」
神代の視線はグラウンドから動かなかった。
続く四番の轟はレフトフライ。
五番の朝倉もセカンドゴロに倒れ、
初回は一点止まり。
それでも蒼凛はすぐに試合を振り出しへ戻した。
二回表から、水城の投球は明らかに変わった。
最初から間を変えることを考えない。
まず自分の基準となるテンポで投げ、
必要な時だけ変える。
先頭をセカンドゴロ、次打者をライトフライ、最後は外角のストレートで空振り三振。
三者凡退。
ベンチへ戻る水城に九条が声をかけた。
「さっきと全然違うな」
「やること減らしたからね」
「増やすの得意なのに?」
「増やしすぎると邪魔になることもあるって覚えたから」
神代は少し離れた場所で聞いていたが、
何も言わなかった。
二回裏は六番の鷹野から。
鷹野は二球目をセンター前へ運んだ。
無死一塁。
南台バッテリーの動きが変わる。
牽制。
もう一度牽制。
鷹野は大きなリードを取っていない。
それでも投手の意識は明らかに一塁へ向いていた。
七番の藤堂がバントの構えを見せる。
初球は見送った。
二球目。
一塁側へきっちり転がした。
「ナイスバント!」
ベンチから橘の声が飛ぶ。
藤堂は一塁でアウトになったが、鷹野は二塁へ進んだ。
一アウト二塁。
八番、橘。
投手が再び二塁走者を気にする。
一度振り返り、セットに入り直した。
その直後だった。
甘く入った変化球を橘が振り抜く。
左中間に飛ぶ。
打球がセンターとレフトの間を破った。
鷹野は三塁を回る。
中継へ返球が入った時には、すでにホームを駆け抜けていた。
2対1。
蒼凛が勝ち越した。
「速っ!」
スタンドで桜庭が思わず声を上げる。
「今、一塁にいたよね?」
「藤堂くんが送ったから二塁からだよ」
千夏が笑う。
「それでも速いけどね」
橘は二塁に残っている。
九番の水城が左打席へ入った。
二球目をファースト方向へ転がし、
橘を三塁へ進める。
二アウト三塁。
打順は一番へ戻ったが、九条はライトフライ。
追加点は入らなかった。
三回表。
水城は一アウトからセンター前ヒットを一本許したが、続く打者をレフトフライ。
最後はショートゴロに打ち取り、
九条が白石へ送って封殺した。
無失点で切り抜ける。
三回裏は二番の白石から始まる。
白石が四球を選んだ。
無死一塁。
三番の御堂。
外角のストレートを逆らわず振り抜くと、
打球は左中間へ伸びた。
白石が二塁を回る。
センターが打球を処理する間に三塁も蹴った。
御堂は二塁へ。
白石がホームを踏む。
3対1。
無死二塁。
四番の轟は初球から振った。
大きなセンターフライになる。
御堂が捕球を確認して三塁へ進む。
一アウト三塁。
五番の朝倉。
低めの変化球をライトへ打ち上げた。
これも十分な距離。
御堂がタッチアップする。
4対1。
二アウト走者なし。
続く鷹野はショートゴロに倒れ、
三回を終えた。
「今の悠真の打ち方、ええな」
ベンチの黒崎が言った。
「外を無理に引っ張らなかったからな」
神代が答える。
「お前、出てへんのに普通に楽しそうやな」
「見ることは多いからな」
黒崎は少し笑った。
「ほんま野球好きやな、お前」
神代は返事をしなかった。
四回表。
水城は三者凡退に抑えた。
その裏は七番の藤堂、八番の橘、九番の水城と続くが、三人とも打ち取られた。
4対1。
試合は少しずつ落ち着き始めていた。
五回表。
水城は先頭打者にセンター前ヒットを許した。
だが初回とは違う。
すぐに朝倉のサインを見る。
頷く。
次打者の打球は弱いショートゴロ。
九条が捕球し、二塁の白石へ送る。
一アウト一塁。ゲッツーにはならなかった。
続く打者をレフトフライ。
最後はストレートで空振り三振。
無失点。
ベンチへ戻ってきた水城に黒崎が言った。
「走者出ても全然慌てへんようになったな」
「初回でもう慌てたからね」
「初回で使い切ったんか」
「そうだといいんだけどね」
五回裏。
一番の九条が右中間を破る二塁打。
