開幕
翌週。
放課後の部室で、十一人は一枚の紙を囲んでいた。
西東京大会の組み合わせ表。
いくつもの高校名が細い線で繋がり、
その先には一つしかない決勝の枠がある。
これまで何度も練習試合の予定表を見てきたが、今度は意味が違った。
ただし、その話に入る前に榊原監督から伝えることがあった。
「大会の背番号を発表する」
その一言に、黒崎が真っ先に反応した。
「きた!」
九条が横を見る。
「大雅、分かりやすいな」
「当たり前やろ」
黒崎が欲しがっている番号は一つしかない。
榊原監督は手元の登録表へ視線を落とした。
「背番号1、黒崎」
一瞬の間があった。
黒崎の表情が大きく変わる。
「よっしゃ!」
右拳を握った。
「そんなに嬉しい?」
水城が聞く。
「嬉しいに決まっとるやろ。1番やぞ。エース番号や」
黒崎は入学した時から、神代を超えて蒼凛のエースになると何度も口にしてきた。
球速でも。
投手としての実力でも。
今の自分が神代に届いていないことは、本人が一番分かっている。
それでも背番号1が欲しいという気持ちは変わらなかった。
榊原監督が黒崎を見る。
「お前からはエースへの意欲を誰よりも感じたから渡したまでだ」
黒崎の笑みがさらに大きくなる。
「ありがとうございます!」
「ただし」
すぐに続いた言葉で、黒崎が止まった。
「1番を渡したからといって、全試合お前を中心に回すわけじゃない」
「……はい」
「神代も水城もいる。相手と状態を見て、
その時一番勝てる方法を選ぶ」
黒崎は僅かに口を尖らせたが、すぐに頷いた。
「分かってます」
神代が横から見る。
「本当に?」
「分かっとるわ!」
「ならいいけど」
「お前に言われたないねん!」
水城が笑った。
榊原監督はそのまま続きを読み上げる。
「背番号2、朝倉」
「はい」
「背番号3、神代」
「はい」
神代は黒崎とは対照的に、特に表情を変えなかった。
「背番号4、白石。背番号5、轟。背番号6、九条」
三人が順番に返事をする。
「背番号7、藤堂」
「はい」
藤堂が丁寧に答えた。
「背番号8、鷹野。背番号9、御堂」
「はい」
「背番号10、水城」
「はい」
水城はいつも通り落ち着いている。
黒崎が隣を見る。
「湊、10番でええん?」
「僕は別に番号にこだわってないから」
「もっと悔しがれや」
「大雅が1番で嬉しいならそれでいいんじゃない?」
「なんやその余裕ある感じ」
「背番号11、橘」
「はい!」
最後に橘が明るく返事をした。
榊原監督は登録表を机へ置いた。
「背番号は決まった。だが、大事なのは番号じゃない。大会で誰をどう使うかは別の話だからな」
黒崎が自分の背番号をもう一度確認する。
それでも口元の笑みは消えなかった。
神代はそんな黒崎を見てから、
机の上の組み合わせ表へ視線を戻した。
ここから先に大事なのは結果だった。
黒崎が上から下まで目を通す。
「これ、六回勝ったら甲子園やんな?」
「そうだね」
朝倉が答える。
蒼凛はノーシード。
初戦から勝ち上がり、決勝まで六試合。
一度でも負ければ、その時点で夏は終わる。
九条が組み合わせ表を見ながら口を開いた。
「こうして見ると長いな」
「たった六試合だろ?」
神代が言う。
「数字にしたらそうだけど」
「数字にしなくても六試合だろ」
「そういう話じゃない」
九条が呆れたように返した。
黒崎はすでに先の山を見ていた。
「ここ、強いんちゃう?」
指を置いたのは、かなり先の位置だった。
榊原監督が頷く。
「去年、西東京代表として甲子園に出た学校だ。順当に勝ち上がれば、準々決勝で当たる可能性がある」
部室の空気が少し変わった。
「ええやん」
黒崎が笑う。