無死二塁。
二番の白石は外角のストレートに逆らわず、
レフト前へ運んだ。
九条は三塁を回る。
ホームイン。
5対1。
無死一塁。
三番の御堂もセンター前へ続き、
無死一、二塁。
ここで南台のベンチが動いた。
伝令がマウンドへ向かい、内野手も集まる。
神代はベンチからその様子を見ていた。
四点差。
まだ五回。
南台としては、ここで試合を壊したくない。
しばらくして試合が再開する。
四番、轟。
初球のストレートを強く引っ張った。
三遊間。
サードが飛びつくが届かない。
レフト前ヒット。
二塁の白石が三塁を回った。
ホームイン。
6対1。
なおも無死一、二塁。
轟が一塁上で拳を握った。
「よっしゃ!」
朝倉が打席へ入る。
二球目をショートへ転がした。
ショートが捕球して二塁へ。
セカンドがベースを踏み、そのまま一塁へ送る。
ダブルプレー。
二アウト三塁。
御堂だけが三塁へ残った。
しかし六番の鷹野はセンターフライに終わった。
三アウト。
五回終了時点で6対1。
「あと五点やったのにな」
黒崎が言う。
水城がタオルで汗を拭きながら見る。
「そんなに早く帰りたいの?」
「ちゃうわ。コールドで勝った方が強そうやろ」
「そういう理由?」
「大事なことや」
水城が笑った。
「僕はもう少し投げたいかな」
「余裕出てきたやん」
「ちょっとね」
神代が水城を見る。
その言葉通りなら問題はない。
だが、余裕が出た時に投球がどう変わるか。
それも今日確認したいことの一つだった。
六回表。
最初の打者への投球で、その変化は出た。
水城は初球をすぐに投げた。
二球目も早い。
三球目もほとんど間を置かない。
センター前ヒット。
無死一塁。
水城は返球を受け取ったところで気づいた。
点差が開いた。
初回のような緊張はもうない。
その分、今度は投球が雑になりかけている。
朝倉はマウンドへ行かなかった。
代わりにホームから右手を僅かに上げる。
水城が頷いた。
一度プレートを外す。
一塁を見る。
再びセット。
今度は長く持った。
打者が僅かに構え直した瞬間に投げる。
セカンド正面へのゴロ。
白石が捕球し、二塁へ送る。
九条がベースを踏み、一塁の藤堂へ転送。
ダブルプレー。
二アウト走者なし。
続く打者もセンターフライ。
三アウト。
水城はベンチへ戻ると、タオルを取った。
「危なかった」
朝倉が隣に座る。
「楽になった?」
「なった」
水城は少し考える。
「楽になりすぎたかも」
「それ、覚えとこう」
「うん」
神代は二人の会話を聞いていた。
助言する必要はなかった。
本人が気づき、朝倉と確認し、その回のうちに直した。
それで十分だった。
六回裏は七番の藤堂から。
藤堂はセカンドゴロ。橘はセンターフライ。水城もショートゴロに倒れ、三者凡退。
そして七回表。
水城が再びマウンドへ向かった。
球数はまだ80球に届いていない。
先頭打者をカーブでセンターフライ。
次打者は粘ったが、最後は外角のストレートで見逃し三振。
二アウト。
最後の打者は二球目の変化球をセカンドへ転がした。
白石が捕球。
一塁の藤堂へ送る。
三アウト。
七回まで1失点。
水城がベンチへ戻ってくる。
「ここで二点取ったら終わりやな」
黒崎が声をかける。
「じゃあ取ってよ」
「俺ベンチや!」
「知ってる」
「お前ほんま余裕出てきたな!」
水城が笑いながらベンチへ座った。
七回裏。
打順は一番の九条からだった。
ストレートをセンター前へ弾き返す。
無死一塁。
二番、白石。
先ほどの打席と同じく、外角の球を逆らわずレフト前へ運んだ。
九条は迷わず二塁を蹴る。
レフトから三塁へ返球されたが間に合わない。
無死一、三塁。
6対1。
あと二点入れば七点差となり、七回コールドが成立する。
スタンドで桜庭が千夏を見る。
「あと二点で終わり?」
「うん。七回だから七点差になれば終わり」
「じゃあ御堂くんが打ったら終わるかも?」