「去年の甲子園組倒して、そのまま優勝したったら分かりやすいやろ」
「その前に三つ勝たないと当たらないけどね」
水城が言う。
「そんなこと分かっとるわ」
神代は二人の会話を聞きながら、組み合わせ表の最も近い場所を見ていた。
初戦。
『都立南台高校』
甲子園出場経験はなく、近年も西東京で目立った成績は残していない。
少なくとも、横浜星央や六月に戦った私立校ほどの戦力ではない。
だが、それだけだった。
弱い相手だから勝てる。
神代はそう考えなかった。
六月の練習試合だけで二度負けた。
一度は情報を共有することを意識しすぎて、逆に打者が迷った。
もう一度は、一つ一つなら珍しくもない小さな要素が終盤に重なった。
原因は分かった。
修正もしてきた。
だが、原因が分かることと、もう二度と起こらないことは同じではない。
榊原監督が十一人を見る。
「相手の名前を見て安心するなよ」
何人かが顔を上げた。
「強豪じゃない。優勝候補でもない。それは事実だ。だが、お前たちが蒼凛として公式戦を戦った経験がないのも事実だ」
黒崎の笑みが少し消えた。
中学時代なら、全員が公式戦を経験している。
しかし蒼凛学園としては初めてだ。
一年生十一人。
新設されたばかりの学校。
このユニフォームで、負ければ終わる試合を戦ったことは一度もない。
「練習試合で負けたなら、次に試せる」
榊原監督が続ける。
「だが大会で負ければ、その時点で終わりだ」
誰も言葉を挟まなかった。
神代は組み合わせ表を見る。
三年間、公式戦で一度も負けない。
一年夏から始まる甲子園五連覇。
中学三年の夏を捨て、日本中から選手を集め、十一人でこの学校へ入った。
その計画の最初の一試合が、ようやく来る。
榊原監督が組み合わせ表の横へ、もう一枚の紙を置いた。
「初戦のスタメンも決めた」
黒崎がすぐに反応する。
「先発、俺ですか?」
「違う」
「え?」
背番号1をもらったばかりの黒崎が固まった。
九条が思わず笑う。
「さっき監督に言われたばっかじゃん。1番でも全部投げるわけじゃないって」
「いや、分かっとるけど! 初戦くらいあると思うやろ!」
「一番ショート、九条」
「はい」
榊原監督は黒崎を無視して読み上げていく。
「二番セカンド、白石。三番ライト、御堂。四番サード、轟」
順番に返事が続く。
「五番キャッチャー、朝倉。六番センター、鷹野。七番ファースト、藤堂。八番レフト、橘」
「はい」
藤堂は背筋を伸ばして返事をした。
そして最後。
「九番ピッチャー、水城」
「はい」
水城が静かに答える。
黒崎が榊原監督を見る。
「ほんまに俺ちゃうんですか?」
「聞いてただろ」
「聞いてましたけど!」
水城が横から笑う。
「背番号10が先発だね」
「今それ言う?」
「事実でしょ?」
「怜司みたいな言い方すんなや!」
黒崎はそこで気づいたように、もう一人を見る。
「……怜司も出えへんの?」
「そうみたいだな」
答えたのは神代本人だった。
黒崎の眉が上がる。
「お前が?」
「ああ」
榊原監督が補足する。
「初戦は神代と黒崎をベンチに置く。よほど必要にならない限り、使うつもりはない」
九条が神代を見る。
「納得してんの?」
「してる」
即答だった。
「意外だな」
「何が?」
「公式戦の最初くらい、自分で出たがると思ってた」
神代は少し考えた。
「俺が出る必要があるなら出る。でも、今の南台を相手に最初から俺を使う必要性は低い」
黒崎が鼻で笑う。
「自分で言うと腹立つな」
「事実だろ」
「そういうとこや!」
榊原監督は二人を放っておき、水城を見る。
「水城には基本的に最後まで任せるつもりでいる」
今度は水城も少しだけ表情を変えた。
「完投ですか?」
「できるならな」
全員の視線が水城へ集まった。
水城は派手な投手ではない。
球速なら黒崎の方が上。
投手として持っている能力の幅なら神代が圧倒的に上だ。
それでも、相手打者から腕が見えにくいフォームと、数字以上に速く感じるストレートがある。
最近は投球までの間だけでなく、セットに入るまでの時間や視線、呼吸まで使い始めている。
そして何より、相手に対応された後、
自分で変え返すことを覚え始めていた。
神代が榊原監督へ聞く。
「球数はどうしますか?」
「決めない。水城自身と朝倉に考えさせる。ただし、無理をさせるつもりはない。状態を見て俺が止める」
「分かりました」
水城が頷いた。
黒崎はスタメン表をもう一度見る。
背番号1。
それでも初戦はベンチ。
納得していない顔ではあるが、以前の黒崎ならもっと食い下がっていたかもしれない。
だが、組み合わせ表を見る。
初戦。
その先。
さらに先。
六つ全てを同じ投手で勝つわけではない。
「……まあ、湊が抑えたらええだけですもんね」
「そういうこと」
水城が答える。
「大雅は次があるかもしれないし」
「かもしれないってなんや」
「監督が決めることでしょ?」
「それはそうやけど」
神代は二人のやり取りを聞きながら、
スタメン表を見ていた。
自分がいない九人。
少し前までなら、その組み合わせで公式戦を始めることに違和感を覚えていたかもしれない。
自分が投げる。
自分が打つ。
自分が守る。
その方が勝率は上がる。
今でもその計算自体は変わっていない。
だが、『それだけでは三年間は勝てない』
十一人しかいない。
誰か一人が出られなくなる可能性もある。
自分がマウンドに立たない試合もある。
そして横浜星央に負けてから、
神代はもう一つ知った。
強い選手を並べるだけでは、強いチームにはならない。
なら、自分がグラウンドにいない公式戦で、この九人がどう戦うのか。
それを見る価値はある。
その日の練習。
ブルペンには水城と朝倉が入っていた。
神代は少し離れた場所で打撃練習をしている。
背番号1をもらった黒崎も、隣のブルペンでいつも通り投げ込んでいた。
水城がセットに入る。
投球。
朝倉のミットへストレートが収まった。
もう一球。
今度は僅かに長く持つ。
三球目は逆に早い。
朝倉がボールを返した。
「湊」
「何?」
「今日、ちょっと狙いすぎじゃない?」
水城が動きを止める。
「そう見える?」
「うん」
水城は左手で軽く首筋を触った。
「四球出したくないなって思ってた」
「大会だから?」
「多分そうだね」
朝倉は少し考えてから返す。
「だったら今気づけてよかったじゃん」
水城が笑った。
「確かに」
以前なら、ここで神代を見る選手もいた。
どう直すべきか。
どう投げるべきか。
答えを知っている人間を見る。
だが、水城は神代を見なかった。
「じゃあ蓮、次ちょっと構える位置変えて」
「どうする?」
「いつもよりコースを少し広く使いたい」
「分かった」
二人だけで話が進む。
神代はバットを振りながら、その声を聞いていた。
振り返らない。
その必要がない。
ならばそれでいい。
そして七月がやってきた。
西東京大会が開幕。
初戦当日。
球場のスタンドは、まだ空席の方が圧倒的に多かった。
蒼凛学園は新設校で、野球部の歴史もない。応援団もなければ、学校全体で野球部を応援する文化もまだできていない。
それでも三塁側のスタンドには、見慣れた三人がいた。
「思ったより広いね」
桜庭がグラウンドを見回す。
隣では篠宮が大会のパンフレットを開いていた。
「練習試合と全然違う感じがする」
「そりゃ大会だからね」