「可能性はあるね」
三番の御堂が左打席へ入る。
初球は外角。
見送った。
二球目。
低めのストレート。
御堂が振る。
打球はセンターへ高く上がった。
捕球を確認して九条が三塁からスタートする。
ホームイン。
7対1。
一アウト一塁。
白石はまだ一塁にいる。
打席には四番、轟。
初球外角のストレートを見送る。
二球目は内角の変化球をファウル。
三球目。
僅かに甘く入ったストレートを、轟が振り抜いた。
鋭い打球が左中間を破る。
白石が一塁からスタートした。
そして二塁を蹴る。
ベンチから榊原監督の声が飛んだ。
「回れ!」
白石は三塁も蹴った。
センターから中継へ。
ホームへ返球される。
白石が滑り込む。
捕手がタッチする。
「セーフ!」
8対1。
その瞬間、球審が試合終了を告げた。
七回コールド。
蒼凛のベンチから黒崎が真っ先に飛び出しかけ、榊原監督に止められた。
「まだ整列がある。戻れ」
「すんません!」
神代が横を見る。
「大雅が一番疲れてないのにな」
「せやから体力余っとんねん!」
ホームベース付近で白石が立ち上がり、轟が二塁上で大きく拳を握っていた。
水城もベンチ前で笑っている。
スコアボード
都立南台 1 0 0 0 0 0 0 |1
蒼凛学園 1 1 2 0 2 0 2x |8
蒼凛学園野球部。
公式戦初勝利。
整列を終え、九人がベンチへ戻ってくる。
水城の投球内容は7回1失点。被安打4本、
四球1、5奪三振。
初回の先頭打者を歩かせて以降、四球は一つも出さなかった。
榊原監督が水城を見る。
「初戦はどうだった?」
水城は少し考えてから答えた。
「初回は、色々やろうとしすぎました」
「他には?」
「点差が開いてから、一回雑になりました」
「そうだな」
榊原監督が頷く。
「緊張しても普段と違うことを増やしすぎない。楽になっても、普段やっていることを減らさない。今日は両方出たな」
「はい」
「ただ、どっちも試合中に自分で気づいて戻した。それは収穫だ」
水城が頷いた。
数字だけを見れば、8対1の七回コールド。
それでも完璧ではない。
初回の四球と先制点。
点差が開いてから、一度だけ単調になった投球。
勝った試合の中にも、次へ持っていくものは残っている。
その頃、神代はスコアボードを見ていた。
自分は一度もグラウンドへ出なかった。
打席にも立っていない。
一球も投げていない。
それでも、蒼凛は勝った。
それは当然のはずだった。
神代一人で六試合を勝つつもりなど、最初からない。
だが実際にベンチから公式戦の一勝を見ると、練習試合の時とは少し違って感じた。
「怜司」
隣に九条が来る。
「何?」
「出番なかったけど、どう?」
神代は少し考えた。
「別に問題ない」
「そうじゃなくて」
九条が笑う。
「初めての公式戦、ベンチで見てて」
神代はグラウンドを見る。
水城が朝倉と話している。
轟は自分の最後の打球について御堂に何か話していた。白石と鷹野も走塁について確認している。
黒崎だけは、まだ勝ったことを大げさに喜んでいた。
スタンドでは桜庭たちがこちらへ手を振っている。
神代はもう一度スコアボードを見る。
「あと五つだな」
「やっぱそこか」
「でも」
九条が神代を見る。
「何?」
「俺が出なくても勝てたことは良かった」
九条の表情が少し変わった。
神代は続ける。
「それは大事な収穫だった」
自分が投げなくても。
自分が打たなくても。
自分が守らなくても。
十一人の中の九人が試合へ出て、自分たちで考えながら公式戦を一つ勝った。
今の蒼凛にとって、その意味は小さくない。
九条が少し笑った。
「前のお前なら、自分が出た方が勝率高いとか言ってそうだけどな」
神代は少し考える。
「今でもそう思う」
「そこは変わってないのかよ」
「事実だからな」
九条が笑った。
神代も僅かに口元を緩める。
西東京大会、初戦突破。
水城湊、7回1失点完投。
甲子園まで、あと5勝。