千夏が答える。
桜庭はグラウンドへ視線を戻した。
アップをする蒼凛の選手たちの中から、
すぐに一人を見つける。
「怜司くんいた」
篠宮が横を見る。
「見つけるの早いね」
「当然でしょ」
「何が当然なの?」
「怜司くんだから」
篠宮は少し笑った。
今日は天城の姿はない。
陸上部の活動が入っているため、
大会序盤から毎試合来られるわけではなかった。
桜庭がしばらくグラウンドを見てから首を傾げる。
「でも、怜司くんどこ守るの?」
千夏は父から事前に聞いていたことを伝える。
「今日は出ないみたい」
「え?」
桜庭が振り返った。
「出ないの?」
「スタメンには入ってないよ」
「怪我とか?」
「違うと思う」
篠宮もメンバー表を見る。
「神代くんと黒崎くんがベンチなんだ」
桜庭は少し残念そうにしたが、すぐにグラウンドへ視線を戻した。
「じゃあ今日は水城くんたちを応援する」
「切り替え早いね」
「蒼凛が勝たないと次の怜司くんも見られないでしょ?」
「結局そこなんだ」
千夏が笑った。
グラウンドでは、水城がブルペンから戻ってきた。
朝倉が隣を歩いている。
「どう?」
朝倉が聞く。
「普通かな」
水城が答えた。
「普通?」
「緊張してる」
朝倉が少し意外そうに見る。
「普通に緊張するんだ」
「僕を何だと思ってるの?」
「湊ってあんまり顔に出ないから」
黒崎が近づいてくる。
「緊張する必要ないやろ」
「大雅はしないの?」
「せえへん」
「嘘だね」
「なんでや!」
水城が笑う。
少しだけ肩の力が抜けた。
神代はベンチ前からその様子を見ていた。
水城が緊張している。
それ自体は問題ではない。
問題なのは、その緊張によって普段できていることができなくなることだ。
先ほどのブルペンを見る限り、致命的な変化はない。
ただ、それも試合が始まれば変わるかもしれない。
榊原監督が十一人を集めた。
「初戦だ」
全員が監督を見る。
「相手がどこかは関係ない。練習してきたことをやれ。それでも、何かは起きる」
六月に何度も経験した。
思っていた通りにならない。
相手が変える。
自分たちも変える。
それらの小さなことが重なる。
「その時は十一人で考えろ」
榊原監督が言った。
神代は何も付け加えなかった。
以前なら、自分から何か言っていたかもしれない。
水城の投球。
相手の特徴。
守備位置。
打席で見るべきもの。
伝えられることはいくらでもある。
だが今は、朝倉が水城と話している。
白石と九条は相手の守備練習を見て、
御堂と轟は相手投手の投球を確認している。
鷹野と藤堂も走者が出た時の守備について話し、橘は外野からの返球位置を確認していた。
黒崎もベンチから相手打線を見ている。
十一人が、それぞれで考えている。
神代は僅かに口元を緩めた。
やがて場内にアナウンスが響く。
両校の選手がベンチから出た。
整列。
向かい合う二つのチーム。
蒼凛学園野球部にとって、初めての公式戦。
三年間、一度も公式戦で負けない。
甲子園を五回制覇する。
口にするだけなら簡単だった計画。
だがここから先は違う。
一つでも落とせば、その瞬間に終わる。
審判の声が響いた。
「礼!」
整列を終えると、水城がマウンドへと向かった。
九人がそれぞれの守備位置へ散っていく。
水城がマウンドへ上がる。
黒崎は、神代とともにベンチへ戻った。
初戦、自分たちは出ない。
だが、それでいい。
今日確認するべきなのは、神代怜司が公式戦を勝たせられるかではない。
自分がグラウンドにいなくても、この十一人が一つのチームとして勝てるかどうか。
神代はマウンドの水城を見る。
蒼凛学園の、負けられない三年間が始まった。




